知らないタイを歩いてみたい!

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「タイ的なるものをめぐって」(1)

2021-01-15 07:10:58 | ハノイ
 はじめに
 タイの人は限りなく他人思いである。一度でもタイへ足を踏み入れた人はこうした他者指向の様態を至る所に見出し、目くるめく羨ましい思いにかられるのである。私もタイに魅せられたのはこの限りない他者指向である。この国民性を何としても分析し考察してみたいと思ったのがこの稿を書く動機である。
 
 教科書の意味
 教育とはデュルケームが言うようにある1つの社会存続のために子どもを「社会化」する過程であろう。従って上述のタイ人の他者指向を育む過程を分析、考察するためのアプローチとして「社会化」の役割を持つ学校教育を散見するのも有効であろう。ここではそうした意味から「タイ社会科(道徳)教科書ー中学3年生」の中の「第9章 友情成立の法」の項を散見することにする。
 タイの場合、中学3年生は15,6歳であるが、その時期は発達段階で見れば自己意識を育てようとするとともに自己と他者との関わりの中で親和性、独立性、あるいは孤独といった心理的、文化的、社会的行動様式を育む時期である。つまり対人関係、社会的価値観等の形式という中で自己同一性(アイデンティティー)の確立へ向かっての胎動期ととらえられる。この観点からタイ人の他者指向の精神の形成過程を知る一つのアプローチとしてタイ全土の中等学校で使用されている前出の道徳テキストの文脈を読み取ることとする。

  「友情」の捉え方
 「友情」の意義付けとして教科書に即して考察してみよう。他人と付き合っていくことはこの世で生を営む上で絶対不可欠なことである、としている。さらに興味深い視点として「楽しい暮らしのためには・・・・人と仲良く付き合っていくことが大切である。」というくだりである。私はこの教えの捉え方に注目したい。つまり、この世に生まれたのは単に生きるためではなく、人と仲良く生きることであり、さらに「楽しい」暮らしをすることが必須なのである。逆に言うと楽しい暮らしをせずして人生はない、という視点である。我が国では「楽しい暮らし、というような文言はどう考えても学校の教科書に出てこないであろう。せめて豊かな暮らし、でとどまる。一般には「真面目に」といった文言が使われるのが常識的であろう。そして「真面目に」とやるもんだから「一生懸命がんばる。。。」といった自己抑制的な勤勉主義が巾をきかすことになる。従って、友達を持ち、楽しみながら暮らす、という発想は生まれにくい。友情よりも勤勉という土壌ができる。どうしてもこうした精神風土では「ヨコのひろがり関係」は培われにくい。
  さて、友情の大切さの喩として教科書では次のような面白い記述がある。
つまり世の人間社会とは「衣服のようなもの」「衣服とは幾枚からの布切れから作られており、更にこの布切れをつないでいるのは糸である。この糸こそが友情である。もしこの糸をほどいてしまえば衣服はバラバラになってしまう。衣服として機能しないのである。」と。
 また、子どもに身近なものから喩をあげることもできる。「本でもノートでも同じである。」と。本という組織体は人間社会に例えられる。本は幾枚かの紙で成立している。その紙こそが人間である。そして本は紙がほそ紐とニカワで接着されて成立する。これらの付属物こそが友情なのである。もしこうした接着物諸々を取り除いたなら本やノートはバラバラにほぐれてしまう。もはや何の役にもたたなくなる。無数の人間をお互いに結び付けているのは友情という接着剤である。つまり人と人との間に生まれる親密な感情が友情である。これがなかったならこの世は糸を抜き取った着物であり、ニカワをはがした本やノートと同じようにバラバラになってしまう。
 衣服に対する糸の大切さ、本に対するニカワの大切さの強調は人間社会の基底で何が最も大切なものであるかを示している。つまり人と人との間の関係のあり方こそが大切なのである。
 さて、人と人との情といってもいろんな組み合わせがある。両親と子ども、先生と生徒、友だちと友だち、親戚と親戚、こうした様々な情により人間社会は緊密に構成されているのである。こうして見てくると人の情は社会の絆である、と記述されているが、果たしてここでいう「情」や「友情」という定義が定まっているかというと少し疑わしい。つまり、日本での「友情」とは仲間の間、対等な間での関係で用いる情であるが、タイにおいてはもう少し社会形成の側面で扱いこの世を形成するあらゆる人と人との間に興る「情」の関係を意味しているのである。たんなる友情ではなく「愛情」、「敬愛」、「尊敬」、「礼儀」の念などまでも包括している響きがある。
 つまり、タイの「友情」の定義には親、先生、友人、親戚など社会的、組織的構成への言及である。「友情」とはヨコの人間関係への垣根のない広がりの可能性を秘めている。知らない者同士であっても、異なる者同士であっても限りなく広がっていくヨコの関係の強調である。無条件のひろがりの是認、いや促進といってもいい。
 このようにタイでいう「友情」とは上述したように実は限りなく人間社会のあり方の原理に帰着していく。従ってその教えは当然、倫理や仏教からの凡例が有効となる。「友情」即ち「師弟愛」、「親子の愛情」、「親戚愛?」も含んで考えることになる。そしてその根底になるのは仏陀の教えに従う、つまり、包括的「愛」である人間関係はその中核に仏法を据えることになる。
 教科書では「友情成立の法」の具体として仏教の4つの徳を紹介していく。1つは、「タム」(施し)、2つ目は「ピヤワーチャー」(美辞)、3つ目は「アットチャリアー」(他益)、そして最後は、「サマーナッター」(謙譲)である。以下の章でそれぞれを若干触れていくことにする。

タイ・ユング旅行  ㉔ タマサート大学日本研究センター訪問後記 -’86 夏ー

2021-01-15 06:41:03 | ランシット
のちほどバンヤット先生をインターネットで検索していたら疋田正博という方が1994年8月に「タイにおける日本語研究」と題して論文を書かれていた。当時の日本とタイとの関係の潮流が垣間見れる。ここではその中のタマサート大学関連の内容を抜粋してコピペをさせていただく。

*******引用*******
歴史的概観
日本とタイの交流の歴史は、400年前のアユタヤ王朝の首都における日本人町にさかのぼることができる。経済関係は、今世紀の初頭にさかのぼることができ、戦中・戦後も日本とタイの関係は、他のアジア諸国と日本との関係よりも良好であった、といえる。
しかし、1960年代から、日本の商品が急激に流れ込み、日本からの企業進出も著しく増加した。そのことへの反発と不安が、経済独立主義の主張となって、タイの知識人・学生の間に広まり、1972年の日本製品不買運動、1974年の田中首相訪タイ反対運動という形であらわれた。
反日運動の原因であった対日貿易不均衡や日本製品の氾濫は、今日いっそう拡大しているが、日本からの巨額の経済援助や進出企業の現地における配慮もあって、近年親日的なムードが続いている。日本のテレビ番組「ドラエモン」「大奥」「おしん」などが人気をあつめ、新聞は日本のことを詳しく報道するようになった。日本語学習もブームと呼ばれるほど希望者が増加してきている。
タイにおける日本語教育は、日本の外務省により、日本研究講座寄贈プログラムとして、日本人教授を派遣して、1965年タマサート大学、1966年チュラロンコン大学において開始された。両大学はタイ国を代表するエリート大学である。そのうちチュラロンコン大学ではいちはやく日本語がメジャー化され、専攻科として独立したため、そこから日本研究者や日本語教師を多数輩出した。その他の大学では、選択科目(マイナー)として教えられていたが、1982年にタマサート大学、1983年にカセサート大学でメジャー化し、続いてチェンマイ
大学でもメジャー化がなされようとしている。

タイにおける日本についての社会科学的関心は、日本タマサート大学教養学部の日本語教育は、日本研究講座寄贈計画で、最初の対象校として選ばれたが、専攻科として日本語科が成立したのは1982年である。タイの専任教員5人と、日本からの派遣教員1人、ほかに非常勤講師が数人いて日本語教育を中心に、日本文学、日本文化を講義している。
同大学の政治学部、経済学部には、日本留学の経験をもつ社会科学の学者が11人もおり日本研究のポテンシャルは高い。これらの日本研究者の活動拠点として、東アジア研究所日本研究センターTheJapaneseStudiesCenter,InstituteofEastAsianStudies)が1981年に設置された。このセンターはタマサート大学の日本研究の活動拠点であるばかりでなく、タイ全体の日本研究の情報センター、トレーニングセンター、交流センターとしても機能することを目ざしている。所長代理はバンヤット・スラカンウィット経済学部助教授である。そのための建物は、日本から11.5億円の供与を得て、同大学の郊外新キャンパスに建設され

課題と展望
歴史的概観で述べたように、タイにおける日本語教育は日本からの寄贈講座として開設されて20年が経過した。その間にタイの大学で日本語を学び、日本の大学院に留学した若い学者が今育ちつつある。
しかしそのうち、日本の研究水準で研究する能力を有するものはごく少数で、第1世代が持っているタイ社会における発言力とインパクトをもつほどには育っていない。また日本関係の大学教員の大部分は教育に忙殺されていて、日本の大学教員のように研究に従事する時間が与えられておらず、サバティカルの時に日本で研究することを強く希望しているが、日本側の招聘プログラムは必ずしも十分ではない。またタイにおいて、英語をマスターしたうえさらに日本語をマスターして研究をするような研究者もほとんどいない。
ということは大変に困難な課題であることは認識しなければならない。各学問分野の少壮の学者が、日本語を完全にマスターしなくてもある程度日本のことも研究できるようなさまざまの手だて、たとえば語彙数の豊富な日タイ・タイ日辞典がないしタイ語や英語による日本研究参考図書なども全く不足している。
したがってタイにおける日本研究の振興のためには、日本側として従来の努力に加えて、日本の有力な学者をより多くタイの大学に長期派遣してタイの日本研究者に刺激を与えること、日本研究者が日本に滞在して研究する機会をふやすこと、タイにおいて日本研究者が共同研究できるよう奨励すること、日本についてのあたらしい研究書やレファレンス用図書の完備した図書館をつくり、日本研究者は誰でも利用できるようにすること、語彙数の豊富な日タイ・タイ日辞典の編纂を急ぐこと、日本語教育のための質の良い中級教科書や教材を開
発し、学習者に安く提供できるようにすること、タイ語による視聴覚資料や劇映画などをより多く提供すること、などが必要である。

タイ・ユング旅行  ㉒バンヤット先生の提言 -’86 夏ー

2021-01-13 12:44:50 | ランシット
 今年2月に私の家に「日本タイ教育交流協会のキムラさんですか?タマサート大学の日本研究センターのバンヤットと申します。」と流ちょうな日本語で電話があった。この日本タイ・・協会とは私が数年前から個人的な思い付きで発足させ細々と活動している組織である。「現在、会員の方は何人ぐらいでしょうか?」と続く。あってなきがごとしの協会なのでこの協会の詳細は別の機会に触れる、と言っておくがバンヤット先生は日本研究センターの所長さんで今回のに訪日の目的の一つが日本にある民間のタイ関係の団体とできれば横のつながりを持つよう当センターもそのための側面援助をしたい、との趣旨であった。身に余るご提案であるが私の側の協会に一言でも語れるようなものもなく今度タイへ行った折に説明させてもらいたい、という段取りになったのである。
 こまごまとした我が協会の活動記録の載ったニュースレターのコピーを携えてドムアン空港近くのタマサート大学ランシットキャンパスを訪れるという事態になったのである。
 ホテルを9時頃に出て当研究センターに着いたのは昼近くになっていた。チャオプラヤーデルタのど真ん中、その水田の赤土を埋め立てた広大な空間である。その敷地にタイ市中どこでも目にするワット(寺院)風の建築物こそがタマサート大学ランシット学者である。その入り口の正面に日本研究センターが位置していた。バンヤット先生はこの時は午後の授業が入っており残念ながらこの昼休みは90分くらいしか対面するチャンスはなかったが先生から学生ランチをいただきながら伺い聞いたことを少し記しておきたい。話の中心はこのセンター設立の経緯についてであった。タイ知識人の間ではこのセンターの設立にはかなり反対があったそうである。ひも付き研究所であり、その役割は日本経済の進出(侵略)の情報拠点化する、という危惧だったそうである。先生によれば半日経済運動が下火になり、「日本とアジアの季節」を謳いあげた福田ドクトリンのアジア重視の外交が打ち出された。その具体化として援助資金が今後何にどのように使われていくのかを注視していく必要があると考えた。援助資金は自分が反対していても誰かのところへ流れて行ってしまう。反対だけしても有効性がない。そうであるならばそれを自分たといで大いに利用しない手はない。そんな考えからセンター作りに関わるようになった、とのことである。
 毎月日本側から予算が送られてくるそうだが、先生によればその予算のタイ部分が日本人学者へ支払う経費に使われるとのこと。先生の給料は約8万円(タイでは高額)、一方、日本人学者へはその10倍が払われるとのこと。この露骨なギャップは日本とタイとの経済ギャップなのであろうが両国の相互の研究にはあまりプラスにはならない感じがした。先生が私に熱っぽくお話しされたことはこうした予算をもっと中等学校レベルの先生や学生生徒間の交流に生かせれないか、という内容であった。日タイ双方の交換制度も考えていきたいというプランも聞かせてもらう。短期間日本から中高校レベルの教師を招へいしタイで日本語履修を行なっているいくつかの高校で日本語を教える。交換としてタイの英語教師が日本で英語を教える、という交換制度の提言である。こうした交換制度を組み立てる場合予算面は当センターやら日本の文部省レベルではことの運ぶ話と思われるがいざ実施となると各都道府県の委員会が一つのネックになる。まず、そこへの働きかけが必要ではないか、ということだった。
 高等教育のことは比較的よく紹介されているが日本の初等中等教育、特に教育現場は殆ど知られていない。このあたりのことを英文論文でまとめて送ってくれないか、という依頼もあった。「来年、4月と9月には日本タイ交流百年記念セミナーを開催します。都合がつけば参加してください。」と最後にお願いがあった。現職で日本の学校の4月は想像を絶する忙しさである・残念であった。
 日本の教育機関の中にも教科指導の中にもこうしたタイを含めたアジア理解を目指した試みや視点はおそらく皆無であろう。臨教審の答申の一つに「国際化」への対応の重要性がうたわれてはいるがその根底のコンテキストは一面的すぎないだろうか。その補完的な意味合いからこうしたバンヤット・プランこそ本腰で導入され行かされるところに「国際化」の原点があるように思うのだが。早く気が付いてほしいものだ。(断章)
 
 

タイ・ユング旅行 ㉒オーバープレゼンスの反動 -’86 夏ー

2021-01-11 06:46:57 | ラーブリー
 ’70年代前半東南アジアは日本の経済進出の抗議して反日暴動が吹き荒れた(今も構造的には殆ど変わっていないが)。エコノミック・アニマルという言葉が全盛期の頃である。やがてその反省に立って日本は相手に理解されるにはモノばかりよりココロ、文化を伝えねばという機運が起こった。ボランティアの海外活動もこの頃より盛んになった。
  つまりアジアにおける日本、オーバープレゼンスするその顔は紛れもない自動車、電気製品、高級消費雑貨品に至るまでの「モノ」でしかない、というのが内外から批判されたのである。これではいけない、ということでこれではいけない、もっと日本の素顔、文化を発信せねば、という日本の「こころ」発信に強調がなされだしたのである。’80年代に入ってからである。
 私に言わせれば日本のアジアにおけるオーバープレゼンスの問題は棚上げされてる。いや最近では日本のココロを知らせるよな振りをしてますますモノの進出を促進しているようにみえる。このココロの紹介の動きも真のものとならず日本のコマーシャルペースに乗ってしまいタイ側のテレビ局の大衆娯楽指向とタイアップしてしまい「ドラえもん」、「忍者服部くん」、「一休さん」などのコミック文化の紹介に一変してしまったのである。つまり、ココロまでもタイのココロの中にいや応なしに進出していったのである。その陰で草の根的民間活動も文字通り草の根で頑張ってきた。私の知り合いのTさんなんかは「日タイ草の根教育交流協会」なるものを立ち上げ農村で日本の素晴らしい児童名作映画の上映活動なんかもがんばってきたが、大手の日本文化進出には及ばなく衰退せざるを得ない状況である。こうしたマスコミを通したタイにおける西欧型近代化、大衆世俗化の一役を両国の利益集団が利用してしまったのである。陰にいるものは儲からないことはしないものである。従ってそうしたテレビ番組は娯楽の機能は果たしてきたのであるが日本の本当のココロを紹介したわけではなかった。あにはからんや、こうしたすりかえは「日本の文化までがタイに侵略するのか!」という批判を誘引したのである。だが現実にはいったん取り外した日本企業の宣伝用看板は再び所狭しと林立し、日本のテレビ娯楽番組も全土でブームとなっている。経済が入るとなんでもエコノミックになるのである。
 しばらくのタイの生徒達との談笑ではこうしたマスコミの話題が中心になるということを初めて体験した。彼らの年齢に応じた興味関心は自ずとテレビや漫画など身近なテーマになるのが現状であろう。最後に一人の女生徒が一輪の造花をみんなの前でプレゼントしてくれた。カニヤ先生の配慮だろう。タイのココロとして大切に日本へ持って帰ろう。
 カニヤ先生が午前中の最後の授業に出かけた後、特に彼女と親しい同僚のウライという先生と野外活動(彼女たちが独自の児童劇団の活動をしている)のことや英語授業のことなどフリートークをした。その中で一つ気になる話が出た。「カニヤ先生大変困っているんですよ。先週は眠れなかった日もあったようですよ。」とウライ先生。ええ。その話に少しふれてみると、、、毎週土曜日の2時間はパレードの集団訓練がグランドで行われるのであるがその主導は軍の役人であること。そこで外国語科の一部の先生がこれは本務でなし、といってボイコットするケースが出てきたとのことである。当然、理事長は教科主任(外国語科長ではない?)を呼びつけてその対処を迫ったそうである。私は今タイ社会の外面ではおよそ計り知れない静かで緩やかではあるが一つの動きが水面下で興っていることをわずかながら知ることができた思いだった。
 廊下の風通しの良い学校食堂で1人8バーツという昼食をウライ先生が給仕してくれてカニヤ先生、古典音楽の先生等と食べる。わずか4時間足らずの学校訪問であったがどの見聞も忘れがたいことばかりだった。カニヤ先生のバイクの後ろに載せてもらってバンポンのバスステーションへ行き、「それじゃあ」と言ってバンコク行きのエアコンバスに乗って別れた。


タイ・ユング旅行 ㉑ 学校教育の中身 -’86 夏ー

2021-01-10 09:55:15 | ラーブリー
 カニヤ先生が現在教科会議で図って妙案を生み出さんとする取り組みに「アカデミック・エグジビション」なるものがある。生徒たちの英語学習への動機付けになりかつ現代的意義を持った企画をやりたいということであった。
 昨年は「イングリッシュ・イズ・ファン」というスローガンで寸劇やらヒロシマの写真やらポスターを使って反核平和キャンペーンに取り組んだとのことである。なかなか社会的なテーマを扱って日本の英語教師にはあまりない発想だ。そして今年はサウンド・ラボの実演を企画中とのことであった。こうしたイベントは例えばタイ語科ではタイの民芸品制作、農業科では農産物展示といったふうに全教科が参加して行われ学校行事としてはかなりビッグなものである。このイベント1回の予算であるが各教科に1万バーツ、全体で10万バーツを要するということで毎年はやりにくく2年に1回実施するところなど学校によるらしい。「2日間の展示にこんなに予算をかけてやる値打ちがあるのかしら。」ともカニヤ先生は言う。うらやましい気もする。
 やがてカニヤ先生も自分の授業が始まる。「キムラさん、教壇にたってみますか?」と彼女の提案でにわか教師になる。日本列島(地図)の紹介やら日本語のしくみ、日本の高校生の生活について英語でしゃべってみた。特に家庭でのテレビやパソコンゲームのはやり、おしゃれ感覚などの話は、目の前の生徒たちにどれだけ伝わったかは??である。
 あと、再び校内を案内され、特に面白いなあと感じたのはタイダンス(古典音楽、踊り)の授業を見た時である。みんな赤い布を巻いて、素足で天空に納豆の糸を曳くがごとくに手と指先、腕を上げたり下げたりする振付を練習している。一人の女先生が細い声でメロデーを添えながら手拍子しながら教えている。生徒は縦列に並び少数の男子ははずかしそうである。あのバンコクのディナーショーでよく見かけるダンスの部分的な基礎練習である。話によれば古典音楽、踊りは週3時間履修し他に伝統楽器の練習もしているとこことである。自分の国の伝統的な文化を取り出して今の若者に伝えていく、そうして自分たちのアイデンティティーの継承発展のために大切にされた時間である、と心が強く惹かれたのである。
 休み時間になって職員室に戻ったとき、何人かの生徒がやってきて日本の事などを聞きに来てくれた。こうした生徒の世代としては日本のテレビ番組への人気からくる話題も多く、特に「おしん」とか「トットちゃん」、「タナカユコ」などを媒介とした話題が花開いた。タイでは以前から日本のオーバープレゼンスが批判されてきたが、こうしたテレビ文化も海外侵略しているのか、という論調が聞こえないことはないが、なんでも物事には文脈があることも忘れてはならない。