博多住吉通信(旧六本松通信)

 ブログ主が2022年12月から居住を始めた福岡市博多区住吉の生活や都市環境をお伝えします。

死処(死所)を得ること

2022年10月07日 | 時事
昨日の続き)
 菅前総理の国葬における弔辞のハイライトは、山県有朋が暗殺者の凶弾に斃れた盟友の伊藤博文に手向けたとされる短歌「かたりあひて尽くしゝ人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ」でした。『山県有朋-明治日本の象徴』の文中では、この短歌が紹介された後に、山県はこう語ったという著者岡義武先生の説明があるのです。以下に引用します。
・・・これは、伊藤の死を悼んだ彼(山県)の歌である。彼はまた身近なひとびとに、伊藤という人間はどこまでも幸運だった。死所を得た点においては自分は武人として羨ましく思う、とも述懐した・・・(同書の本文108頁より引用)
 いかがでしょうか。現代の私たちには、少し不思議に思える感懐を山県は、この歌に託したようです。旧満州ハルビン駅頭で韓国の民族運動家安重根の銃撃によって斃れた伊藤が「羨ましい」というのは、どのような思いでしょうか。このことは山県が、幕末に吉田松陰の松下村塾で学んだ記憶、そして尊王攘夷運動における経験が影響しているのだろうと私は思います。吉田松陰の門下生たちは、尊王攘夷運動の中で、その多くが若くして非命に斃れています。師の吉田松陰が29歳の若さで安政の大獄の中、冷たい牢獄で斬首刑に処されておりますし、同塾の「四天王」とうたわれた高杉晋作(四境戦争を戦った直後に病死)、久坂玄瑞(禁門の変で幕軍に包囲され自決)、吉田稔麿(池田屋事件で新選組との争闘で落命)、入江九一(禁門の変で戦死)といった人々は、全員20歳代で動乱の中、この世を去っています。師と先輩同輩たちの壮絶すぎる運命を目の当たりしてきた山県であれば、上記の述懐のように、そうした死所に憧れを抱いても全く不思議ではありません。山県は内閣総理大臣になってからも「自分は一介の武弁だから」が口癖(この言葉は上記の書の第三章の表題になっています)だったそうですから「畳の上で死ぬことは恥だ」くらいに思っており、同門の伊藤の悲運すらも羨ましく感じたとしても、これまた不思議ではありません。
 さて、以上のような解釈だとしますと、それでは菅前総理が上記の短歌を安倍元総理に手向けた真意は何でしょうか。まさか安倍元総理の悲運を菅前総理が羨ましく感じたとは思えません。ここからは私の邪推になりますが、おそらく安倍前総理の悲運を奇貨として、菅前総理が、この国の権力を再び掌握する決意を山県の短歌に託したのではないでしょうか。「あなたは(私にとって)ちょうど良い頃合いに、再び権力の座に帰ることの無い場所へと去ってくださった」と。どうも私には、そのように思えて仕方がないのです。

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