ー結論としてー
以上の教科書の記述で見る限り、次のような「タイ的なもの」が浮かび上がってくると言えないだろうか?
第1点として、タイにおいては「この世に生きる」ということは人と人との関係のあり方を問わずして成立しない、ということである。そして、人と人との関わりを持つということは「楽しみ」をもたらすゆえであるという人生哲学がうかがえること。
第2点としては、自己の確立にいたる過程では、ます、他を意識せよ、ということを強調している点である。自己を確立させるのは他の存在を通して得られる実在でなくてはならない、という一貫した自他の統合の概念である。他人の中に自己を見出しつつ歩め、という哲理である。
第3点としては、人と人との友情(親愛関係)というものは相手に対して具体的行為を伴わなければならない、という点である。施し、他益、恩、尊敬、恋慕、謙譲といtった行為を具体的に展開することこそ重要である、としている点である。また、施し、他益などは何もモノやお金などの具体物を与えることではなく、精神的な献身も大いに奨励している。行いを考えてみても身体を動かす行ないもあれば言葉を通じての行ないもある、ということである。
第4点として、「友情」を考える場合、親しい仲間内に通用する狭い人間関係を言うのではなく(*ここでは日本語でいう《友情》とはニアンスが違う?)先生であろうが親であろうが、親であろうが、祖父母、親戚、僧侶、あらゆる層の人生の先輩に対して同様に普遍的に通用しなければまったく意味がないということです。そこにはある種の「平等」が成立しているし、こうした平等または並列としての人間関係に重きを置く社会であるからこそ「ヨコの関係のひろがり」を容易にしている要因といえよう。
そして最後の第5点目であるが、諭しの中には一貫して冷徹な揺るぎない諦観が流れていることである。そこにはたまたまこの世に生まれることになった人間には甘えや拗ね、妬み、同情などは存在しえない、という厳しい諭しが伺える。日本の青年期における拗ね、甘え、妬み、僻みなどという極めて病んだ感情構造はみじんもないことである。
以上、自己同一性の確立への胎動期に人と人との間の関係への問いにこだわり、それを前提としたうえでしか、自己の統合はありえない、とするタイ社会、タイ人をして他者指向の強い国民性を育んでいると思われる。(断)