’70年代前半東南アジアは日本の経済進出の抗議して反日暴動が吹き荒れた(今も構造的には殆ど変わっていないが)。エコノミック・アニマルという言葉が全盛期の頃である。やがてその反省に立って日本は相手に理解されるにはモノばかりよりココロ、文化を伝えねばという機運が起こった。ボランティアの海外活動もこの頃より盛んになった。
つまりアジアにおける日本、オーバープレゼンスするその顔は紛れもない自動車、電気製品、高級消費雑貨品に至るまでの「モノ」でしかない、というのが内外から批判されたのである。これではいけない、ということでこれではいけない、もっと日本の素顔、文化を発信せねば、という日本の「こころ」発信に強調がなされだしたのである。’80年代に入ってからである。
私に言わせれば日本のアジアにおけるオーバープレゼンスの問題は棚上げされてる。いや最近では日本のココロを知らせるよな振りをしてますますモノの進出を促進しているようにみえる。このココロの紹介の動きも真のものとならず日本のコマーシャルペースに乗ってしまいタイ側のテレビ局の大衆娯楽指向とタイアップしてしまい「ドラえもん」、「忍者服部くん」、「一休さん」などのコミック文化の紹介に一変してしまったのである。つまり、ココロまでもタイのココロの中にいや応なしに進出していったのである。その陰で草の根的民間活動も文字通り草の根で頑張ってきた。私の知り合いのTさんなんかは「日タイ草の根教育交流協会」なるものを立ち上げ農村で日本の素晴らしい児童名作映画の上映活動なんかもがんばってきたが、大手の日本文化進出には及ばなく衰退せざるを得ない状況である。こうしたマスコミを通したタイにおける西欧型近代化、大衆世俗化の一役を両国の利益集団が利用してしまったのである。陰にいるものは儲からないことはしないものである。従ってそうしたテレビ番組は娯楽の機能は果たしてきたのであるが日本の本当のココロを紹介したわけではなかった。あにはからんや、こうしたすりかえは「日本の文化までがタイに侵略するのか!」という批判を誘引したのである。だが現実にはいったん取り外した日本企業の宣伝用看板は再び所狭しと林立し、日本のテレビ娯楽番組も全土でブームとなっている。経済が入るとなんでもエコノミックになるのである。
しばらくのタイの生徒達との談笑ではこうしたマスコミの話題が中心になるということを初めて体験した。彼らの年齢に応じた興味関心は自ずとテレビや漫画など身近なテーマになるのが現状であろう。最後に一人の女生徒が一輪の造花をみんなの前でプレゼントしてくれた。カニヤ先生の配慮だろう。タイのココロとして大切に日本へ持って帰ろう。
カニヤ先生が午前中の最後の授業に出かけた後、特に彼女と親しい同僚のウライという先生と野外活動(彼女たちが独自の児童劇団の活動をしている)のことや英語授業のことなどフリートークをした。その中で一つ気になる話が出た。「カニヤ先生大変困っているんですよ。先週は眠れなかった日もあったようですよ。」とウライ先生。ええ。その話に少しふれてみると、、、毎週土曜日の2時間はパレードの集団訓練がグランドで行われるのであるがその主導は軍の役人であること。そこで外国語科の一部の先生がこれは本務でなし、といってボイコットするケースが出てきたとのことである。当然、理事長は教科主任(外国語科長ではない?)を呼びつけてその対処を迫ったそうである。私は今タイ社会の外面ではおよそ計り知れない静かで緩やかではあるが一つの動きが水面下で興っていることをわずかながら知ることができた思いだった。
廊下の風通しの良い学校食堂で1人8バーツという昼食をウライ先生が給仕してくれてカニヤ先生、古典音楽の先生等と食べる。わずか4時間足らずの学校訪問であったがどの見聞も忘れがたいことばかりだった。カニヤ先生のバイクの後ろに載せてもらってバンポンのバスステーションへ行き、「それじゃあ」と言ってバンコク行きのエアコンバスに乗って別れた。