出生は疎開先の瀬田の唐橋から100メートルに位置する母の姉宅(安土家)
その後京都伏見深草で幼・小・中・高・大と過ごした。私自身は深草小代表で伏見区小学校対抗リレーに選考された事もあり深草中で陸上部に入部、3年生で京都市大会で400メートル競走で入賞したのと、市内駅伝で2区区間1位になったくらいで目立つ活躍はなかった。伏見高校入学と同時に陸上部へ1年の部200ハードルで市内3位に入れた顧問花田登先生はその頃京都陸上界強化部のメンバーで四国高知の京都選抜合宿の一員に推薦頂き、分岐点となった。高知では光華や家政の女子選手に負ける屈辱が忘れられない!高2は腰の故障で走れない生活・・高3新設市立塔南高校1期生として伏見工(洛陽と伏見の普通科合併=塔南高校誕生)から去る。
故障も癒えて毎日身体作りばかりを励んでいて、中学当時の陸上顧問の東先生
をあこがれて体育の先生を目標にした。ラッキーに高校免許取得の保体課程に合格し、ここからが私の人生の組み立が始まったと言う事であります。
すべては高2の際の腰痛のお陰なのであります。走れなくなったのも幸い、徹底養生と身体づくりに専念出来た高3まで、幸い大学入学で走り再開!・・一流女子に負けた屈辱!ほぼ3年遅れのデビューだったのです。3つ上の兄は京都大学の陸上競技部に所属していた事も私にとっては闘志に火がつく原動力にもなりました。兄の所属大学には絶対に負けない決意を我が京都教育大陸上部の当時の部員は心1つになった。もちろん関西の強豪大学の仲間入りに強い願望を掲げていたのも確かだ!! 幸い ”やわい身体 ”も、勝利を勝ち取るためには何が何でも力を蓄えねばの思い強く、次第に競技力も向上した。卒業して就職よりも、もっと競技力の向上の気持ち強く、競技続行を視野に就活をした。東山学園へ奉職し生徒と走った。7年間とても感謝している。多くの人のネットワークと精神面に及ぼす力が頂けた。新設2年目東宇治高校へ10年間は生徒に恵まれ、自分もさらに成長出来た。教育大附属高校へ4年間この時、先の京都国体を照準に強化対策本部の一員として努力した。新設5年目の莵道高校で4年間教師としての充実期であった。この後、教育委員会へ3年、私の偏った実務能力の修正に大いに役立つ勉強であった。 山城高校定時制教頭2年間、次に宇治、城南高校教頭3年、府立北嵯峨高校校長2年間(55才)最終の職場、桂高校校長3年間、併せて高校体育連盟会長として3年間を勤める。以下の新聞記事は見にくいですが、私のつたない体育スポーツの集大成として記念にしております。 以 上
新聞記事全体!
思い起こせば、走りっこで学び、イベントを通して人が組織化して、その過程で学び純真な若人から学び助けられ、恵まれた陸上で鍛えられ、スポーツ仲間で学び合う。1つ事が好きになれば 人が育ち 仲間が出来 励まし合う。喜び合う。いい人生!
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