知らないタイを歩いてみたい!

タイの地方を紹介する。関心のある方の集まり。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

タイ・ユング旅行 ⑮文明の発達史観 (1)  -’86 夏ー

2020-12-14 10:05:41 | ハノイ
 考えてみればこれまでいつも彼と会うのはコンケンであった。バンコクでは初めてだった。私の提案で今晩は日本食パーティーをやろう、ということに。2人でやるのをパーティーと言うのかどうか知らないが、シーロムにある「浪花」という日本料理店に飛び込む。その二階にはちょっとした座敷の日本間があるのだが彼は畳に興味を示し、「あんたもこんな上で生活しているのか!」と好奇心をつのらせる。彼に典型的な日本食を試食させてやろうと思い(実は私こそが久々の日本食でしたづつみをうっているのだが)「日本食を食べてみたまえよ。」と勧めると「もちろんさ、なんでもトライが大事だよ。」とくる。しめしめ!納豆、サシミ、めんたいこ、冷ややっこ、茶わん蒸し等、自分もよだれがでそうな典型的な食を注文する。少しづつ彼に勧めたが「興味深いね。」と言って一口二口食べていたが、「おいしいね」と言ったのはわさびとショウガを口にした時だけだった。
 後、場所を変えて近くのパブに移りいろいろ彼の現況について話題がはずんだ。彼の現在の勤務はテクノロジー・カレッジの英語教育教授法面でのスーパーアドバイザーという立場だそうである。全国に26校のカレッジの教師たちの教授法、施設設備備品等の改善作業計画も一手に引き受けっている。いろいろな問い合わせに現場に赴きプロジェクトプランを立てて助言をする。この面での予算的なことは教育省から彼に委託されている。定期的にバンコクで教師への研修セミナーを実施するのも彼である。こうした職位での彼の資質と実力には本当に敬服させられる。機敏でアイデアマンの彼にはうってつけの仕事である。「実は大変不満なのだ。」と彼が言いだした。「確かに若いから仕方がないかもしれないがもっと給料をあげるべきだ。ハードな仕事だし絶えず専門性が求められる。自分よりも高給取りの年配の先生たちに助言をしているのはどうもねぇ。」私には彼の不満が分からないでもないが、数か月前に意気揚々この指導的ポストに付いた彼からの言葉には驚かされたのである。「もっと自分の才能を正当に評価してくれるところがあれば辞めるかもしれない。」とも言っていた。
 ところで英語教育についてであるが現在タイのテクノロジースクールの中でどういった目的でどのようなカリキュラムが組まれているのかを知りたいと思ったが聞く機会を逸した。ただ、彼がここに赴任した時はこの機関はイングリッシュ・センターという名だったそうだが、彼の意思で「ランゲージ・センター」と改名したとのことである。タイにおいて「国際化」の方向を示しているのかもしれない。彼によれば現在は確かに英語部門しかないが、選択履修として仏語、独語、日本語が置かれて人気も高いそうだ。経済力の影響だろう。日本語だけみても日本人教師が2名派遣されているほどである。彼はそうした日本人教師に「日本語部門」として独立するように話を持ちかけているがそのスタッフたちはあまり乗り気ではないようだ、と感想をもらしていた。どの辺に無理があるのだろうか。
 彼とはよくいろんな話題でディスカッションをする。そして正直言ってお互いに理解しあうことは言葉でいうほど容易ではないことに気づかされ愕然とすることもある。理解というよりお互い気持ちを凹ませるといったらいいような場合が時にはある。自然、歴史、文化、生活様式等の立っている基盤がお互いに違っているのだから当然認識にも相違がですものだ。そんな一般論であるが自明のこととして目の前に付きだされると今更ながら愕然とするのである。もっと言うとその同じ生態に住んでいる個人個人すらそれぞれでそれぞれでかけ離れた発想で生きているような気がする。タイにおいては。
 話が少しそれたが彼とは相当親交を深めたと思っていても議論のメイントピックスという突出した部分でアプローチが違うことに気づかされる。それは日本とタイとが、当然のことだが「近代化」、もしくは「西洋をモデルとした発達」した時期や過程が根底的に違っているからだ。それでも私は彼の意見を引き出して、タイの思潮を知りたいと思うのだ。いずれにしても私の考えを無作為にぶつけることは相手の実存を脅かすことにもなるのである。
 以前の話だが、彼がコンケンのゲルマン・テクノーに勤めていた時に学生たちに一コマ、私からお話しする機会をもらったことがあった。その時話の流れから「テクノロジーは人間に便利さをもたらすが害毒ももたらすという」マイネス面も考慮しなければならない、、、」というようなネガティブな話を切り出したことがある。すると終わってから彼は「なぜ、テクノロジーはマイナス面があるのか?」というような反論を言ってきた。彼の学校はテクノロジーを100%も200%も吸収しようとする学校なのである。私の立場は明治以来の脱亜入欧思想のもとに「近代化」を吸収してきた。そして現在になり、特にこの十数年をみれば経済大国と言われ先端技術部門でも世界に比類をみないほどにのしあがっている。あらゆる物質が苦も無く手に入り表面的には8割以上が中流意識に耽っており誠にメデタイ限りの世界にいる。
 

タイ・ユング旅行 ⑭チャナロン君  -’86 夏ー

2020-12-12 07:42:37 | ハノイ
 バンコクのテクノロジーのランゲージセンターで教えるチャナロン氏は30才で私とは6年来の親友である。タイに留学していた私の友人H君から彼を紹介してもらった時彼は故郷のラッチャブリー、バンポンの小学校で英語を教えていた。彼はその町から奨学金を受けて大学で学びそのために町で何年間の奉職義務があったのである。以来、彼が東北タイ、コンケンのコンケンゲルマンテクノー(テクニカルカレッジ)に転出し、英国留学、そしてバンコク校に転勤の間ずっとお互い文通も含めて交友を深めてきたのである。
 だいたい年に一度は彼に会っているが私が彼を訪問するときはいつも多忙極まりない、のにである。そんな中で私の旅の趣旨を呑み込むと実に手際よくプランニング、アレンジングし、時間が許す限り同行もしてくれる。「俺はオペレーターだよ。」と明るく笑う。私には頼もしい限りである。彼の相手本位で骨身を削るエスコートぶりに全くもって感謝という言葉以上のものを感じている。と同時にどこからそのエネルギーが出てくるのかと感嘆してしまうのも事実である。そうして私に対する心遣いに私は甘えてばかりではすまない気がしているので今回は彼には予め来タイを知らせずにやって来たのである。とはいえ連絡せずにいること自体もっと彼には割り切れぬ感情を与えるであろう。
 「今、タイに来ている。もし時間があれば会いたい。」と彼のオフィスに伝言したのは東北タイへ出発する前日のことである。彼は週末でありオフィスにはいなかった。「ハロウ!ヘイ、キムラ!本当に驚いたよ。あんたどうして黙ってタイに来たんだ。」と彼からホテルに電話が入ったのは東北タイからのバスを降りてマレーシアホテルにたどり着いて10分もたっていない朝7時半のことであった。「これで4回、あんたに電話してたんだ。」と声もはずんでいる。私は長旅の疲れと眠気がふっとんだ。彼とは夕方5時半にこのホテルで会うことに。異国の地で一人で旅をしている時に親しい友に会えるのは実に嬉しいことだ。
  「あんたの行動予定は何だ。」とホテルに着くと彼はさっそく尋ねる。私は思いつくまま残りの日程の中でやりたいことを彼に告げると「わかった。こうしよう。」と実に手際よくプランを立ててくれる。5つか6つの私の願望をさらさらとものの見事に並び替え一本の線にしてみる。例えば、学校現場が見たい、昨年行ったバンポンの町をもう一度見たい、と告げた場合「オレが一緒に行くよ。バンポンに着けばそこの先生を紹介しよう。オレは勤めがあるから翌朝は帰らねばならないが、その先生に一日学校を案内してもらえばいいだろう。バンポンはオレの故郷だから夕食はおごる。マーケットの屋台で盛大にやろう。泊まるのも我が家でいい。他に何かあるかね。」さすが自分の国のことだ。他国者の私ならいろいろ考えあぐねるところをサッとオペレートしてくれる。本当に笑顔を絶やさず親切な男である。以後、彼のアレンジで行動することになる。
 


タイ・ユング旅行 ⑬ノンカイとの別れ  -’86 夏ー

2020-12-11 17:18:15 | ノンカイ
 せっかくノンカイหนองคายに来たのでラオス産の民芸品を少しでも買っていようと思いイミグレーションオフィスの付近をうろうろしたが閉店時間も近かったのか「買って行かないか」といった店子の積極的な売り込みもなくじっくりいな定めすることもなくUターンしてしまった。途中、イミグレーション・オフィスの中をガラス越しに改めて覗くとラオスへ帰る農民らしき一家ががござの上に無表情に寝転んでいるのが見えた。そばには大きな段ボール箱の荷物も見える買出しに来たのだろう。異様にその光景が目に焼き付いた。同じ血のつながった同胞たちが国境という線で離されてしまった、もっと自由に行き交える日はいつ来るのであろうか?”形式としての不自由”といったものを感じた。しばらく見入っていると中から警察官が私に気付きいったい何者であるか、といぶかるようにこちらに近づいてきたのでその場を離れた。あらためて考えれば私の場合は”形式としての自由”しかないのだが。
 ノンカイの夜は本当に暗い。夜8時半出発のバスに乗るべくステーションに向かった。途中バンコクから到着したトラックが朝刊の包み束を販売店に放り投げている光景に出くわす。最近になってその日のうちにノンカイという最北端の町まで新聞というマスメディアが入ってくるようになったのである。ここノンカイでは各戸に配布なのか新聞少年が集まっていた。そういえばここのところバンコクポストなんか読んでみると北部、東北部の記事が随分増えた感じがする。
 頭に入れた地図でバスステーションに向かって歩き出したがすっかり暗闇で様変わりたどり着けない。あと20分くらいしかない。少し焦りが出てくる。この道だろうと確信して進んでみるとますます人家のない細い道になっていく。どうしようか、と不安な気持ちで後戻りしようといた時に私を目で追っていたらしい夕涼みのおばさん連中が「どこへ行くのかェ!」と声をかけてくれた。「バンコク行きのバスステーションまで!」と答えると「ここじゃないよ。もっと東だよ!サムローでいったほうがいい。3バーツだよォ!」と親切にも声をかけてくれた。渡りに舟とはこのことだ。こうした窮地に追いやられた時の人々の簡潔な助けは後々まで明確に覚えているものだ。サムローのお世話にならなくてもと思ったがとにかく時間が迫っている。ギーギーと静かに音をたてて目的地まで乗せてくれた時にはバス出発5分前だった。
 バスに飛び乗り、前から3番目の指定席に座る。少しエアコンが効きすぎるし座席がやけに狭い。お尻が痛い。痛いのは当然だ。今日は8時間余りのバスの旅をしてきたのであろる。更にこれからノンカイ~バンコク10時間のバス旅の延長戦だ。あれやこれや気分はマイナス、ネガティブに向かっているようだ。しかし、まずは間に合ったのだ。
 窓越しにだれか都に行く肉親か親戚を見送る人たちが手を振っている。ブルーバスはゆっくりとノンカイに別れを告げた。660キロの真夜中の旅がいま始まったのである。ふとこんなイメージを持った。「ノンカイが口腔部分でイサーンの道中が食道でバンコクが胃袋。そこに食べ物として落ちていく自分。」地図を見れば確かにそんな感じもするが変な連想をするものだ。
 途中、昨年お世話になったアピチャート校長先生のいるウドムタニーを通り過ぎあの時の楽しかった思い出に少し気分が高揚した。
 午前2時頃にナコンラチャシマーのドライブインに降ろされ夕飯なのか朝飯なのか分からない、しかも匂いが極めて異文化を感じさせる食事が提供された。当然、胃袋は受けつけなかったが意識は覚醒させられた。それ以外は再びみたび意識はもうろうとなりバンコクまで気が付かなかった。朝の6時に到着。




タイ・ユング旅行 ⑫ノンカイの僧院にて  -’86 夏ー

2020-12-09 05:33:03 | ノンカイ
 メコン川に出てみた時には夕陽がラオスの森の中に沈もうとするところであった。少々のほろ酔い気分で迷い込んだところはワット・ハイソックというノンカイでは最大級の寺院であった。なんだか根がぶら下がったような大樹の下で黄色い衣をまとった僧たちが夕陽に向かって自由い時間をくつろいでいた。私もそのそばに座りメコンの夕陽をカメラにおさめた。ラオスの町の建物に白色が目立つのはフランスの影響だろうか?その白色が夕暮れに冷えびえとしていた。
 思えばナコンパノムではメコン川を隔ててラオスの切り立つ山並みから登る朝陽を拝み、いままた同じ日にその太陽をメコン川を隔ててラオスの山並みに夕日として拝む。不思議なことである。日がいずる、そして日が沈む国ラオスかな。もし「太陽が東から昇り、東に沈むのを見たい。」なんて願う御人がおられたらメコン川北上の旅をおすすめする。
  高僧とおぼしき僧に共に写真撮影を乞うた。何かのガイドブックには僧にカメラを向けてはならない、とか書いてあったので念のためにと思ったのであるが、「オーケー、オーケー」と高僧は笑顔でポーズをとり私とともに被写体になっていただいた。さらに近くにいた若僧やデクワット(小僧)にも加わるように指示して近くを通りかかったバイクの若者を呼び止めシャッターを切らせた。今でも高僧の智業にたえた威厳のある笑みを忘れることはできない。写真撮影が終わると高僧たちは寺院に引きあげていかれた。残った若い層や町の一般の青年たちが私の周りに集まってきた。彼らの関心は私のカメラであったりウォークマンであったり、または虫よけスプレーであったり、いわゆる物質文明である。そしてテクノロジーへの崇拝は万国共通で特に若者はすごい。
 パヨンという20才の若僧は少々英語が喋れるということで話しかけてくる。英語は小学校5年生の教科で習ったといい、それ以来好きになりあとは独学で練習しているとのことである。立派なものである。彼の家族のこと、お寺での修行のことなどの話を聞くことができた。彼自身は小学校を終えるとデクワットとして同じノンカイ内のシーサケットという寺に入り、そこから中等学校に学んだそうだ。タイの地方において経済的に困難な子とも達がさらに高い教育を受けたいとするときの一般のスタイルはお寺へ修行にはいることである。ただし、男の子だけであるが。タイの伝統的な初等教育はもともとお寺がその社会的機能をはたしていたのである。日本でも寺子屋の類であろう。「このハイソック寺には僧侶が11人いて、デクワットは36人いるそうでみんなノンカイ出身」だそうだ。私もできれば一度こうしたノンカイの寺院で修行生活をしてみたいものだとふと思った。
 私のまわりに集まった若者たちとの貴重な時間を過ごすうちに夕日もラオスの森の方に収まってしまった。いとまごいも残念であったが「バスの時間があるので」と手を振ったのは午後7時半を過ぎていた。ただ、パヨンとは住所を交換し、今後、文通で交流しよう、そして修行があけたら彼の村へも一緒に行こう、なんていう約束をした。彼にとっては私が外国へつながるツールと見えたのだろう。









 

タイ・ユング旅行 ⑪ノンカイの夕暮れ  -’86 夏ー

2020-12-08 05:59:23 | ノンカイ
 407パッタナというバスの会社のオフィスへ。私が外人だとみて事務員が奥で食事をしていた女学生を通訳として呼んできた。感謝と言っても家内企業のようだ。彼女は英語で話しかけてくるので切符の予約以外にノンカイでの短期観光の仕方も尋ねてみた。バンコク往きは夜の8時30分、170バーツ。時計を見ればあと4時間残っている。炎天下の中長時間のバスの旅だったのでまずは静養兼飲食だ。涼しいレストランを教えてくれ、と。「パッタウィーホテルのレストランがいいでしょう。」と相成った。短時間の見学ポイントとしては「メコン川に沿って夕陽を眺めるのが最高ですよ。」とグッドアドバイスを受けて3バーツのサムローに乗る。川辺の長方形の邑なので地形的にはだいたい方角は分かるのだが念のために女学生はタイ語版の地図を書いてくれ「これをサムローにみせてください。」と心配りをしてくれた。
   パッタウィーは町の西はずれにあった。夕方にはやくまだ客足はなかった。広いレストランの空間に私一人であった。テーブルのメニューは手作りで面白いことが書いてある。「いま、あなたが食べようとしている魚は昨晩までメコンの川底に眠っていたものです。」と。いかにも新鮮そのものではないか。そしてその後に料理方法まで書かれている。「ニンニクと胡椒を使ってフライにする。チリソースでフライにする。甘味、酸味のスープにする。」メコン漁料理が売りのようだが、トムヤムクンと白飯だけを注文する。しめて45バーツ。このレストランのウエイトレスは全く陽気である。他に客がいないのと私が日本人だという珍しさからか食事を勝手にさせてくれない。「オシン」、「タナカユウコ」、「キモノ」、などなどテレビメディアの話題でたたみかけてくる。持ち合わせのメコンウイスキーをリュックから出して氷をもらってチビチビやる。一時間近くウエイトレスたちと談笑した。
 ナコンパノム、ノンカイいずれの町もメコン川に付着したように伸びるせいぜい1キロ平方キロの横長の町である。そしてこうした町の産業や生活 の強く影響している求心力といったものは、ずばりラオスとの交易である。そうした歴史的な流れがあったにも拘わらず、1975年の共産主義革命以降は全く往来、交通が遮断されたままであり、往時の盛んな活況は見られない。現在の姿は民芸品を売るタイ辺境の田舎町といったイメージしか感じられない。
 こうした地方の町々をスケッチしてみる。町の中央に時計塔がある。日本には中央にあることはないだろう。そして時計塔の針はたいてい止まっているかあらぬ時刻を表示している。森のようなところにワット(寺院)がどっかと空間を占め高い仏塔を競い、近代的な商店街の裏通りには商いと社交と人々のコミュニケーションの場を兼ね備えたタラー(市場)が自然発生的に形成され町の鼓動を感じさせている。また、近代的な学校施設も教育にかける意気込みを感じさせる。町を成立させている共通点はどこもこんな感じである。そしてバスに数分間乗れば人家は減っていきやがて数分間もたてば荒野の真ん中に放り出される、といった感じである。若い男が昼間からラムヤイを食べ合っている社会、人間が人間をいたわり、関心を示す社会の有る領域、そしてその領域を決して拡大する様子もないムアンの世界、東南アジアの内陸の「小宇宙」として町は静かに息づいて存在している。