びわ湖・勝手気ままな日々!

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鴨長明『方丈記』冒頭・・ ー無情ー

2016年07月13日 | 無情

 

私の30才~40才は京都府立東宇治高校在職であった。

ー 参考 ーにある京都市伏見区日野の山、中腹にある

高校からの距離は1.5㎞ほどのところに位置する。何度も訪れた 

ことがある。方丈の手前500㍍には、親鸞聖人出身となる日野誕生院がある。

 

法界寺の裏手には、今も日野家の廟所があり、

親鸞聖人の父・有範、母・吉光女が眠っ ています。

そんな日野の里で、日野誕生院は、親鸞聖人の誕生地 、

法界寺で生まれた親鸞聖人でした。

日野は、『方丈記』の著者である鴨長明の住んだ地であり、

親鸞の生誕地としても知られる。

かつて山城国宇治郡日野と呼ばれたこの地は、日野家の領地であった。

 

http://sirdaizine.com/CD/Houjyouki-boutou.html


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ゆく河の流れは絶ずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある人と栖と、またかくのごとし。

たましきの都のうちに棟を並べ、
甍を争へる高き賤しき人の住ひは、
世々を経て尽きせぬものなれど、
これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。

或は去年焼けて、今年作れり。
或は大家ほろびて小家となる。

住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、
いにしへ見し人は、ニ三十人が中にわづかにひとりふたりなり。

朝に死に夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。

知らず、生れ死ぬる人いづかたより来りて、
いづかたへか去る。

また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、
何によりてか目を喜ばしむる。

その主と栖と無常を争ふさま、
いはばあさがほの露に異ならず。
或は露落ちて、花残れり。残るといへども
朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、
露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。


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河の流れは絶えることなくどこまでも流れていき、
しかもそれは元と同じ水ではない。

よどみに浮かぶ泡は一方では消え一方ではでき、
長い間留まっているということがない。
世の中の人とその住居とも、同じようなものだ。

玉を敷き詰めたような美しい都のうちに棟を並べ、
甍の高さを競い合っているような高貴な人や
賤しい人のすまいは、永遠に無くならないように思えるが、
これを「本当か?」と尋ねてみると、
昔あった家でかわらず在り続けているのは稀である。

あるいは去年焼けて今年建てなおしたり。
あるいは大きな家が崩されて小家になったり。
住んでいる人も同じだ。

場所は変わらず、人は多いといっても
昔見た人はニ三十人のうちにわずかに
一人二人といったところだ。

朝に死んで夕方に生まれる、
人の性質はまったく水の泡のようなものだ。

私にはわからない。

生まれては死んでいく人々が
どこから来てどこへ去っていくのか。

またこれもわからない。この世で仮の宿にすぎないのに、
誰のために心を悩ませるのか、何によって目を喜ばせるのか。

その、主人とむその住居が無常を競い合っている様子は、
言ってみれば朝顔の露と変わらない。

あるいは露が落ちて花が残ることもあるだろう。
残るといっても、朝日とともに枯れてしまう。

あるいは花がしぼんで、露がまだ
消えないでいることもあるだろう。

消えないといっても、
夕方まで持つものではない。

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-参考-

長明方丈石の石碑

庵跡 苔に年月感じ
鴨長明の庵跡を今に伝える方丈石の石碑(京都市伏見区)
 人が住んでいたとはにわかには信じがたい。石がむき出しの傾斜のある地面、周囲は小さな谷川に水が流れているものの、木々に囲まれて薄暗い。「ゆく河の流れは絶えずして…」。中世の代表的な随筆「方丈記」を著した鴨長明の一丈(三メートル)四方の庵があった場所、と伝える石碑だ。
 京都市伏見区の市日野野外活動施設の近くにある林道を行くとたどり着く。進むにつれて道の両わきにシダが茂り、だんだん坂道がきつくなる。歩き始めて約五分、息が弾み始めたころに目の前に巨大な岩が現れた。その上面に石碑はある。
 石碑には「明和壬辰夏五」(一七七二年五月)とあり、裏面に儒者の平安巌垣彦明が作った漢文が刻まれている。少し苔(こけ)むして年月を感じる。地元の資料によると、一九六八(昭和四十三)年に何者かに持ち去られ、翌年に見つかったという。
 知り合いと二人で訪れた東京都文京区の建築設計事務所経営の小出正子さん(五八)は、「シンプルな建物は日本建築の一つの流れとしてあるのでは」と、長明の生きた時代から今に思いをはせた。
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