はじめに
タイの人は限りなく他人思いである。一度でもタイへ足を踏み入れた人はこうした他者指向の様態を至る所に見出し、目くるめく羨ましい思いにかられるのである。私もタイに魅せられたのはこの限りない他者指向である。この国民性を何としても分析し考察してみたいと思ったのがこの稿を書く動機である。
教科書の意味
教育とはデュルケームが言うようにある1つの社会存続のために子どもを「社会化」する過程であろう。従って上述のタイ人の他者指向を育む過程を分析、考察するためのアプローチとして「社会化」の役割を持つ学校教育を散見するのも有効であろう。ここではそうした意味から「タイ社会科(道徳)教科書ー中学3年生」の中の「第9章 友情成立の法」の項を散見することにする。
タイの場合、中学3年生は15,6歳であるが、その時期は発達段階で見れば自己意識を育てようとするとともに自己と他者との関わりの中で親和性、独立性、あるいは孤独といった心理的、文化的、社会的行動様式を育む時期である。つまり対人関係、社会的価値観等の形式という中で自己同一性(アイデンティティー)の確立へ向かっての胎動期ととらえられる。この観点からタイ人の他者指向の精神の形成過程を知る一つのアプローチとしてタイ全土の中等学校で使用されている前出の道徳テキストの文脈を読み取ることとする。
「友情」の捉え方
「友情」の意義付けとして教科書に即して考察してみよう。他人と付き合っていくことはこの世で生を営む上で絶対不可欠なことである、としている。さらに興味深い視点として「楽しい暮らしのためには・・・・人と仲良く付き合っていくことが大切である。」というくだりである。私はこの教えの捉え方に注目したい。つまり、この世に生まれたのは単に生きるためではなく、人と仲良く生きることであり、さらに「楽しい」暮らしをすることが必須なのである。逆に言うと楽しい暮らしをせずして人生はない、という視点である。我が国では「楽しい暮らし、というような文言はどう考えても学校の教科書に出てこないであろう。せめて豊かな暮らし、でとどまる。一般には「真面目に」といった文言が使われるのが常識的であろう。そして「真面目に」とやるもんだから「一生懸命がんばる。。。」といった自己抑制的な勤勉主義が巾をきかすことになる。従って、友達を持ち、楽しみながら暮らす、という発想は生まれにくい。友情よりも勤勉という土壌ができる。どうしてもこうした精神風土では「ヨコのひろがり関係」は培われにくい。
さて、友情の大切さの喩として教科書では次のような面白い記述がある。
つまり世の人間社会とは「衣服のようなもの」「衣服とは幾枚からの布切れから作られており、更にこの布切れをつないでいるのは糸である。この糸こそが友情である。もしこの糸をほどいてしまえば衣服はバラバラになってしまう。衣服として機能しないのである。」と。
また、子どもに身近なものから喩をあげることもできる。「本でもノートでも同じである。」と。本という組織体は人間社会に例えられる。本は幾枚かの紙で成立している。その紙こそが人間である。そして本は紙がほそ紐とニカワで接着されて成立する。これらの付属物こそが友情なのである。もしこうした接着物諸々を取り除いたなら本やノートはバラバラにほぐれてしまう。もはや何の役にもたたなくなる。無数の人間をお互いに結び付けているのは友情という接着剤である。つまり人と人との間に生まれる親密な感情が友情である。これがなかったならこの世は糸を抜き取った着物であり、ニカワをはがした本やノートと同じようにバラバラになってしまう。
衣服に対する糸の大切さ、本に対するニカワの大切さの強調は人間社会の基底で何が最も大切なものであるかを示している。つまり人と人との間の関係のあり方こそが大切なのである。
さて、人と人との情といってもいろんな組み合わせがある。両親と子ども、先生と生徒、友だちと友だち、親戚と親戚、こうした様々な情により人間社会は緊密に構成されているのである。こうして見てくると人の情は社会の絆である、と記述されているが、果たしてここでいう「情」や「友情」という定義が定まっているかというと少し疑わしい。つまり、日本での「友情」とは仲間の間、対等な間での関係で用いる情であるが、タイにおいてはもう少し社会形成の側面で扱いこの世を形成するあらゆる人と人との間に興る「情」の関係を意味しているのである。たんなる友情ではなく「愛情」、「敬愛」、「尊敬」、「礼儀」の念などまでも包括している響きがある。
つまり、タイの「友情」の定義には親、先生、友人、親戚など社会的、組織的構成への言及である。「友情」とはヨコの人間関係への垣根のない広がりの可能性を秘めている。知らない者同士であっても、異なる者同士であっても限りなく広がっていくヨコの関係の強調である。無条件のひろがりの是認、いや促進といってもいい。
このようにタイでいう「友情」とは上述したように実は限りなく人間社会のあり方の原理に帰着していく。従ってその教えは当然、倫理や仏教からの凡例が有効となる。「友情」即ち「師弟愛」、「親子の愛情」、「親戚愛?」も含んで考えることになる。そしてその根底になるのは仏陀の教えに従う、つまり、包括的「愛」である人間関係はその中核に仏法を据えることになる。
教科書では「友情成立の法」の具体として仏教の4つの徳を紹介していく。1つは、「タム」(施し)、2つ目は「ピヤワーチャー」(美辞)、3つ目は「アットチャリアー」(他益)、そして最後は、「サマーナッター」(謙譲)である。以下の章でそれぞれを若干触れていくことにする。