1月23日、熊本県長洲町での講演会の最初に、須永博士が言った言葉です。
「長洲町に やってまいりました
というより、
長洲町に 帰ってまいりました
という気持ちでいっぱいです」
その時、会場からも、拍手がおきました。
とってもあたたかい雰囲気の中、講演会が始まりました。
「ただいま」
そんな気持ちになるのも、ひとりの中学教師との出逢いから、須永博士と熊本のご縁、そして今があるからです。
教壇
という一冊の本が発行された1992年、いまから18年前・・・
教壇に生命をかける、「崎坂祐司先生」に会い、6時間お話しを聞き、それから東京に戻り、たった2ヶ月で完成させた一冊なのだそうです。
少し長くなりますが、この本の誕生秘話を、今日は紹介します。
1991年秋、須永博士が、ある手紙を受け取りました。
それは、須永のファンの女性からでした。
北九州の展覧会で出逢った女性が、あるシンガーソングライターのファンクラブの会報に書かれてあった崎坂祐司先生の手記を読み、
「この崎坂先生の手記を須永先生に読んでもらいたい」
と思ったのだそうです。
そこには、当時37歳の崎坂先生の言葉がありました。
アミロイドーシスという難病におかされ、その残酷な現実を前に一度は人生に絶望しながらも、同僚教師の言葉をきっかけに、残された時間を自分なりの教育にかけようと決意した、その経過と心情が書かれてありました。
(アミロイドーシスとは、いまだに治療法が見つからず、手足がしびれる、走れなくなる、歩けなくなる・・・という具合に、徐々に身体が不自由になっていく病気で、発症して10年~15年で死を迎えるといわれています。)
須永は、この手記を読み終えるやいなや、夢中で詩を書き始めました。
こみ上げる感情に、文字を書く手の動きが追いつかないほどの勢いで・・・。
そして、創作した詩を、崎坂先生へと送ったのでした。
「わたしの気持ちを、なぜこんなにもピッタリと書けるのだろう!?」
と、思いをつづったお手紙が、須永に送られてきました。
崎坂先生が乗り越えてきた現実がお手紙の中に書かれてあり、それは、須永の想像以上のものでした。
「これまで、悔いの無い人生に挑み続け詩人をしてきたが、まだまだ甘えていた。
自分はまだ 力を出し切っていない。」
と思わせました。
一方、崎坂先生もまた熱い思いでいました。
奥様はもちろん、先生を失意のどん底から救うとともに、いつも先生を影から支える先輩教師、奥村稔先生夫妻との心の交流が始まりました。
崎坂先生が 須永に
奥村先生も 須永に手紙を送り・・・
東京と、熊本
詩人と教師。
天命に生きる人・・・
手記を読んでから、まだひと月しか経っていない10月、須永は崎坂先生のいる、熊本へと旅立ちました。
初めて対面した、崎坂祐司先生と、須永博士。
須永が出逢った崎坂先生は、とても明るく、ユーモアに富んだ楽しい会話をする人です。
生徒のことや奥さんのこと、お子さんのことはもちろん、自分の身体のことを語るときも、先生はたえず笑顔です。その屈託の無いすばらしい表情をみていると、「自殺しようと考えた」ほどの苦悩の日々を想像することは出来ません。
本当ならば、家で横になっているのさえ苦しいはず。
でも毎日、生徒の待つ学校へ気力をふりしぼって通います。
先生にとって、「今日も生徒に会いに行く」ということが心の支えです。
数学を教えていた崎坂先生は、
「わかった者は、人に教えろよ。」
「自分だけできればいい、そんな人間にはなるなよ。」
「人には親切にしろよ。あなたの親切いらないと言われるまで親切にしろよ。」
と、人間の心も教えていました。
動かない身体で水泳の模範演技に挑戦したり、マット運動で前転して見せたり・・・自分をさらけだして、生徒と、同僚と、とことんかかわって生きていました。
崎坂先生に出逢った須永は、感じました。
「崎坂先生の明るさ・・・それは、生命の極限を知り、それでもなお自分の人生を生きることに使命感をもつ人の心映えなんですね。
本当に一生懸命な人です。
信念をもって生きている人です。」
この世で人生をやりとげている崎坂先生に出逢ったことは、須永の一日、一日の旅の中で、今でも大きな心の支えになっています。
出逢うべくして出逢ったふたり・・・
須永は、21歳の時、絶望のどん底から這い上がるために詩人をめざして旅に出ました。
その中で、辛くても一生懸命生きる人、真剣に人生と向き合って生きている人との出逢いが、須永自身を絶望の底から救い、そして、人間への讃歌の詩が生まれてきました。
崎坂先生に出逢い、作った詩です。
「“教壇”
わたしはここに生命をかけてきました
目の前にすわっている
わたしの生徒に
今日 どれだけの感動を
生きる力を 明日への夢を
与えてやれるか
わたしは教壇に立って
ひとりひとりの生徒と
心の会話をします
今日元気で 学校へきた生徒
今日悩んで 学校へきた生徒
今日つまらなく学校へきた生徒
ひとりひとりに 生きる力を
与えてやりたいのです
教壇をめざして生きてきたわたしの青春
教壇でついやしてきたわたしの人生
教師として我が生涯ついやしたいとねがいます
わたし人間の限界まで挑戦です
生命の限界まで たたかってみせます」
崎坂先生に教えられた、生命の大切さ、生きることのすばらしさ、教師としての生き様をまとめたい!!
本にしたい!!
その想いが湧き上がり、崎坂先生に取材に行き、6時間、先生の人生をお聞きし、「教壇」が出来上がりました。
出版までは、わずか2ヶ月。常識では考えられないスケジュールでした。
詩人と、先生の熱い想いがつまった本の出版。
熊本で、出版記念パーティーを開催しました。
会場には、学校、病院などの関係者約80名。正面に崎坂先生と奥様、そして奥村先生をはじめとする近親者。
その日、取材にかけつけたのは、熊本県民テレビ(KKT)でした。「ズームイン!!朝!」で、1991年12月27日に放送されました。
この同じ日に、崎坂先生の通う、長洲町 腹栄中学校へ講演に行きました。
「心の出逢いをもとめて」と題し、苦悩にみちた青春時代、放浪の旅、旅で出逢ったさまざまな人たちの話・・・
この時から19年後、2010年に再び長洲町へ訪れ、たくさんの再会が待っているなんて、想像もしていなかったでしょう・・・。
「教壇」は、その時から今まで、たくさんの方々に読んでいただいています。
昨年講演へ行った、大分県の日出生中学校で出逢った先生は、この本に出逢って、教師になったと教えてくださいました。
“教師になって、悩んだ時に、この本を読み返しています。”という方にもたくさん出逢いました。
須永も、講演会の中で、今も崎坂先生との出逢いを語っています。
崎坂先生の人生を語る中で、須永が最後に言う言葉です。
「失敗したっていい
負けたっていい
がんばっているあなたが
大好きです」
この言葉は、崎坂先生から届いた、最後のお便りに書かれてあった言葉です。
そのお便りが届いた2日後、崎坂先生は天国へと旅立ちました。
その時のことを、私も覚えています。
東京の自宅に届いた1998年1月24日の消印が押された一枚のハガキ。
そのハガキには、自分のことでなく、先輩教師奥村先生が病気になり、気遣う言葉が書かれてありました。
「崎坂先生、きっと元気だね。」とつぶやいて、須永と、名古屋の出版社へ行き、詩集「人間詩集」の編集打合せをしました。
そして東京に帰ると、奥様から、先生が亡くなったとの連絡が・・・。
涙をこぼしながら書いた崎坂先生への詩が、急遽「人間詩集」に加えられました。
崎坂先生との出逢い。それは、今も須永博士の心の中で生き続けています。
今年、1月23日の講演会も、腹栄中学校出身の方や、崎坂先生の教え子だった方がたくさん来られ、須永が、「きっとこの辺に、崎坂先生も来られていますね。」と言うと、みなさん、
「絶対にいますね!!」
と、笑顔で答えられていました。
長洲町へ講演に行ってから、崎坂先生が呼んでくれたような気がしていると言っていた須永博士。
このことを書きたかったのですが、だけどなかなか時間が取れなくて書けない。適当には書きたくない・・・。ともどかしい思いでこの何日かを過ごしていましたが、今日書いている中で、おとといが崎坂先生の命日だったことに気づきました。
おとといのきれいな青空。
そして、昨日は外に出ると、太陽の光で、雲が虹色に染まっていました。
きれいな空を眺めながら、
「今日は何の日だっけ・・・。なにかの日のような気がするんだけど・・・。」
と、不思議な気持ちになっていました。
それが今わかって、なんだか心があったかいです。
(手記を送ってくださった、山下さんと、崎坂先生、そして須永博士。)