須永博士美術館スタッフブログ

熊本県阿蘇郡小国町にある、須永博士美術館。スタッフ佐藤から様々な情報をお伝えします。

須永博士カレンダー7月の詩

2020年06月29日 | 須永博士カレンダー




須永博士オリジナルカレンダー 2020年7月の詩

 

「闘魂」

 

あなたの夢が待っている

しあわせが待っている

さあ 自分の力をだしきってゆけ

負けてたまるかと

全力で挑んでゆけ

動け 挑め 闘え

一点集中

あなたならやれる

 

明日は大祓 2020年の折り返し地点の日ですね。

2020年の前半で経験したことが、後半、2020年の暮れのころにはどうなっているのか・・・そこもまだまだ想像もできませんが、新たな生活スタイルや、新しく一般的になった言葉、三密を避ける、ソーシャルディスタンスなど、それにマスク着用が普通になったり、手洗いうがいを外出から帰ったら必ずすることだったり、これまでもしていたけれど社会的にここまで徹底をすると、つい半年前までは想像もしていなかったことを思うと、今年暮れのことまで想像できなくて当然ですね。

7月の詩は、東京オリンピック開催を思い描きながら聖火を持って走る姿の絵、そしてオリンピックで全力で挑むこと、そのほかスポーツ、部活動に励む皆さんが元気が出るように・・・とこの絵と詩を選びました。

24日が開会式の予定でしたね。

新型コロナウィルス感染が広がり、学校も休校になり・・・そんな2か月ほど前、この7月のカレンダーの詩を読んだらものすごく寂しくむなしいような気持ちになりました。

でもあれからみんなが外出自粛したり、予防対策を徹底したり、休業要請にも従い、なんとか医療崩壊を防げている現在…

お店も営業再開し、学校も部活動も再開し、中止となった大会の代替大会を計画してくださったり、少しづつ日常が戻ってきていますね。

今、この詩を読むと、そうそう、夢は、幸せは、消えてなんかいない、待ってくれている!と思います。

自分が力を出せる場所が、どんな規模でも与えられた場所があるのなら、その場所で挑んでみたい、挑んでほしいです。

 

 

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礼文島での写真 1974年と2011年

2020年06月28日 | 須永博士の歴史を紐解く

今日は、雨は止む予報ではありましたが・・・

昨日の雨も激しかったので、朝起きて空が晴れていた時にはホッとしました

緑が濃くなってきています。たくさんの雨を吸い込んだ大地・・・植物たちは、成長期ですね。














 

昨日、須永博士が抱いた、「もっと心を込めた詩を書きたい」「心やすらぐ詩を書きたい」との想い・・・

須永博士は、今も丸坊主で、その時の想いを忘れることなく生きています。

昨日紹介したのは、自費出版で作っていた「小さな夢の詩集」ですが、1987年に七賢出版という出版社さんから、それまで発行していたものを10冊に再編集し発売した「小さな夢の詩集」があります。(その後、11~16巻まで発行)

この時にどういう経緯で作られたのかも昨日聞いてみました。

 

すると、当時本を作ってもらっていた名古屋の印刷会社クイックスさんと、出版していたエフエー出版さんがよく展覧会場にも足を運んでいてくださり、展覧会が終わり食事を一緒にする機会もあったそうです。

そんな中で,七賢出版で当時編集長をしていた方が、須永博士がホテルに帰ってくるのを待っていて、「うちで本を出版させてください。」と。須永博士は、あまりその気はなく、いい返事もしなかったけれど、それが何度も続き・・・じゃあ、作りましょうかということで、それまで自費出版で発行し在庫が無くなれば絶版だった「小さな夢の詩集」の1~20集を再編集して10冊にまとめて発行したそうです。

わたしが、今手元にある自費出版の「小さな夢の詩集」と、再編集した七賢出版発行の「小さな夢の詩集」を読み比べていると、中に入っている詩も自費出版で入っていたもの、新しいものが入り混じっていますが、大きな違いは、前書きと、あとがきのメッセージです。

詩集なので、文章的なものがあるのはこの前書きとあとがきのみなのですが、このメッセージがものすごく心をうたれるというか・・・読んでいると涙があふれてくるんですよね・・・

1~20集、いまでは貴重な、幻のような自費出版の小さな夢の詩集の中から今日は、昭和49年(1974年)発行の第4集の前書きとあとがきを紹介します。



なみだがなみだがあふれて、さきほどからとまらないのです。

なんのとりえもないわたしが、たったひとつ旅をすることだけを生きがいに、行きつくところまでこられられるところまで歩いてきたのです。

そして人のあたたかさを知り、自然の大きさを知り、ささやかだけれど自分なりの道を人生を歩いてきたと感じるのです。

いまわたしのひとつの旅が終わりをつげようとしています。

凍りついた北の果て稚内の町におり立ち、まだ陽もあけぬ道を歩くとき、今日までのことが想い出が旅が心をあつくさせ、涙を雪の中へと落とさせるのです。

力を持つことだけが人間ではない、

強く生きることだけが人間ではない、

誰にもかえりみられずとも、自分なりにふさわしい心と求める道を持って生きて行けばいいのではないかと思うのです。

夜が明けたら、船にのり黒い荒海を礼文島に渡ります。北の果ての行きづまりのところで、わたしの人生をひとくぎりつけようと思うのです。

わたしのめぐり逢うあなた、自然、元気でいてください。

ありのままの姿でいて下さい。

必ずふるさとへ帰ります。

心をさいて詩をつくります。

 

須永博士

 

東京下町の片すみで、いま第4集 ”ひとりぼっちの愛の詩”の原稿を書いています。

夜も更け人通りもなくなりました。静かです。

そんな中で、わたしはひとつひとつの詩の中から旅の思い出をめぐり逢った人達のことをおもいめぐらしています。

うそいつわりなく、よく今日まで生きてこられたと思います。旅先で泊まる宿もなく一晩中歩いたこともありました。

あるときは、旅の疲れから汽車の中で意識が遠くなるようなこともありました。

随分とあぶないことに出合いました。

でも、いまこうして生きています。

もしあのとき生命をなくしていたらと思うと、頑張らなければと思うのです。

自分の心に゛これぞ“と思うものがあったら、仕事でも恋愛でも一生懸命やるのがいいのではないかと思います。

頑張ってください。

想い出を沢山作って下さい。

あなた自身の人生を歩いて行くように願っています。

この第4集の詩集を読んでいただきありがとうございました。

須永博士

 

この前書きにも書いてあるように、稚内から船にのり、礼文島へ・・・この時、とっても大変な思いをしたそうです。

それから37年後の2011年、須永博士は講演会で礼文島を訪れました。

 

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神崎小学校さんへ 2011.7.19 - 須永博士美術館スタッフブログ

礼文町立神崎小学校さん講演会の続きですもうすぐ9月に入ってしまいますが、7月の礼文の旅日記は、まだまだ始まったばかり完結まで、不定期ですがお...

神崎小学校さんへ 2011.7.19 - 須永博士美術館スタッフブログ

 

 

あの日、たった場所と同じ場所へ・・・

 1974年2月の礼文島にて

2011年7月23日の礼文島にて

この時、私も一緒に礼文島へ行かせてもらったのですが、この場所に向かう時の須永博士の感動が伝わってきて、37年前にタイムスリップ、そして37年前の須永博士にこの姿を教えることが出来たなら…なんて考えたりもしました。

1974年2月の礼文島、雪で真っ白。
この時は大変な思いをしたそうです。


人間詩集にその詩が載っています。

「北海道 礼文島

厳冬の礼文島です

二月の礼文島です

考えが甘すぎました

いま着いたばかりの

波止場に横たわっています

稚内からの船は

木の葉のように揺れました

慣れた地元の人は

みんな船の中で寝ていました

わたしはデッキで

波しぶきをあびて

手すりにしがみついて

やっとここまで来ました

知らないというのは恐ろしいです

島の人が言うには

天候によって 次はいつ

船がでるかわからないとのことです

バスも宿もほとんど無いと言われました

帰りの船で

もどった方がいいと言われました

わたしはふらつく足で

乗ってきた船にへたり込みました

みんなわたしが悪いのです」

冬の礼文島に、ほぼ下調べなしで船に乗って向かうなんて、無謀なことだったのでしょうが・・・それもまた、今となれば良い経験ですね。

旅の中でいろいろな経験をしながら、その時その時に感じたことを書き留めて、詩集を作ってきた須永博士の人生・・・

また続きを書きます。

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須永博士の歴史を紐解く②

2020年06月27日 | 須永博士の歴史を紐解く

 

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須永博士が坊主にした理由 - 須永博士美術館スタッフブログ

43年前の今日6月11日-須永博士美術館スタッフブログ東京の須永博士自宅に保管されていた資料などを熊本の須永博士美術館に送ってくれています。...

須永博士が坊主にした理由 - 須永博士美術館スタッフブログ

 

 先日、須永博士が坊主にした日(今から43年前)を紹介しましたが、須永博士の資料や昔の詩集(今は絶版)を読んでいると、事実が書かれてありました。

 

 

 

須永博士が昭和47年から発行し続けていた「小さな夢の詩集」第11集(現在販売中の11集とは別のものになります。)昭和57年(1982年)発行です。

その、最初の言葉に書かれてありました。

「今から5年前、仙台にての展覧会の時、12歳の少女が゛10歳の妹が白血病であと2か月でこの世を去ります。妹の痛みがやわらぐ詩を書いてください。”といわれました。わたしはその妹さんの心がわたしの詩でやすらぐことが出来なかったら申し訳ないと、坊主頭にしました。それからも旅をつづけ、もし身体が心が傷つく人に出逢ったら今度こそ、心がやすらぐ詩を作ろうと心に決めていました。」

 

そう、昭和57年の5年前というと、昭和52年 1977年。



1977年6月11日 坊主頭にしたと書いてありました。

もっと心をこめた心あたたまる作品を作るにはそうしなければならなかった・・・という出逢いが、仙台であったんですね。

 

それから、今度こそ、つらい思いをしている人に、心やすらぐ詩を書こう!!と心に誓ったあと、1979年の横山真理さんとの出逢いによって、さらにその想いを強くして、「もう髪の毛は要らない」という決意につながり、その決意が今も続いているんですね。

今は絶版になっている自費出版の「小さな夢の詩集」を読み進めていくと、その中に書かれてある詩は、1集を発行したのは昭和47年 1972年。展覧会は全国各地で30回ほど開催したころでした。それから5年ほどの間に5冊発行しているのですが、当初は愛の詩が多く、展覧会場のかわいいイラストに惹かれて訪れていたのが多くが女子学生だったり、若い女の子だったようです。

恋愛の相談や、お手紙を頂くことが多かったそうで、大好きな人への想いの詩、失恋の詩が載っています。それとともに、「旅人の詩」コーナーがあり、日本各地や世界を放浪した時の詩も載っています。

改めて、頭を丸坊主にして「本気で詩を書くことに命懸けでやろう」と決意した時の、小さな夢の詩集 第11集を読むと、今でも代表作になっている詩がいくつも入ってありました。

10集まで、ひたすら旅をして詩を書き続けてい須永博士であり、

11集からは、またもう1段詩人としての階段を上がり、ひたすらに、がむしゃらに、そして心の底から目の前の人と向き合い、詩を書いてた様子が思い浮かびます。

あとがきの言葉

「今日も自分との戦いを続けています。

二度といくじなしにはなりたくないと思い、自分のやるべきことへの挑戦をしています。

想うあなたにどれだけつくせるのか、自分の求める道をどれだけやりとげることが出来るのか、わたしの素朴な願いです。

一生涯生きても、何もない人もいます。短い人生でも、心を残し、人生をのこし、愛を残した人もいます。

人間、生まれてきてその瞬間、自分の生き方をして、自分にふさわしい言動をして、納得のいける時間をつかめば公開することはないと思います。

あなた、今すべきことに、勇気をもって行動してください。苦しくとも、淋しくとも、前へ進んでください。後ずさりのための苦しみでなく、道を切り開いていくための人生をしてください。

わたしも絶望、無一文からはいあがって来ました。

自分の夢をやりとげてきました。

後悔はありません。

傷ついた数だけ、やりとげた喜びの数が人生にあります。

わたしはまた旅に出ます。

自分のためせるだけの、つくせるだけの力を出して生きてみます。

その中から、〝人生の確かなるもの〟をひとつひとつ見つけて行きます。

あなた、幸せを自分の力でつかんでください。

あなた、道を自分の勇気で切り開いてください。

あなた、自分の弱さに負けないでください。

須永博士

 

 

 

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私の息子へ書いた詩

2020年06月27日 | スタッフより

須永博士美術館は6月1日より館内見学も再開しております。

が・・・平日はゆっくりした日が続いており、作品の整理などもしています。

その中に、2011年に私の息子に書いてくれた詩がありました。

2011年9月3日。 1999年生まれの息子が12歳、6年生の時です。性格は優しくおとなしいほうで、勉強も苦手、好きなこと(漫画を読んだり、ゲームをすること、寝ること)はするけれど、家出の勉強や、運動もあまり得意ではなくて将来の夢も何もないころだったなぁ・・・

わたしも、初めての子供で、子育てにも悩むこともいっぱいありました。

そんなころに須永博士が書いてくれた詩です。

 




「けんたへ

人間はなぜこの世に生きているのか

なぜ この世を生きてゆくのかは

この世に生きて

自分の好きな道をみつけて

夢をみつけて

友をみつけて

愛をみつけて

幸せになってゆくことです

そのためには勉強をして

身体をきたえて

生きることを学んで

そして世の中に出たとき

どんなことにも我慢して

努力して挑戦して

やりとげてゆく

自分をつくっておくことです

それがなければ

厳しい大変な世の中は

生きてゆけません

ゆっくりでいいのです

一歩一歩でいいのです

ひとつひとつでいいのです

いま自分のやれることを

その時 そのとき

一生懸命 明るく楽しく

元気にやってゆくことです

けんたへ

生きることはすばらいいことが

たくさんあります

それを自分の力でつかんでいってください

すてきなたのしい人生をつくっていってください

あなたならやれます

つくれます」

小学校のころ、何になりたい、どんな仕事をしたいという夢、目標がなかった息子ですが、中学に入り陸上部へ。でも足は遅く、練習は一生懸命していましたがけがをしてしまい、1年間でやめてしまいました。

それから1年くらいして、息子に、「何をしている時が好き?楽しいと思う?」と聞いたら、

「部活をしている友達が 疲れたぁと言った時に、身体をもんであげて、その時に気持ちいい、ありがとう と喜んでくれる時」と言いました。

そうかぁ、いいね!そういうお仕事もあるよ!と、整体師の話をしました。

実は、私も子供のころからけがが多く、接骨院、整骨院、病院のリハビリに何度もお世話になってきていましたので、それで助けてもらい、一度「整体師の勉強をしてみたいなぁ。」なんて思ったこともあり、どういう資格が必要か・・・とか調べていたこともありました。

息子に話してみると、「それいい!!」と

それからは、整体師になるため、国家資格である「柔道整復師」の資格を取るためには・・・と、目標が定まり、高校入学するときにも、もう進路は「柔道整復師の資格を取るための勉強ができる学校」に絞られていました。

そして高校卒業し、3年間の専門学校に通い、今年の春に試験がありなんとか合格!

無事に、整体師のタマゴとして就職し、働いています。

小、中学ではなかなか勉強もうまくいかず、生きることにも悩んだりしていた息子ですが、息子を見ていて思ったのが、

「自分の好きなこと」をみつけることが出来たこと、それはつらい経験もあったけれど、だからこそみつけられたものでもあり、それをみつけてからは一直線!!本当に、よくがんばって勉強したなぁと。

資格を取れたのは、そのスタートラインに立ったということで、ここからが本当の勉強が始まっていることを実感し、精進しているようです。

 

須永博士も、息子のように、未来ある子供たちに夢を持てるような詩をもっともっと書きたいと思っています。

今は、直接会って詩を書くことが出来ませんが、お手紙やファックスなどで送っていただき、その人のために詩を書くことは可能です。

大きさや、ご予算に応じてお書きいたします。(11,000円~)

須永博士美術館までお問い合わせください。


#須永博士

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須永博士の歴史を紐解く①

2020年06月26日 | 須永博士の人生

もう6月も終わりますね・・・

2020年の半分が過ぎようとしています。

今年に入ってから、新型コロナウィルス感染症が全世界に広まり、これまで当たり前のようにできていたことからガラッと生活が変わり・・・須永博士美術館も4月10日から5月31日まで臨時休館しておりました。

4~5月、娘たちの通う高校は週に1日の登校日のみで、ほかの日は家庭学習。部活も無い日々が続いていました。

6月1日から学校が再開し、お弁当も始まり、部活もスタート!

高校でもホッケーする!と楽しみにしていた今年入学した娘も、3年生の姉と一緒にできる残りわずかな部活動に汗を流しています。

須永博士美術館も、館内の見学をお休みしていた間は

http://sunagahiroshi.cart.fc2.com/

↑須永博士美術館WEBショップ


からのご注文受付のみでしたが、館内の見学&お買い物も再開しています。

ですが、今日現在も平日はとってもゆっくりと静かです。

時間がたっぷりあるので、今、須永博士の資料を集めたり直接須永博士に質問してこれまでの人生を聞き直したりして、「須永博士の歴史」をまとめているところです。

これまで知っていたようで知らなかったこと、驚くようなこと、感動することがあり、できれば書籍にできるといいなぁとも思っています。

 

今のうちに、聞きたいことは聞いてこうと思いますので、皆様もご質問、聞いてみたいことがありましたら須永博士美術館へご連絡ください。

sunaga-h-b★hello.odn.ne.jp

 

「須永博士の人生」のブログ記事一覧-須永博士美術館スタッフブログ

↑こちらに、須永博士の人生も書いています。

昭和17年 (1942年)2月11日に生まれた須永博士、両親の元、一人っ子で育ちました。

「絵描きになりたい」「詩人になりたい」とこの道をめざし始めたのは21歳の時。

20歳の時に父親が脳出血で目の前で他界してから1年後のことでした。

「人って、こんな簡単に死んでしまうんだ」と、父親の死で感じたこと

18歳の時に就職した会社で、なんのとりえもない須永博士は会社で「お前は駄目だ」「役に立たない」と言われ続け、人に会うのも外に出るのもだんだんと怖くなり

 

「対人恐怖症」になってしまった。

 

逆境をはねかえす力も無かった須永博士は、1年半家に閉じこもり、することは絵を描くことと、本を読むこと。

その読んでいた本の中に、「詩集」があった。

その本のタイトルは「わが愛する詩人の伝記」

室生犀星(むろおそうせい)という詩人の著書なのですが、

「各詩人の人がらから潜って往って、詩を解くより外に私に方針はなかった。私はそのようにして書き、これに間違いないことを知った」。藤村、光太郎、暮鳥、白秋、朔太郎から釈迢空、千家元麿、百田宗治、堀辰雄、津村信夫、立原道造まで。親交のあった十一名の詩人の生身の姿と、その言葉に託した詩魂を優しく照射し、いまなお深く胸を打つ、毎日出版文化賞受賞の名作。」

と本の紹介にあるように、私でも名前を知っている詩人の方々が実際に生きていた時代のことで、室生犀星さんが訪ねて行ったり、出逢いの中から感じたことなども書かれてあって・・・

わたしもものすごく感動しました。

20~21歳のころの須永博士の心に、この本との出逢いはものすごく大きく響いたんですね。

「涙があふれてきて、生きる力が込み上げてきた」と言っていました。

こんなメッセージがあります。

このメッセージに書かれてある、

「人間の優しさ」を与えてもらったのは、絵描きと詩人をめざして旅をしていた須永博士の生きる力になりました。

 

http://sunagahiroshi.cart.fc2.com/ca2/15/p-r2-s/

「風に吹かれて」に、そのことも書かれています。

自分さがし、自分を強くしたい、その想いで旅に出た須永博士でしたが、旅の中で出逢う人に何度も助けられたことがありました。

また、続きを書きます。

須永博士の人生の中で一番つらかった時、それは18歳から22歳の時

その時のつらさ、絶望感、人間不信の想いをしたことが、今も心の中で詩を書くエネルギーになっていることは確かです。

 

 

 

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沖縄の詩 

2020年06月23日 | スタッフより

6月23日は、「慰霊の日」

このブログでも、毎年書かせていただいていますが、私が「6月23日は慰霊の日」ということを知ったのは2006年 それまでは、今から75年前の沖縄でどのようなことが起きていたのか、なぜ6月23日が「慰霊の日」で、東京で良まれ育った私がこれまで知ることがなかったのかわかりませんでした。

須永博士の旅に同行し、沖縄へ毎年行くたびに、沖縄の方々から教わり、沖縄が抱えてきている想いを教わり、そのたびに平和の大切さを感じます。

 

また今日、ここで書く前に・・・この映像を見ました。

https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/common/moviepopup_l.html

↑NHK特集 沖縄戦と太平洋戦争

 

今年に入ってからも、普天間基地での出来事、つい先日の嘉手納基地での出来事、こちらでは新聞に小さな記事が載るくらいですが、そこに住む方々がどん想いをされているのか・・・

今も、75年前に太平洋戦争が終結した日と言われていますが、沖縄の方々にとって終わってなんかいないですね。

おととし須永博士が講演に行ったのは、普天間基地とフェンス1枚で境になっている普天間第二小学校さん。

本当に、「このフェンスだけ?」と驚きました。

 

2018年11月沖縄の旅 総集編その1 - 須永博士美術館スタッフブログ

今回の沖縄行きは、今年の春にご連絡いただいていました。普天間基地に隣接する普天間第二小学校さんの創立50周年記念に、ぜひ講演会をしてほしいと...

2018年11月沖縄の旅 総集編その1 - 須永博士美術館スタッフブログ

 

↑写真は、普天間第二小学校の屋上から。

この工程の向こうが普天間基地です。

そうそう、

須永博士が書いた沖縄の詩、1986年発行の「青春まっしぐら」にもあります。

今から45年前に沖縄で書いた詩です。

 

 

 

ハイビスカス

それは本当に赤い美しい花です

南の熱い国の花だからでしょうか

それとも乙女たちの流した

赤い血がそうさせるのでしょうか

いま姫百合の塔の前に

わたしは立っています

千羽づるがそなえられています

百合の花がたむけられています

乙女たち名前が石碑に

きざまれています

日の前には大きなほら穴があります

追いつめられ

たどりついたこの場所で

ある者はくちびるをかんで

ある者は抱きあい さしちがえて

生命を絶ったそうです

なにを考えて

なにを未来にのぞんで

なにを信じて

この世を去っていったのでしょう

未練はなかったでしょうか

こわくはなかったでしょうか

これが自分の運命と

あきらめることが出来たのでしょうか

一度はアメリカの地であった沖縄も

日本に復帰しました

青い空もすきとおった海も

さとうきび畑も昔のようになりました

でもわたしは思うのです

いままで長い旅をして

自分の心になにかをうけとめてきて

心から感ずることといえば

無味乾燥

そんな世の中がくるのではないかと

いうことなのです

人とのつながりもしらじらしく

求めて行った自然もつくりごと

開発という名で

すべてが壊されて行くようです

みんななくなって行きます

心を打つものが消されて行きます

いまやっと日本に帰った沖縄さえもが

汚されて行くようです

無垢のままの姿を求めているのに

あたりまえの姿でいてほしいのに

なにもかもがありきたりになろうと

しているのです

どうしようもないことだと

あきらめてしまっては

生きることさえつまらない時代が

くるように思えるのです

なんとかしなくては

このままでは

いまわたしは

太平洋戦争の激戦地

沖縄の地に立ち

姫百合の塔をみつめ

ひとり心につぶやいています」

 

45年前というと、1975年 沖縄が返還された1972年から3年後ですね。

その時に須永博士が見た沖縄、そして日本は、どう見えたのでしょうか…

このままじゃいけない、という思いが、この詩を読んで感じました。

45年前「開発という名で壊されていく」と思った日本は、戦後今の日本を作ってきて、須永博士が当時感じたことと今…どう違って、どう同じでしょうね・・

また、ファックスで聞いてみようかな。

 

沖縄で、激しい地上戦が行われ、20万人もの命が奪われた約3か月にわたる戦い

犠牲になられた方へのご冥福を祈り、命が残り、つないできてくださった方への敬意表します

これからも、平和の大切さも学んでゆかなければ・・・

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安慶名愛さん

2020年06月22日 | スタッフより

 

安慶名愛さん ありがとう💖 その1 - 須永博士美術館スタッフブログ

2019年6月22日(土)、沖縄から安慶名愛さんが須永博士美術館へ来てくださいました✨ギターと一緒に飛行機に乗って・・・一足先に、20日に小...

安慶名愛さん ありがとう💖 その1 - 須永博士美術館スタッフブログ

 

 

 

安慶名 愛さん ありがとう その2 - 須永博士美術館スタッフブログ

2019年6月22日のFreeLive↑前回のブログ2019年6月22日に、沖縄から歌いにきてくださったシンガーソングライターの安慶名愛さん...

安慶名 愛さん ありがとう その2 - 須永博士美術館スタッフブログ

 

 

安慶名愛さんありがとう その3 kotodama - 須永博士美術館スタッフブログ

その1その2に続き・・・その2でも書きました、【須永博士へ、いつの日かお礼と恩返しがしたいと願い続けていた愛さんからの、想いのたくさん詰まっ...

安慶名愛さんありがとう その3 kotodama - 須永博士美術館スタッフブログ

 

 

沖縄のシンガーソングライター 安慶名愛(あげなまな)さんが小国に来てくださり、須永博士美術館で特別ライブコンサートをした日から1年が経ちました。

1年後、新型コロナウィルスが全世界に広がりこんな今になっていることなんて想像もできない、貴重なひと時でしたね。

小さな美術館が特設ライブ会場になり、駆け付けてくださった方々と感動のすてきな歌を聞きました。

 

この日、はるばる沖縄から小国まで来てくださったのは、10年越しに須永博士に「お礼を言いに」との想いでした。

 

Kotodama〜須永博士物語〜3

 

安慶名 愛

 

 

愛さんのブログ↑でも公開してくださっていた、須永博士への感謝を込めて書いてくださった詞 タイトルは「Kotodama」

「Kotodama」
作詞・曲 安慶名 愛

冷たくて灰色の
言葉の壁に押しつぶされそうで
暗く狭い部屋の中
心にまでもカギをかけて

いっそのことこのまま
誰にも見つけられずに
隠れていよう
ひとりぼっちに慣れてしまってた


どれくらい時間が経ったんだろう
あの青い空がまた見たくなった
ここから誰か連れ出してくれないかな


真っ白なページに綴られてく
一つ一つの言葉たち
たしかに生きて心を潤してゆく
抱えてた 消してしまいたい想いまでも
溢れる涙がそっと洗い流してくれた

 

久しぶりに見た青空は
気持ちまでも晴れやかにする
まるであの日あなたが書いた
言葉たちのように


ずっと胸にしまい込んでた
色あせた夢にまた色をつけた
明るい未来へと連れ出してくれたんだ


辛いとき苦しいとき
いつだって思い出すのはあなたの言葉
あの日のように心をまた潤す
芽生え出した 決して忘れたくない想いに
溢れた涙がゆっくりと注がれてゆく


きっと今日もどこかで
心無い言葉が誰かを傷つける
でもその度に優しい言葉が生まれてきて
きっと誰かに降り注ぐ


真っ白な一ページに書き綴っている
この言葉たちは
あなたの心に優しく降り注ぎますように
その言葉をこの声でこの歌で伝えたくて
私は歌っている これからもずっと
ずっと、、、

 

 

中学2年生の時に沖縄で出逢った愛さん 当時は苦しい思いをしていて、学校をお休みしていた時でした。

 

安慶名愛(あげな まな)さん Free Live in 須永博士美術館 - 須永博士美術館スタッフブログ

「カルミヤ~<笑顔の花~」安慶名愛安慶名愛さん沖縄から熊本へ!須永博士美術館に歌いに来てくださいます!入館無料です。(お席に限りがあり...

安慶名愛(あげな まな)さん Free Live in 須永博士美術館 - 須永博士美術館スタッフブログ

 

↑その記事

大粒の涙を流し、握手を交わして別れてから10年・・・愛さんは、言葉で傷つき苦しんだ経験から、言葉で人を勇気づけることができることを知り、詩を書くようになり、その言葉を歌で表現しています。

愛さんのブログでも4回にわたり書いてくださいました。

 

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熊本小国町へ〜須永博士物語〜1

 

安慶名 愛

 

 

 

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熊本小国町へ〜須永博士物語〜2

 

安慶名 愛

 

 

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Kotodama〜須永博士物語〜3

 

安慶名 愛

 

 

ほほえみをたやさずに〜須永博士物語〜4

 

安慶名 愛

 


愛さんの小国でのライブ、第二回も必ず実現したいです!

愛さんに託した「ほほえみをたやさずに」、そしてもう一度「Kotodama」を生で聴きたいです!

 

 



 

 

 

 

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2020年06月22日 | 小国の風景・情報・つぶやき

6月1日から娘二人の通う高校は学校再開し、部活動も始まっています。

登下校、登校中のマスク着用はもちろん、体育の授業もマスクをしながら

教室は常に換気、4つの扇風機で暑さをしのいで

お弁当もやっと始まりましたが、全員席はそのまま前を向き、会話せずに食べる

部活動は平日2時間まで、週末も土曜日のみ、2時間(娘の入部しているホッケー部のことですが)

先生方も様々な工夫をしながら、安全に学校生活が送れるように努力してくださっている様子が子供たちの話から伝わってきます。

 

そんな新しい形での学校生活の中でも、挑戦すること、学ぶこと、感じること、楽しいこと・・・いろいろあって、学校から帰ってきてから話を聞くのも楽しみです。

先週は、「みんなずっとマスクしてるから、よく顔がわからない子もいてね、今日マスクとった顔を初めて見た子に・・・こういう顔してたんだぁ~~って、なんか想像と違ってた。」と、ワクワク感と新鮮さと驚きが混じったようなことを言ってたり

「友達のお母さんにも、〝マスクとった顔をゆっくり見てみたいなぁ〟って言われたよ(他の中学校だった友達の保護者さんから)」

 

それや、高校にツバメの巣がいくつもあるのですが、教室の窓側に座る娘、ものすごい勢いで教室の外の壁にある巣に飛んでくるツバメにいつもドキッとしてるとか。窓が開いているので入ってきそうで怖いようですが、さすがツバメ、すれすれぎりぎりのところでちゃんと巣に行くんですよね。

この娘の発言は、このブログでも過去にもいろいろと書いたこともありましたが、ストレートな感情のままの表現で、「そうとらえるんだぁ」と思う時もあります。

 

娘のつぶやき - 須永博士美術館スタッフブログ

今日、熊本市内に出掛ける用事があり、娘2人も一緒に車で向かいました。その途中、とうもろこし畑が広がる風景の中で、背丈の低い可愛いコスモスが横...

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ありがとう - 須永博士美術館スタッフブログ

以前、人間の心というタイトルで書いた8歳の娘との、ちょっとした嬉しい出来事この前、夕飯を作っている時に「ほなみ、テーブル拭いてくれる?」と頼...

ありがとう - 須永博士美術館スタッフブログ

 

 

 

人間の心 - 須永博士美術館スタッフブログ

先日、夜寝る前に8歳になったばかりの娘が私に聞いてきました。「ねぇ、寝るとでる“何とかホルモン”ってなんだっけ」と。「あぁ、成長ホルモンね。...

人間の心 - 須永博士美術館スタッフブログ

 

 

先日はテレビを見ていて「安部さん、疲れた顔してるねぇ。自分のことじゃないのにやることがたくさんあって、それでも文句言われるしねぇ、大丈夫かなぁ。」なんてつぶやいてました。高校1年生。小さかった娘も体と心の成長を感じながらも、根本にある優しさもちゃんとそのまま育っていることに、過去の会話を振り返ってうれしい気持ちになりました。

親バカのようですが・・・

 

それと、今年中学一年生になり、4人で自転車で通っている男の子たちがいます。

6月初めから、ちょうど娘たちの朝課外の登校時間と重なって、小さな体と大きな自転車で、上り下りの道を一生懸命通っている姿を見かけました。

娘たちを高校に車で送った帰りに、中学まであと少し というあたりでまた見かけるのですが、それぞれ自転車をこぐスピードが違い、1人の子はかなり遅れを取っているようでした。

3人を見かけてからしばらく進んだ頃に、もう一人の子が一生懸命、上り坂をこいでいました。

それから、娘たちがテスト期間に入り登校時間が遅くなったので10日間ほど見かけることはなかったのですが、今日からまた朝課外が始まり、娘を送った後に自転車の男の子たちが。

すると、一番遅れていた子が前にいて、あと3人は後ろからペースを合わせるようにいました。

すごい!優しいなぁ。 ちらっと目を向けると、一番後ろにいた子が気付いてぺこりと頭を下げてくれました。もう、おばちゃんは運転しながら思わずウルウルしちゃいました

この子たちが中学3年生になるころ・・・どんなにたくましく、どんなに強い友情、絆で結ばれた4人になるだろうか・・・

本当に、子供たちから学ぶことがたくさんあります。

 




 

 

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須永博士が坊主にした理由

2020年06月12日 | 小さな夢の詩集シリーズ

 

43年前の今日 6月11日 - 須永博士美術館スタッフブログ

東京の須永博士自宅に保管されていた資料などを熊本の須永博士美術館に送ってくれています。その中に、1977年ごろにファンの方々へ送っていたハガ...

43年前の今日 6月11日 - 須永博士美術館スタッフブログ

 

↑昨日のブログでは、須永博士が人生初の坊主にした時のことを紹介しましたが・・・

わたしの知っているかぎりでは、1979年に浜松で出逢った横山真理さん(当時13歳)との出逢いから頭を丸めた・・・と記憶していたのですが、昨日も紹介したハガキではその2年前の1977年6月11日に坊主にしたと書いてありました。

この2年間の間・・・それと、坊主にした本当の理由・・・須永博士本人に聞いてみました。

ファックスで質問したら、電話がかかってきて直接聞きました。

 

*****************************************************************

 

「それはね、もう20代後半ぐらいからずっと悩んでいたんだよ。

髪が抜けることが嫌で嫌で・・・

でもこれは遺伝的なことでね。

親戚のおじさんたちもみんなそういう感じだったから。

だから、20代後半からは展覧会の時は帽子をかぶっていた。

恥ずかしいから。

下を向いて詩を書くから、見られるのが恥ずかしい、嫌だった。

ただ、これを気にしていると、集中的に詩ができない。書けない。

いっそのこと、短くしてしまおう!と思ったのが1977年 35歳の時だったんだよ。

 

この、髪が抜けてゆく、薄くなってゆくということは自分にとってものすごく本当に嫌なことで、気にしていたんだ。

その時は坊主にしたけれど、やっぱりツルツルは嫌で、そのあとはだいたい5分刈りくらいだったかな。

 

そして、それから2年後、静岡の浜松駅ビルで展覧会をしている時に真理ちゃんのお母さんが展覧会に来てくれて、その翌日真理ちゃんを抱えてきてくれて・・・」

 

(↓真理ちゃんとの出逢い、2008年のブログに書いてありました。)

 

5月11日母の日 - 須永博士美術館スタッフブログ

少し早いですが、5月11日は「母の日」ですね。須永博士の詩には、「母」「母への感謝」が、色紙と中パネルであります。ちなみに父は、「親父の背中...

5月11日母の日 - 須永博士美術館スタッフブログ

 

病気と闘い、最後の瞬間まで生きることをあきらめなかった横山真理ちゃん、さっきの電話で当時のことを、本にも書いていないことを教えてくれました。

「それから浜松で展覧会があると、展覧会が終わってから浜松駅から歩いて3~4キロぐらいの病院まで歩いて真理ちゃんに会いに行っていたんだ。会って旅の話をしたり、詩をプレゼントしたりね。

お母さんから、真理ちゃんが亡くなったと連絡があって、車で6時間くらいかけて東京から浜松まで6時間くらいその時はかかって、ご葬儀に行った。

お母さんから、真理ちゃんの最期のことを聞きました。

息を引き取る前、最後の力を振り絞ってお母さんの手を握り、「お母さん、お母さん、お母さん、お母さん・・・・・」と真理ちゃん

お母さんは、「お母さん」という真理ちゃんの言葉を指折り数えていたそうです。

すると、約1分間の間に40回、「お母さん、お母さん、お母さん」と言い続け、40回目に「お母さん」と言って、静かに息を引き取ったそうでした。

その話を聞いて、「お母さん、息を引き取る瞬間に、それは無理でしょう、そんなことできないでしょう。」と言ったんだ。すると真理ちゃんのお母さんは、

「いえ、ほんとです。真理は、最後まで本気で生きたんです。」そう聞いて、祭壇の真理ちゃんの写真を見たときに、真理ちゃんが

「おじさん、本気をだせばなんでもやれるよ」って心で感じた。真理ちゃんの笑顔の写真から、そう聞こえた。

その時に

「なんだよ俺は。髪の毛が抜けるくらいでくよくよしてるんじゃないよ。そんなことでいちいち恥ずかしいなんていってるんじゃねぇ!」って自分に言った。

それで、真理ちゃんの家の近くの床屋さんに行って「一番短くしてください。」と、本当の意味での丸坊主にしてもらった。

「俺は詩を書くことに命懸けでやろう。」と、それから本気になった。そこからだね、本当に、本気で詩を書くことを始めたのは…。」

 

****************************************************************

 

今日は、こんな話を聞けました。

1977年に坊主にしたのは、髪が抜けてゆくことを気にして、詩を書くことに集中できない自分から抜け出したかったから。

1979年に坊主にしたのは、本気で詩を書くことに命懸けでやろう。」と決意したからでした。

ちなみに、1972年(須永博士30歳)に自費出版で発行した 「小さな夢の詩集」1集の表紙とプロフィール写真(最初はシリーズ化することも考えていなかったので、第1集という表記もありません。)





そして、15年後の1987年(須永博士45歳) 七賢出版から再編集して発行された現在も販売中の「小さな夢の詩集」第1集の表紙とプロフィール写真




 

やっぱりかなり違いますね。

でも、この間15年・・・すごい変化のように思います。ここまで全力で走り抜けていたんでしょうね・・・。

まだまだ貴重なものも届いています。また紹介いたします。

 

 

 

 

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43年前の今日 6月11日

2020年06月11日 | 小さな夢の詩集シリーズ

東京の須永博士自宅に保管されていた資料などを熊本の須永博士美術館に送ってくれています。

その中に、1977年ごろにファンの方々へ送っていたハガキがあり、それを読んでいたら、今から43年前の今日、須永博士の人生の中での大きなことがありました。

それは・・・

1977年(昭和52年)6月11日、須永博士が丸坊主になりました。

丸坊主にした記念すべき日がこのように残っていたなんて…びっくりでした!

 



★6月11日 わたしの頭 坊主にしてしまいました。クリクリのツルツルです。

もっと心を込めた心あたたまる作品を作るためにはそうしなければならなかったのです。

しばらくはこの姿でとおします。

あなたの土地をおとずれたときびっくりしないでください。

明日23日浜松へ展覧会です。27日かえります。

            須永博士

 

******************************************************

そして、浜松での展覧会の後のハガキには

 

 

★あなたお元気ですか。

旅をしているとあちらこちらに美しくさく

あじさいの花が目につきます。23日の朝の汽車で浜松へ展覧会をしに行ってきました。百貨店さんの1回中央玄関にて4日間がんばりました。坊主頭のわたしがすわっているので不気味だったと思います。土日はパントマイムの清水さんも来店してがんばってくれました。

月曜は(27日)名古屋明治村へ行ってきました。昔のたたずまいがそのままのこっていました。

夜東京着、皆様ありがとうございました。

また旅にでます。

      須永博士

*************************************************************

この当時パントマイムの清水きよしさんとコラボ展覧会というようなことをしていたそうです。

詩を書いている須永博士の横で、パントマイムをしている清水きよしさん。

その時の写真はまだ見たことがないのですが、2014年、東京で公演があった時にうれしい再会がありました。

 

 

再会 - 須永博士美術館スタッフブログ

26日の講演会では、願っていれば、いつか本当に叶うんだ!!という出逢いがありましたo(^o^)oこの方は、清水きよしさん。パントマイムの世界...

再会 - 須永博士美術館スタッフブログ

 

43年前に丸めた頭は、詩人として歩んでゆく決意からで、今もその道を歩み続けいている須永博士、今は自分でカミソリで剃っています。

「小さな夢の詩集」の初版バージョンの後ろの写真を見てみました。

 

第1集、昭和47年(1972年)3月12日発行

第2集、昭和47年(1972年)7月18日発行

 

 

 

こんな髪形だったんですね。
スーツを着てる!

 

それが、月日を重ね、出逢いを重ね・・・

昭和52年6月に頭を丸め、その翌年に発行した第8集の写真は・・・

 

 

凛々しい坊主頭の須永博士でした。

 

ということで、今日は、須永博士の「坊主記念日」でした。

 

 

 

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6月9日(火)

2020年06月09日 | スタッフより

6月9日(火)

 

今月から館内見学再開した須永博士美術館

 

定休日は、今月から火曜、水曜となります。

 

ウェブショップからのご注文は受け付けておりますのでよろしくお願いいたします😊

 

 



 

 

ここ数日、晴れの日が続いていますが、それも今日までの予報

 

明日から数日は雨マークが出ています☂️

 

「もし突然明日からず〜っと雨という世界になったらどうなるんだろうね。」と朝娘達に言うと「天気の子みたいだね」と。

 

そうだね、あの映画はそういうストーリーだったね😌

・・

 

今回の新型コロナウィルスも予想できなかった状況に突然なって最初はいろんなことにショック受けたりしたけれど、それでも日々生きてゆくための努力や工夫しながら前に進んでいるね。

 

多くの人が感染したり、命を奪われてしまったり

 

どうにもできないこともあるけど、なんとかしてゆけることもある

 

あきらめなくちゃならなかったこともあるけど、あきらめない気持ちを心の中にしっかり持って、

 

一日一日を大切にしなくちゃね!

 

 

と話しながら、高校へと送り出しました。

 

私も、今日は休館日ですが、することしたいことがたくさん😆💦

 

館内でお仕事します!

 

 





 

 

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表の笑顔の裏に

2020年06月01日 | 須永博士の人生

昨日須永博士から電話があり、この前の「須永博士が18歳~19歳のころに将来なりたかった職業」のことをクイズにした話から…

東京の須永博士の資料室からいろいろと出してみて、自分の当時のことを振り返ったりする時間があったそうです。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

タクシーの運転手になりたいと思っていたころの自分…

対人恐怖症になってしまったのは、そのあとのことで、当時の自分ってどんなだったかなぁと思うと、本当の自分の性格は明るかったんだろうな。

だから、過去の友達は、自分が社会に出てつらいことがあって苦しんでいたとは想像もつかないだろう。

 

だけど、顔は笑っていても心で泣いている時がある

 

つらいことがあれば、たまってゆく。

 

でも、表には出さないで生きていた。

 

だから、だれもそんなこと知らないよね。

 

死のうとまで思ったことも・・・

 

本人の人生と、周りが見ている自分の人生とは違うからね。

 

表を見てるのと、中身を知っているのと違うように。

 

「詩人、絵描きで生きていく」と決めてからは、「自分の絵が世の中に認められるかな」と不安もあったけれど、近所の喫茶店に、勇気を出して「絵を飾らせてください。」とお願いして3枚の絵を飾らせてもらったんだ。

 

そうしたら、喫茶店のお客さんに「おもしろい絵だなぁ」と言ってもらえた。

 

うれしかったなぁ~~

 

そのあと、父の手伝いをしていた家業の写真屋の配達でカメラの修理で銀座ミノルタカメラへ行った帰り道、銀座三愛みゆき店の前を通るとポスターがあって水森亜土さんとやなせたかしさんの絵の展覧会をしていた。

水森亜土さんは終わっていて、その時はやなせたかしさんの絵が飾られてあった。

かわいい絵や詩がいっぱい飾ってあって、それをみて「僕もやりたいなぁ」と思った。

今でも、その時、26歳の須永博士の行動は生涯忘れられません。

 

売り場のカウンターへ行って、2~3人いた女性にドキドキする心臓から言葉を絞り出して・・・

 

「このやなせたかしさんの展覧会の場所は、どうしたらお貸りできるのですか?」

 

と。今思っても、このことが、今の自分の第一歩です。

 

女性が、「この場所にふさわしい、かわいい作品ならばお貸しします。担当者がいますので、電話をしてください。」と電話番号をもらいました。

 

家に帰り、担当者さんに電話をすると、「ぜひ作品を持ってきてください。」と言われ、1週間から10日後にそれまでに描いていた絵を持っていき、見せました。

 

「これはおもしろい、三愛のお店にふさわしい。

7月1日から10日まで、あのプペギャラリーをお貸ししましょう。」

 

当時3月で、そのあとのスケジュールが埋まっていたので空いている7月1日からの10日間というお返事をもらいました。

夢のような話です。

色紙に絵を描き(全部手書き)紙粘土でお面を作り、前の年に結婚した妻が、自分の絵をぬいぐるみにしてくれて、それを持って6月30日の夜、飾りに行きました。

担当の方が言いました。

 

「プライスカードをつけます。」と

 

え!自分の絵に値段が付くのか!?

 

「うちは営業でしていますから、1枚350円のプライスカードを付けます。」と。

 

自分の絵が売れるなんて思ってもなく、値段をつけてもらえることも信じられない思いでした。

 

翌日7月1日、展覧会スタート。その日も絵を描いていて、後から持っていこうと思っているとお昼頃 三愛さんから電話があり、

 

「作品が売れています。追加を持ってきてください。」と。

自分でも驚くほど、色紙を求めてくださる人がいて、ものすごい驚きと感動でした。

 

・・・・・・・・・・

 

須永博士からの電話とファックスで、当時のことを文面にしてみました。

 

やはり、最初の「顔で笑っていても 心で泣いている」

 

そのことが、今も須永博士の心の中には大きな大きなことであり、旅をしてきた中でも、苦しんでいる人にそっと言葉をかけてあげたい、詩を書いて、少しでも心が軽くなってくれたら、という思いがずっとあるんですね。

 

須永博士の20代のころの写真があります。

 

この笑顔の裏の心は・・・

また、この続きも書きます。

 

さぁ、今日は6月1日!

 

いよいよ須永博士美術館の館内見学も再開いたします。

午前10時に開館します。

感染拡大防止策をできる限りしながらの開館再開になりますが、お待ちしています!

 

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