歴史跡トレキング 索引
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1.有木別所の跡地 高麗寺山門跡~福田海 2023.4.17 「83」
鬼ノ城
2.第1回 歴史跡トレキング 鬼ノ城 №1 2018.3.15 「4」
3.第1回 歴史跡トレキング 鬼ノ城 №2 2018.3.15 「4」
4.第1回 歴史跡トレキング 鬼ノ城 №3 2018.3.15 「4」
吉備中山
5.第2回 歴史跡トレキング 吉備中山 №1 2018.4.12 「5」
6.第2回 歴史跡トレキング 吉備中山 №2 2018.4.12 「5」
楯築遺跡 鯉喰神社
7.第3回 歴史跡トレキング 楯築遺跡・造山古墳・鯉喰神社 2018.5.11
8.第3回 歴史跡トレキング 楯築遺跡 2018.5.11 「6」
9.第3回 歴史跡トレキング 鯉喰神社 2018.5.11 「6」
造山古墳
10.第3回 歴史跡トレキング 造山古墳 2018.5.11 「6」
11.幸山城跡・茶室・七福神・茶蘭呉
12.第4回 歴史跡トレキング 福山城跡 2018.10.26 「12」
13.第4回 歴史跡トレキング 幸山城跡・茶室・七福神・茶蘭呉 2018.10.26 「12」
秦の郷
14.第5回 歴史跡トレキング 秦の郷 2018.11.30 「13」
金山城跡
15.第6回 歴史跡トレキング 金山城跡 2019.1.30 「16」
操山
16.第7回 歴史跡トレキング 操山 2019.3.1「17」
熊山遺跡
17.第8回 歴史跡トレキング 熊山遺跡 2019.3.28 「18」
18.第9回 歴史跡トレキング 河原邸・虎倉城 2019.12.10 「28」
19.第10回 歴史跡トレキング 玉島・円通寺・西爽亭 2020. 予定
20.第10回 歴史跡トレキング 玉島・円通寺・西爽亭 2020.3.7 「31」
21.歴史トレキング下見 徳倉城・鬼が城 2020.2.3 「31」
22.第11回牟佐大塚古墳・古代山陽道高月駅・両宮山古墳・日野富子 2020.4.8 「36」
10.第3回 歴史跡トレキング
造山古墳 2018.5.11
全国第4位の規模をも持つ5世紀前半の前方後円墳。
全長約360m、後円部径約224m、高さ約27~32.5m。
三段築成。後円部墳頂には形象埴輪が、墳丘斜面の各段には大量の葺石と円筒埴輪列が認められる。
墳丘上まで上がれる全国最大の前方後円墳として知られる。
6基の陪塚(ばいづか)があり、馬形帯鈎が出土した榊山古墳、直弧文が彫られた石障をもつ千足古墳が著名。
(第1・2・3・4・5・6古墳)
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後円部 後円部の頂上には、戦国時代、高松城水攻めの時に毛利方が築城、土塁も残る。
鬼ノ城
最上稲荷
石棺棺身 阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)
石棺蓋石
千足古墳(造山第5号墳)
全長75m、3段築成の前方後円墳。吉備地方で最古型式の横穴式石室が築かれ、石室内には直弧文の刻まれた石障がある。
鏡・碧玉製勾玉(へきぎょくせいまがたま)・鉄鏃(てつぞく)・埴輪などが出土している。
1号墳(榊山古墳)
直径約40mの円墳ないし造り出しを持つ円墳で、神獣鏡(しんじゅうきょう)・銅鈴(どうれい)・馬形帯鈎(うまがたたいこう・バンドの留め金)が出土したと伝えている。
また伽耶系陶質土器も出土している。
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9.第3回 歴史跡トレキング 鯉喰神社弥生墳丘墓 2018.5.11 「6」
吉備津駅から旧山陽道を下って足守川を渡ったら鯉喰神社という小さな社がある.足守川に沿って下れば楯築遺跡がある片岡山である.その間1kmにも満たない.
亀石(ご神体)は楯築の山上にあるが楯築神社は大正時代に鯉喰神社に合祀された.鯉喰神社は弥生墳丘墓の上に建てられたことがわかって歴史家に注目されている.
向こうに見える森は楯築遺跡で,このあたり吉備線は古代吉備の国の中心である.
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鯉喰神社弥生墳丘墓 倉敷市矢部
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8.第3回 歴史跡トレキング 楯築遺跡 2018.5.11
巨石は吉備津彦伝説では、鬼である温羅(うら・おんら)と戦ったときに、矢を跳ね返すために作った石の楯(たて)と言われています。
でもそれは伝説で、この地方に有力な政治勢力があったのは間違いありません。吉備地方には100メートル以上の巨大古墳が18基もあります。
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7.第3回 歴史跡トレキング 楯築遺跡・造山古墳・鯉喰神社 予定 2018.5.11
楯築遺跡
国指定史跡の楯築遺跡は、弥生時代後期(2世紀後半頃)の墳丘墓で、同時期の墳丘墓では全国でも最大級の大きさです。
『倉敷市歴史文化基本構想』では「古代吉備に関連する遺跡群」の中心となる文化財として位置づけており、
日本遺産「「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま ~古代吉備の遺産が誘う鬼退治の物語~」では構成文化財の一つとして広く周知されています。
楯築遺跡の恒久的な保存を長期的な視点のもとに適切に実施するとともに、市民や観光客等に親しまれる遺跡としてより一層の活用を図ることを目的として保存活用計画を策定するものです。
造山古墳
造山古墳の周辺には、大小6基の古墳がある。陪塚(ばいづか)と呼ばれ、主墳(造山古墳)の被葬者の一族か、有力な従者の墓と考えられている。
造山古墳は、築造時期が5世紀前半に推定されている巨大な前方後円墳であり、古墳時代(3世紀末~7世紀初め)に全国で築造されている前方後円墳5,200基の内で、第4位の規模を占めています。
前方後円墳は、「倭国(わこく)」と呼ばれていた古墳時代の日本列島において、大和(現在の奈良県)を中核にした政治体制の下で、社会的ステイタスに基づいて築造された首長の墓と評価されています。
造山古墳は、全長350m、高さ31m、平面積約7.8haの巨大な墳丘規模を形作っているばかりでなく、約9.6haの広大な墓域の中に築造されていることが、地割から復元できます。全国の多くの前方後円墳に見られるような、
水を湛(たた)える周濠(ごう)は無かったと判断されますが、吉備地方でのそれまでのものとは規模と形態を異にしています。
全国第4位の規模は、この古墳の築造時には最大規模であったと考えられます。
第1位の大山古墳(伝仁徳天皇陵=全長486m)と第2位の誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵=全長425m)とは、造山古墳より後の時期であり、第3位の石津ヶ丘古墳(伝履中天皇陵=全長365m)が同時期でほぼ同規模ですので、
従来の全国最大規模の渋谷向山古墳(伝景行天皇陵=全長300m)を、大きく更新した最大規模観で出現していたと評価されます。
造山古墳に葬られている人物は、通説では大和(中央)政権にきっ抗した吉備(地方)政権の大首長とされています。しかし、最大規模観の達成、少なくとも築造時に限れば全国最大規模と判断されることと、
倭国の大王陵に想定されている同時期の巨大な前方後円墳との墳丘形態の類似性から、倭国の政治体制の頂点である大王とみてよいように思われます。
鯉喰神社
吉備の国平定のため吉備津彦の命が来られたとき、この地方の賊、温羅(うら)が村人達を苦しめていた。
戦を行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに従うと、温羅はついに矢尽き、刀折れて、自分の血で染まった川へ鯉となって逃れた。
すぐ命は鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。それを祭るため村人達はここに鯉喰神社を建立した。
社殿は元禄14年(1701)4月、天保13年3月に造営し現在に至った。大正6年4月、庄村矢部字向山村社楯築神社を合祀した。
大正6年10月4日神饌幣帛供進神社に指定された。
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楯築弥生墳丘墓 2015.07.11 「232」
5.第2回 歴史跡トレキング 吉備中山 №1 2018.4.12 「5」
吉備の中山は、遠い昔まだこの地方が吉備の国と呼ばれていた頃、その中心にあったことがその名の由来とも伝えられています。
この山に備前一宮の吉備津彦神社と備中一宮の吉備津神社(本殿拝殿・国宝)が寄り添うように鎮座していることからもこのことがうなづけます。
温暖な気候と肥沃な土地、この山裾に海が広がっていた時代には海運業の要所としても恵まれ、ここに住む人々は大きな力を持っていたと考えられます。
吉備の中山には、最古の前方後円墳の一つといわれる矢藤治山古墳や、100mを超える大型前方後円墳の尾上車山古墳(国指定史跡)、中山茶臼山古墳(宮内庁管理地)があります。
また後期古墳も、立派な石棺の残る石舟古墳などが山のあちこちにあります。このことはこの地方が非常に栄えていたことを物語っています。
大和の国にも対抗しうる大きな力を持った吉備の国は、後に備前、備中、備後さらには美作に分国されることになります。
このとき備前と備中は、祭祀をする上で大切な吉備の中山を仲良く二つに分ける形で、この山の真ん中に国境を定めました。
国境は南にある境目川から山にあがり、尾上車山古墳、中山茶臼山古墳を半分に分け、頂上の近くから北の峰に下る細谷川へと続いています。
吉備の中山は、古くから都でも有名な山でした。平安時代の古今集には「まがねふく吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」、
新古今集には「ときはなる吉備の中山おしなべてちとせを松の深き色かな」、その他いろいろな歌集に詠まれています。
清少納言は、随筆『枕草子』の中で、「山は、小倉山。三笠山。‥‥。吉備の中山。嵐山。更級山。……。」と、都から遠い吉備の中山をあげています。
平安時代末期、平清盛を支えたのが備前の難波経遠、備中の妹尾兼康でした。
平清盛の信頼が厚かった備前の難波氏は、鹿ヶ谷で平家追討の密議を謀った大納言藤原成親を吉備の中山で殺害します。このことが「平家物語」「源平盛衰記」などに出てきます。
鎌倉初期に源平合戦で消失した東大寺を復興した重源は、吉備津彦神社の近くに常行堂を建て、中に一丈六尺(丈六)(約5m)の阿弥陀像を祀りました。
また山の西側、今の真如院の近くに庭瀬堂を建て、同じく丈六の阿弥陀像を奉安しました。
現在は常行堂も庭瀬堂もありませんが、重源が開山した兵庫県小野市に残る浄土堂は、国宝で、快慶の作とされる丈六の阿弥陀像が輝いています。
重源も吉備の中山に魅力を感じたのでしょう。
吉備の中山は、太古より神奈備山として、人々から崇められてきた山なのです。
D.Shostakovich - Waltz No.2 (from the Jazz Suite No.2)
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歴史跡トレキング 索引
2.第1回 歴史跡トレキング 鬼ノ城 №1
その歴史がいまだ解明されていない謎の山城
「日本100名城」のひとつ。大和朝廷によって国の防衛のために築かれたとされる古代山城。
鬼ノ城は歴史書には一切記されておらず、その歴史は解明されずに謎のままです。
現在は史跡調査や整備、復元を行っており、角楼跡や城門跡を訪れることができます。
復元された西門から望むパノラマ風景は素晴らしい。山頂の手前には復元の過程や遺跡が出土した時の様子を紹介した「総社市鬼ノ城ビジターセンター」があります。
城壁に沿って整備された全長2.8kmのウォーキングコースもおすすめです。
「遥かなる山の呼び声、The call of the far away hills」ビクター・ヤング、 Victor Young
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歴史時代別 索引
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1.有木別所の跡地 高麗寺山門跡~福田海 2023.4.17
吉備津神社から吉備津彦神社に向かう山裾の道を少し歩くと写真のような長床が見えてくる。
ここは、平家物語で知られる有木別所の跡地であり、青蓮寺、高麗寺等の寺跡でもある。
長床ー修行をする山伏や僧侶たちが宿泊したり、食事の支度をする場所
僧俊寛らと共に平家打倒を誓った”鹿ヶ谷”の密議が露見、非業の最後を遂げた藤原成親の配流地としても知られている。
山の中腹にはその遺跡がある。
有木山は「平家物語で鹿ヶ谷の謀議にやぶれ、
流配の身となり最期を遂げた大納言 藤原成親の流配の地有木の別荘」で知られた所であり、
高麗寺や青蓮寺跡でもある。
Nostalgia. Yo-Yo Ma Plays Ennio Morricone
成親涙 1177鹿ケ谷の陰謀
灯台躑躅(ドウダンツツジ) この花が白い涙のよにみえてきた。
福田海は、聖徳太子、役行者、僧行基の法統に立つ中山通幽(なかやまつうゆう)師が、
明治33年に開創、比叡山より頂いた「不滅の燈明」をかかげた陰徳積善をモットーとする宗教団体。
門前町宮内
歴史跡トレキング 索引
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長瀞ながとろ ブラタモリ
幅約80m、長さ約500mにわたり段丘状に広がっている岩石。
これは長瀞一帯に分布する、白亜紀約8000万〜7000万年前、海底で流出した玄武岩や火山噴出物や泥、砂が海洋プレートとともに地下15〜30㎞まで沈み込み、
5000〜10,000気圧という大きな力と熱が加わることによってできた結晶片岩です。
岩畳は、鉱物が圧力に対して垂直方向に、平面上に配列しているため、片理面に沿って剝がれやすくなっています。
また、地下深くから隆起した際にできた縦横に走る割れ目である節理、そして荒川による侵食によってできた地形です。
長瀞の地質は貴重な岩石が露出する地球の窓だった!
荒川がつくりだした峡谷が4㎞にわたり続き、畳2万枚分もの岩畳(いわだたみ)が広がる景勝地、長瀞(ながとろ)。
Das gibts nur einmal, das kommt nicht wieder
長瀞の地層:岩畳
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地球の窓 長瀞ながとろ 日本地学の発祥の地
紅簾石片岩こうれんせきへんがん 石英・長石以外に紅簾石を多く含む結晶片岩。
片理
節理