私の30才~40才は京都府立東宇治高校在職であった。
ー 参考 ーにある京都市伏見区日野の山、中腹にある
高校からの距離は1.5㎞ほどのところに位置する。何度も訪れた
ことがある。方丈の手前500㍍には、親鸞聖人出身となる日野誕生院がある。
法界寺の裏手には、今も日野家の廟所があり、
親鸞聖人の父・有範、母・吉光女が眠っ ています。
そんな日野の里で、日野誕生院は、親鸞聖人の誕生地 、
法界寺で生まれた親鸞聖人でした。
親鸞の生誕地としても知られる。
かつて山城国宇治郡日野と呼ばれたこの地は、日野家の領地であった。
http://sirdaizine.com/CD/Houjyouki-boutou.html
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ゆく河の流れは絶ずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と栖と、またかくのごとし。
たましきの都のうちに棟を並べ、
甍を争へる高き賤しき人の住ひは、
世々を経て尽きせぬものなれど、
これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。
或は去年焼けて、今年作れり。
或は大家ほろびて小家となる。
住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、
いにしへ見し人は、ニ三十人が中にわづかにひとりふたりなり。
朝に死に夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生れ死ぬる人いづかたより来りて、
いづかたへか去る。
また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、
何によりてか目を喜ばしむる。
その主と栖と無常を争ふさま、
いはばあさがほの露に異ならず。
或は露落ちて、花残れり。残るといへども
朝日に枯れぬ。或は花しぼみて、
露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。
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河の流れは絶えることなくどこまでも流れていき、
しかもそれは元と同じ水ではない。
よどみに浮かぶ泡は一方では消え一方ではでき、
長い間留まっているということがない。
世の中の人とその住居とも、同じようなものだ。
玉を敷き詰めたような美しい都のうちに棟を並べ、
甍の高さを競い合っているような高貴な人や
賤しい人のすまいは、永遠に無くならないように思えるが、
これを「本当か?」と尋ねてみると、
昔あった家でかわらず在り続けているのは稀である。
あるいは去年焼けて今年建てなおしたり。
あるいは大きな家が崩されて小家になったり。
住んでいる人も同じだ。
場所は変わらず、人は多いといっても
昔見た人はニ三十人のうちにわずかに
一人二人といったところだ。
朝に死んで夕方に生まれる、
人の性質はまったく水の泡のようなものだ。
私にはわからない。
生まれては死んでいく人々が
どこから来てどこへ去っていくのか。
またこれもわからない。この世で仮の宿にすぎないのに、
誰のために心を悩ませるのか、何によって目を喜ばせるのか。
その、主人とむその住居が無常を競い合っている様子は、
言ってみれば朝顔の露と変わらない。
あるいは露が落ちて花が残ることもあるだろう。
残るといっても、朝日とともに枯れてしまう。
あるいは花がしぼんで、露がまだ
消えないでいることもあるだろう。
消えないといっても、
夕方まで持つものではない。
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-参考-
長明方丈石の石碑 |
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