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タイ・ユング旅行  ㉒バンヤット先生の提言 -’86 夏ー

2021-01-13 12:44:50 | ランシット
 今年2月に私の家に「日本タイ教育交流協会のキムラさんですか?タマサート大学の日本研究センターのバンヤットと申します。」と流ちょうな日本語で電話があった。この日本タイ・・協会とは私が数年前から個人的な思い付きで発足させ細々と活動している組織である。「現在、会員の方は何人ぐらいでしょうか?」と続く。あってなきがごとしの協会なのでこの協会の詳細は別の機会に触れる、と言っておくがバンヤット先生は日本研究センターの所長さんで今回のに訪日の目的の一つが日本にある民間のタイ関係の団体とできれば横のつながりを持つよう当センターもそのための側面援助をしたい、との趣旨であった。身に余るご提案であるが私の側の協会に一言でも語れるようなものもなく今度タイへ行った折に説明させてもらいたい、という段取りになったのである。
 こまごまとした我が協会の活動記録の載ったニュースレターのコピーを携えてドムアン空港近くのタマサート大学ランシットキャンパスを訪れるという事態になったのである。
 ホテルを9時頃に出て当研究センターに着いたのは昼近くになっていた。チャオプラヤーデルタのど真ん中、その水田の赤土を埋め立てた広大な空間である。その敷地にタイ市中どこでも目にするワット(寺院)風の建築物こそがタマサート大学ランシット学者である。その入り口の正面に日本研究センターが位置していた。バンヤット先生はこの時は午後の授業が入っており残念ながらこの昼休みは90分くらいしか対面するチャンスはなかったが先生から学生ランチをいただきながら伺い聞いたことを少し記しておきたい。話の中心はこのセンター設立の経緯についてであった。タイ知識人の間ではこのセンターの設立にはかなり反対があったそうである。ひも付き研究所であり、その役割は日本経済の進出(侵略)の情報拠点化する、という危惧だったそうである。先生によれば半日経済運動が下火になり、「日本とアジアの季節」を謳いあげた福田ドクトリンのアジア重視の外交が打ち出された。その具体化として援助資金が今後何にどのように使われていくのかを注視していく必要があると考えた。援助資金は自分が反対していても誰かのところへ流れて行ってしまう。反対だけしても有効性がない。そうであるならばそれを自分たといで大いに利用しない手はない。そんな考えからセンター作りに関わるようになった、とのことである。
 毎月日本側から予算が送られてくるそうだが、先生によればその予算のタイ部分が日本人学者へ支払う経費に使われるとのこと。先生の給料は約8万円(タイでは高額)、一方、日本人学者へはその10倍が払われるとのこと。この露骨なギャップは日本とタイとの経済ギャップなのであろうが両国の相互の研究にはあまりプラスにはならない感じがした。先生が私に熱っぽくお話しされたことはこうした予算をもっと中等学校レベルの先生や学生生徒間の交流に生かせれないか、という内容であった。日タイ双方の交換制度も考えていきたいというプランも聞かせてもらう。短期間日本から中高校レベルの教師を招へいしタイで日本語履修を行なっているいくつかの高校で日本語を教える。交換としてタイの英語教師が日本で英語を教える、という交換制度の提言である。こうした交換制度を組み立てる場合予算面は当センターやら日本の文部省レベルではことの運ぶ話と思われるがいざ実施となると各都道府県の委員会が一つのネックになる。まず、そこへの働きかけが必要ではないか、ということだった。
 高等教育のことは比較的よく紹介されているが日本の初等中等教育、特に教育現場は殆ど知られていない。このあたりのことを英文論文でまとめて送ってくれないか、という依頼もあった。「来年、4月と9月には日本タイ交流百年記念セミナーを開催します。都合がつけば参加してください。」と最後にお願いがあった。現職で日本の学校の4月は想像を絶する忙しさである・残念であった。
 日本の教育機関の中にも教科指導の中にもこうしたタイを含めたアジア理解を目指した試みや視点はおそらく皆無であろう。臨教審の答申の一つに「国際化」への対応の重要性がうたわれてはいるがその根底のコンテキストは一面的すぎないだろうか。その補完的な意味合いからこうしたバンヤット・プランこそ本腰で導入され行かされるところに「国際化」の原点があるように思うのだが。早く気が付いてほしいものだ。(断章)