博多住吉通信(旧六本松通信)

 ブログ主が2022年12月から居住を始めた福岡市博多区住吉の生活や都市環境をお伝えします。

山県有朋と大隈重信

2022年10月06日 | 時事
 皆様もよくご存じのように、安倍元総理の国葬における菅前総理の弔辞が評判になっています。岩波新書『山県有朋-明治日本の象徴』(岡義武著 初版1958年)からの引用が特に他の参列者に感銘を与えたとされています。
 私はこのニュースを聞いて驚いてしまったのです。菅前総理は、一体どのような意図で、同書を引用したのかと。安倍元総理の地盤である山口県(長州)出身の「維新の元勲」山県有朋と伊藤博文のエピソードを弔辞に引用することは一見自然に見えるかもしれません。しかし同書を読了した方は不自然に感じる方も多いのではないかと思います。同書は山県の生涯を描いているので、その死と葬儀-「国葬」だったのです-の模様が描かれています。同書の本文193頁(「九 晩年とその死」)からその一部を以下に、ちょっと長くなりますが引用します。
・・・二月九日、葬儀は国葬をもって日比谷公園で取り行われた。・・・文武の高官の参列の下に葬儀が挙行された。しかし不参者の数は相当に多く、場内は寂しかった。これより一か月前に、大隈重信が歿したが、そのときは、同じこの日比谷公園でいわゆる国民葬が行われて、雑踏、盛大をきわめた。これは、大隈が当時「民衆政治家」と称せられて世情一般の間で一種の人気を持っていたことの現れであった。国葬翌日の『東京日々新聞』は、「大隈候は国民葬。きのうは<民>抜きの<国葬>で幄舎内はガランドウの寂しさ」という見出しを附して、次のように述べている、「議会でも協賛した国葬だのに、この淋しさ、つめたさはどうした事だ・・・
 以下、延々と山県の国葬が当時の日本国民から冷たく見放されていた様子の描写が続きます。山県という政治家は重税を当時の国民に課して(「竹槍で、どんと突き出す2分5厘」というやつです)軍備増強に邁進した典型的な「有司専制」の藩閥政治家でしたから国民の人気がなかったのは仕方のないことでした。一方、大隈重信は板垣退助の自由党と共に立憲改進党を率いて有司専制に挑んだ自由民権運動の指導者でしたから国民の人気があったことも良く理解できます。・・・きのうは<民>抜きの<国葬>・・・という表現は実に皮肉が効いていますよね。
 以上のように、同書は安倍元総理の地盤出身の山県がいかに国民に不人気な政治家だったかを詳細に描いているのです。ですから私が菅前総理の立場であれば、同書から引用することは、ちょっと躊躇するというか、しないですね。このような次第で、菅前総理が、何故、同書を弔辞に引用したのか、その意図は何かを考え込んでしまいました。菅前総理の人となりを考えますと、同書から引用するからには同書の内容を精査していたでしょうし、多忙でその時間が取れなかったとしても側近に命じて精査させ、後で政敵に足を掬われる可能性は潰しておくだろうと思われるからです。
 以下、私が妄想する菅前総理の「真の意図」ですが、それは安倍元総理の国葬を契機として、自民党内の安倍派の残党を掃討し、再び自分が首相に返り咲くという一種の「宣戦布告」なのではないかと私は妄想するのです。
 また、菅前総理の弔辞のハイライトである、山県が詠んだとされる伊藤博文を悼む和歌についても追って考察したいと思います。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。