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↑北千住のお好み焼き屋 笑力の店主 笑ちゃんからお誕生日のプレゼントに美味しい干し柿をもらって喜んで食べたそうです。
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↑北千住のお好み焼き屋 笑力の店主 笑ちゃんからお誕生日のプレゼントに美味しい干し柿をもらって喜んで食べたそうです。
今日は立春ですね。
来週、2月11日に83歳の誕生日を迎える須永博士です。
東京生まれの須永博士が50歳の時に、ここ熊本県小国町に出逢って1998年に須永博士美術館をつくってから27年になり、多くの方が全国各地からお越しくださってきました。
全国各地の旅と展覧会、講演会をして人の前で自分の人生を語ったり、目の前の人に心打つ詩を書き続けてきた人生で、語られてきたこともありますが、あまり話すこともなかったこともあり、
昨年3月に沖縄へ講演会に行くことを機に須永博士の旅や出逢い、そして私が須永博士から聞いた事、ファックスや手紙で教えてもらってきたことをまとめた本、
「生きる力をあなたへ」というタイトルで作りました。
その中に掲載しました自叙伝を、今日から数日に分けて紹介いたします。
【須永博士誕生~】
昭和17年2月11日 東京下町で小さな写真屋を営む父・実(みのる)と、母・静枝の長男として生まれました。
きょうだいは、いません。
一人息子の自分を母は大切に、大切に育てました。
それが生き甲斐でした。
父は大酒のみで、家業の写真屋が軌道に乗っていたこともあり、そのお金で外で飲み歩き、
家ではいつも酔っ払っていた記憶が多くあります。
父と母が楽しそうにしている姿は見たことがなく
笑顔のない家の中で、母は自分に全愛情を注いで守られるように毎日を過ごしました。
今はっきり言えるのは
「母の過保護」
でした。
いつもそばにいて、
「これをしなさい」
「この子と遊びなさい」
「これはダメ」
と、ピッタリくっついていました。
母は、帝王切開での出産で腸が癒着しよく寝込んでいた記憶があります。
【第二次世界大戦による疎開】
昭和20年 3歳のころ第二次世界大戦の影響で母の親戚がいる千葉県茂原市へ疎開しました。
父は東京に残り、戦地の記録を撮るカメラマンをしていました。
親戚の家は精肉店を営んでいて、肉牛を育てていました。
朝早くに叔父に牛小屋へ連れて行ってもらい仔牛に乳をあげたり
親牛に餌をあげたりするのがとても楽しかった記憶があります。
田舎での疎開生活は自然に囲まれていて川や田んぼでザリガニやドジョウを泥だらけになりながら
捕まえたりして遊んでいました。
その年の夏、日本は敗戦となり昭和21年に母と東京に戻りました。
父と母と自分の3人の生活がまた始まりました。
【小学生】
昭和23年春 小学校へ入学。
小学校では、勉強がきらいでした。根本的に「なんで勉強しなければいけないのか」が分からず、
「なぜ難しいことや意味の分からないことを覚えなければいけないのか」そう思って、まったくしませんでした。
遊びはべーゴマや、どんちっぱ、くぎさし それと、やっぱりいろいろな絵を真似して、マンガを描くのが好きでした。
身体はあまり強くなく、性格もおとなしいほうだったと思います。
ともだちは、いたけれど「なんとなく」一緒にいて「なんとなく」遊んでいた感じでした。
それなりに家に友達を連れてきたりもしましたが、母が「あの子はどこの家の子なの?」「親は何をしているの?」と聞かれるのがとてもイヤでした。
友達を連れてくると喜んだ母は、いつも必要以上にたくさんお菓子を出すので、それを目当てにうちに来ていたのではないかとも思いました。
【中学生】
昭和29年春 中学校に入学
「また、退屈な学校生活が始まるなぁ・・・」と思っていた中学1年生の始まり。全校マラソン大会があり、思
いがけず学年2位に。
「お、やればできるじゃん。」
と自分でもおどろき、その勢いで陸上部に入部。野球も好きだったけど、野球部が無かったので陸上部に入部しました。
長距離が好きで、800mと1500mの選手になり、3年生の時には荒川区の中学連合体育大会で800mで優勝しました。
自分の活躍を母も一番喜んでいました。でも、期待が大きく膨らみすぎていました。
3年生の時、マラソンの大会があり全校で6人選ばれる選手の選考に落ちたとき、学校に母親が文句を言いに行ったのです。
自分では、「マラソンは自分に合わないな。800mが走りやすい。」と思っていたので選考に落ちたことも納得していたのですが、
母は期待しすぎていたのです。
そんな事件もありましたが、3年間、陸上を続けられたことは自分自身の大きな自信に繋がりました。
中学時代の性格は小学生の頃と変わらすおとなしいまま。
ともだちも「なんとなく」。走ることと、絵を描くことは一生懸命にできるけど、
そのほかのことは本当に、「ただ、何となく・・・・。」すごしてました。
友達といるときは笑ったりそれなりに会話をしていたけれど、自分から何か行動に
移すようなことはせず目立たない、 特徴の無い子供だったと、自分では思います。
高校受験は、特に行きたい高校も無く、担任の先生に勧められた高校を受験することに。
「君の成績ならこの学校が良いでしょう・・・。」といわれるままに。
1校落ち、合格したもう1校へ「まぁ、いいか。」というような気持ちで進学することにしました。
昨日、「須永博士は器用な人間では無い」と書きましたが、器用、不器用ってなんだろうか。以前、私も子供が小学生のころに子育てやいろんなことで悩んで、「器用、不器用」 それに、「要領が良い、悪い」って何なのだろうか・・・と、須永博士に聞いたことがあります。
2008年のことでした。ある出来事があって、須永博士にファックスで「要領が良い、悪いってどういうことなんだろうか」と。
その時の須永博士からの返信FAXより
「faxの“要領”のことですが・・・。
東京の人ごみの中を歩いてゆくとき、
その流れを知っていてうまくスースー歩いて
自分の行きたいところへ素早くたどりつく人が、要領のいい人。
要領の分からない人は、どうまっすぐ歩いていいのか分からないから
人にぶつかったり
立ち止まったり
歩いてゆくのがこわくなったりする人が不器用な人。
・・・・といってどちらが人間として良いか、成功するかは別です。
頭がよければそれがいいとか、
カッコよく生きていればそれが良いとか、
お金があればそれが幸せとかでは無いと思います。
その反対で幸せな人もたくさんいます。
大切なことは自分のペース、スタイルを持って生きることです。
不器用でもゆっくり自分らしく楽しく生きることが良いと思います。
以上。
須永博士 旅の詩人より。
2008年5月22日
東京にて」
今読むと、また違う気持ちで考えます。
この時から、16年以上の月日が経ち・・・我が子たちも大きくなりました。いろんなことがありました。
私も、いろいろありました。
今も失敗はたくさん。反省も良くします。
あぁすればよかった、と思うときもあります。
でも、結局は、自分が選んだ道、進む方向は戻らないのだから、今の道がベストなんだ、起きたことや間違ったと思うこと、失敗も、今の自分にとって必要なものだったんだなぁと。
そこで、何が大切なのかって・・・
要領が悪くても、不器用でも、そういうことではなくて、今自分がすべきことや、持っている力を出せばいい ということかな。
須永博士は、今も、ものすごく自然体で生きています。
旅をしている時も、腕時計もつけず、携帯電話も持たず、ただ自分の心の赴くまま・・・
それでも、生きてゆける
目の前の人に、生きる力を与える詩を書きたい。その一心で、旅をしてきました。
それも、大きな目標だったと思うけれど、それよりも大きいのは「この道しかない」という想いからでした。
こんな原稿もあります。
↑「生きる力をあなたへ」にこちらも載せています。
「自分の生きるスタイル(生き方)
スピード(動き方)
スケジュール(生きる計画)」
これを自分でしっかり決めておくこと・・・
大切なことですね。
2月5日、流れてきたファックスを読んで驚きました。
「運転免許証を返納してきた」とのこと。
おととし、高齢者講習を受けて、免許更新をしていました。
運転するのは、小国に来た時、町内か遠くて隣の玖珠町に画材などの買い物に行くのと温泉に入りに行くくらいで、展覧会や講演会の時には私か主人が運転して須永博士は助手席に乗って移動していました。
おととしまでは、年に3~4回小国に来ていましたし、滞在期間も長いこともあって、普通に運転していたのですが昨年は、2019年12月に東京に帰ってから1度も来ることが出来ず、東京では車の運転はしません。
昨年11月に小国に2週間ほど来た時も、ほぼ1年運転していない中で、ハンドルを持つのは危険すぎるから、買い物がある時や車で移動したい場所へ行く時には私が運転することを約束していました。
本人は、「大丈夫だろう」という気持ちもあったと思います。でも、その「大丈夫」が、一生の後悔に絶対にしてはいけないという気持ちもあり、
その約束を2週間、守りました。
それから3カ月。
5日にきたファックス
潔さを感じるのとともに、聞いてみたいことが出てきて、ファックスしてみました。
①2月11日に79歳の誕生日を迎える1週間前、免許証を返納しようと思った気持ちは?
②須永博士が最初に免許証を取得して、それから最初に自分の車を買ったのはいつ?
③その車で最初に行った場所は覚えていますか?
④いろんな思い出があると思いますが、車に乗って自分で旅をしている時の思い出は・・・?
そして、昨日2月6日朝、ファックスが届いていました。
スパっと、自分で決断して、「終わり」と、車の運転から卒業した須永博士。
須永博士らしいなぁ。だからこそ、また「はじまり」があるのも、また須永博士の生き方から学びます。
ファックスの中に、「50歳で糖尿病」とありますが、30代から50代、展覧会で1年中日本各地を飛び回り、走り抜け、
展覧会の期間中(だいたい1ヶ所の展覧会で1週間から2週間ほど)は朝食後、会場へ行き、一人一人の人と向き合い詩を書き、昼も夜も食事をとらずに、夜8時過ぎに展覧会を終えて大好きなビールを飲みながらお腹いっぱい大好きなお刺身や焼き魚、ラーメンを食べる。それが明日への活力!!
そんな日常がず~~っとず~~っと続いていたようです。
さらに、講演会の時は、講演前には食事を摂らない須永博士。全身全霊で、自分の生きてきた人生や出逢いを語るには、お腹の中に食べものを入れたくない。なので、講演が続いていた時も、食事は本当に不規則で偏ったものになっていました。
ちょうど50歳の時、小国にアトリエを作り、それまでほとんど受けたことのなかった健康診断を受け、思いっきり「糖尿病」であることが判明!
一緒に旅を始めていた私から見たら「そりゃぁ、そうでしょう」という食生活でした。
それからは、なるべく3食バランスよく食べるように、そしてビールも控えめに・・・が理想ですけれど・・・
いやぁ、難しかったですね。
糖尿病講習を受けるように勧められましたが、「しょうこ、行ってきて」と。
その講習通りに食事を作ったって、それで足りるはずもなく、さらに甘いものが大好き。ビールだってやめられるはずもない。
それが20年続きましたね。
その須永博士が、今から8年前、70歳の時にパタッとビールを飲むのをやめました。
「卒酒」です。
この時も、60歳ごろからだんだんと、それまでの身体との変化を感じ始めて、気持ちは元気なのに、身体が、それまで1日で取れていた疲れが3日、1週間、10日間かかる・・・
そういう事も感じ始め、「もう、講演会も展覧会も無理かな…」とつぶやくことが増えてきました。
きっと、出逢ってきた方々には、そんなことを感じることは無かったかと思います。
パワフルで、明るくて、元気な詩人。
でも、私生活に戻ると、体力の衰えを感じていて、弱気にもなってしまう。
詩を書くことはできる。まだまだ気力もある。でも体力が…
その自分の中での葛藤の中で出した答え、「ビールはもういい!」と、70歳の時に自分で出して、それからは本当に1滴も飲んでいないです。
「命あるかぎり、詩人としての人生を全うしたい」
そう自分で決めて、70歳からは食事にも気を使い、大好きだったビールを卒業した須永博士は、自分でも驚くくらい、朝の目覚めが良く、それまでビールを飲んだら元気になると思っていたけれど、翌日だるかった・・・それが、飲まなくなってから、1日を過ごすのがとても楽になってきて・・・
そんなこともあったんです。
今、79歳になって、以前のように日本全国を飛び回ることはできませんが、もう一度初心に帰って「詩人」としての集大成を作りたいと話している須永博士です。
それと、先日、これから作りたいという詩集のタイトルが届きました。
「生きている」
シンプルな言葉。
シンプルな言葉の中に込められた須永博士の想いを、これからいっぱい聞いてゆきながら、編集してゆきます!
「生きている今」だからこそできること
須永博士の心の底にあるものを、さっき電話がかかってきて話していました。
「私が詩を書く原点は、
生きることを、正当に、誠実にを主体にしている。
でもその、正しいってことが人それぞれある。
時に、周りから見たらそれは違うよ、やめたほうがいいよ
と言われることもあるだろう
周りに迷惑はかけたくないけれど、自分の思いや信念を、良いものは良い、悪いものは悪い
おもしろいものはおもしろい、おもしろくないものはおもしろくないと言いたい。」
と。
その話を聞きながら、いろんなことを思い浮かべたりしました。
「生きている」詩集製作の進行状況もまた、紹介してゆきますね。
2021年2月5日、15時過ぎにファックスが届きました。
須永博士が、自分の運転免許証を返納してきたとのことです。
車の運転が大好きで、若い時には「タクシーの運転手」になりたいという夢も持っていた須永博士。
詩人の道を歩んできましたが、全国各地へ自分の作品を車に積んで自分で展覧会場を作り、また片付けて次の町へ・・・
なんか、こう書いていたら、またまた須永博士に質問したくなったのでいくつか聞いてみます。
昨年5月に皆様に「須永博士が描いていた将来の夢」クイズの答えファックス
須永博士のハイエースの、何代目になるのかな?
絵をドアにプリントした車の最後の車とのお別れ(2008年2月)です。
↓
この後は、私か主人が運転して全国を回っていましたので、須永博士が運転するのは小国に来た時、小国町内を動くときくらいでした。
では、また質問の返信がきましたら続きを書きます。
片づけをする日々が続いています。
今日は、お店の中にある資料を置いてある部屋に雨水が入ってしまい、床が相当濡れてしまった場所を片付けていました。
床に置いてあった段ボールの中のもので処分しなくてはならないものもありますが、この場所は大半が無事でした。
床を乾燥させるには、棚ごと移動させなければならなくて・・・搬出に苦労しましたが、やっっっと半分くらい片付きました。
原稿、資料、データ、約20年分のものや、須永博士が東京から送ってきていた40~50年前の資料もあります。
今後も大切に、そして安全な場所で保管しておこうと思います。
昨日、須永博士から電話があり、
「誰もわかってくれない」という気持ちを持っていた時のことを話してくれました。
先日のブログ、
にも書きましたが、
20歳のころの須永博士は
「顔は笑っていても心で泣いている時がある
つらいことがあれば、たまってゆく。
でも、表には出さないで生きていた。
だから、だれもそんなこと知らないよね。
死のうとまで思ったことも・・・
本人の人生と、周りが見ている自分の人生とは違うからね。
表を見てるのと、中身を知っているのと違うように。」
と、その時は聞きましたが、昨日の電話では、そのころ思っていたことを教えてくれました。
「あの頃の自分は、❝ 生きること ❞ を知りたかったんだ。
生きるって何なんだろう、
本当の生きることってどういうことなんだろう
それを誰かに教えてもらいたかった。
だけど、そういう人が誰もいなかった。
苦しかった。
でも、それは表には出さずに生きていた。
幼いころからの友達に会うこともあったが、その時には普通に明るい自分だったしね。
友達同士の話はしていたけれど・・・
きっと、今の若い人や子供たちも 真剣にどうやって生きていったらいいんだろうと考える時があると思う。
自分の生きて行くことを知りたいと悩むこともあるだろう。
そんな時に、想いを受け入れてくれる人、的確に指示してくれる人が近くにいてくれたらいいよね・・・」
と、自分自身に置き換えて話していました。
その話を聞いた翌日の今日
片付けていた中から、須永博士24歳のころのノートがありました。
今日は、雨は止む予報ではありましたが・・・
昨日の雨も激しかったので、朝起きて空が晴れていた時にはホッとしました
緑が濃くなってきています。たくさんの雨を吸い込んだ大地・・・植物たちは、成長期ですね。
昨日、須永博士が抱いた、「もっと心を込めた詩を書きたい」「心やすらぐ詩を書きたい」との想い・・・
須永博士は、今も丸坊主で、その時の想いを忘れることなく生きています。
昨日紹介したのは、自費出版で作っていた「小さな夢の詩集」ですが、1987年に七賢出版という出版社さんから、それまで発行していたものを10冊に再編集し発売した「小さな夢の詩集」があります。(その後、11~16巻まで発行)
この時にどういう経緯で作られたのかも昨日聞いてみました。
すると、当時本を作ってもらっていた名古屋の印刷会社クイックスさんと、出版していたエフエー出版さんがよく展覧会場にも足を運んでいてくださり、展覧会が終わり食事を一緒にする機会もあったそうです。
そんな中で,七賢出版で当時編集長をしていた方が、須永博士がホテルに帰ってくるのを待っていて、「うちで本を出版させてください。」と。須永博士は、あまりその気はなく、いい返事もしなかったけれど、それが何度も続き・・・じゃあ、作りましょうかということで、それまで自費出版で発行し在庫が無くなれば絶版だった「小さな夢の詩集」の1~20集を再編集して10冊にまとめて発行したそうです。
わたしが、今手元にある自費出版の「小さな夢の詩集」と、再編集した七賢出版発行の「小さな夢の詩集」を読み比べていると、中に入っている詩も自費出版で入っていたもの、新しいものが入り混じっていますが、大きな違いは、前書きと、あとがきのメッセージです。
詩集なので、文章的なものがあるのはこの前書きとあとがきのみなのですが、このメッセージがものすごく心をうたれるというか・・・読んでいると涙があふれてくるんですよね・・・
1~20集、いまでは貴重な、幻のような自費出版の小さな夢の詩集の中から今日は、昭和49年(1974年)発行の第4集の前書きとあとがきを紹介します。
なみだがなみだがあふれて、さきほどからとまらないのです。
なんのとりえもないわたしが、たったひとつ旅をすることだけを生きがいに、行きつくところまでこられられるところまで歩いてきたのです。
そして人のあたたかさを知り、自然の大きさを知り、ささやかだけれど自分なりの道を人生を歩いてきたと感じるのです。
いまわたしのひとつの旅が終わりをつげようとしています。
凍りついた北の果て稚内の町におり立ち、まだ陽もあけぬ道を歩くとき、今日までのことが想い出が旅が心をあつくさせ、涙を雪の中へと落とさせるのです。
力を持つことだけが人間ではない、
強く生きることだけが人間ではない、
誰にもかえりみられずとも、自分なりにふさわしい心と求める道を持って生きて行けばいいのではないかと思うのです。
夜が明けたら、船にのり黒い荒海を礼文島に渡ります。北の果ての行きづまりのところで、わたしの人生をひとくぎりつけようと思うのです。
わたしのめぐり逢うあなた、自然、元気でいてください。
ありのままの姿でいて下さい。
必ずふるさとへ帰ります。
心をさいて詩をつくります。
須永博士
東京下町の片すみで、いま第4集 ”ひとりぼっちの愛の詩”の原稿を書いています。
夜も更け人通りもなくなりました。静かです。
そんな中で、わたしはひとつひとつの詩の中から旅の思い出をめぐり逢った人達のことをおもいめぐらしています。
うそいつわりなく、よく今日まで生きてこられたと思います。旅先で泊まる宿もなく一晩中歩いたこともありました。
あるときは、旅の疲れから汽車の中で意識が遠くなるようなこともありました。
随分とあぶないことに出合いました。
でも、いまこうして生きています。
もしあのとき生命をなくしていたらと思うと、頑張らなければと思うのです。
自分の心に゛これぞ“と思うものがあったら、仕事でも恋愛でも一生懸命やるのがいいのではないかと思います。
頑張ってください。
想い出を沢山作って下さい。
あなた自身の人生を歩いて行くように願っています。
この第4集の詩集を読んでいただきありがとうございました。
須永博士
この前書きにも書いてあるように、稚内から船にのり、礼文島へ・・・この時、とっても大変な思いをしたそうです。
それから37年後の2011年、須永博士は講演会で礼文島を訪れました。
あの日、たった場所と同じ場所へ・・・ 1974年2月の礼文島にて
2011年7月23日の礼文島にて
この時、私も一緒に礼文島へ行かせてもらったのですが、この場所に向かう時の須永博士の感動が伝わってきて、37年前にタイムスリップ、そして37年前の須永博士にこの姿を教えることが出来たなら…なんて考えたりもしました。
1974年2月の礼文島、雪で真っ白。
この時は大変な思いをしたそうです。
人間詩集にその詩が載っています。
「北海道 礼文島
厳冬の礼文島です
二月の礼文島です
考えが甘すぎました
いま着いたばかりの
波止場に横たわっています
稚内からの船は
木の葉のように揺れました
慣れた地元の人は
みんな船の中で寝ていました
わたしはデッキで
波しぶきをあびて
手すりにしがみついて
やっとここまで来ました
知らないというのは恐ろしいです
島の人が言うには
天候によって 次はいつ
船がでるかわからないとのことです
バスも宿もほとんど無いと言われました
帰りの船で
もどった方がいいと言われました
わたしはふらつく足で
乗ってきた船にへたり込みました
みんなわたしが悪いのです」
冬の礼文島に、ほぼ下調べなしで船に乗って向かうなんて、無謀なことだったのでしょうが・・・それもまた、今となれば良い経験ですね。
旅の中でいろいろな経験をしながら、その時その時に感じたことを書き留めて、詩集を作ってきた須永博士の人生・・・
また続きを書きます。
先日、須永博士が坊主にした日(今から43年前)を紹介しましたが、須永博士の資料や昔の詩集(今は絶版)を読んでいると、事実が書かれてありました。
須永博士が昭和47年から発行し続けていた「小さな夢の詩集」第11集(現在販売中の11集とは別のものになります。)昭和57年(1982年)発行です。
その、最初の言葉に書かれてありました。
「今から5年前、仙台にての展覧会の時、12歳の少女が゛10歳の妹が白血病であと2か月でこの世を去ります。妹の痛みがやわらぐ詩を書いてください。”といわれました。わたしはその妹さんの心がわたしの詩でやすらぐことが出来なかったら申し訳ないと、坊主頭にしました。それからも旅をつづけ、もし身体が心が傷つく人に出逢ったら今度こそ、心がやすらぐ詩を作ろうと心に決めていました。」
そう、昭和57年の5年前というと、昭和52年 1977年。
1977年6月11日 坊主頭にしたと書いてありました。
もっと心をこめた心あたたまる作品を作るにはそうしなければならなかった・・・という出逢いが、仙台であったんですね。
それから、今度こそ、つらい思いをしている人に、心やすらぐ詩を書こう!!と心に誓ったあと、1979年の横山真理さんとの出逢いによって、さらにその想いを強くして、「もう髪の毛は要らない」という決意につながり、その決意が今も続いているんですね。
今は絶版になっている自費出版の「小さな夢の詩集」を読み進めていくと、その中に書かれてある詩は、1集を発行したのは昭和47年 1972年。展覧会は全国各地で30回ほど開催したころでした。それから5年ほどの間に5冊発行しているのですが、当初は愛の詩が多く、展覧会場のかわいいイラストに惹かれて訪れていたのが多くが女子学生だったり、若い女の子だったようです。
恋愛の相談や、お手紙を頂くことが多かったそうで、大好きな人への想いの詩、失恋の詩が載っています。それとともに、「旅人の詩」コーナーがあり、日本各地や世界を放浪した時の詩も載っています。
改めて、頭を丸坊主にして「本気で詩を書くことに命懸けでやろう」と決意した時の、小さな夢の詩集 第11集を読むと、今でも代表作になっている詩がいくつも入ってありました。
10集まで、ひたすら旅をして詩を書き続けてい須永博士であり、
11集からは、またもう1段詩人としての階段を上がり、ひたすらに、がむしゃらに、そして心の底から目の前の人と向き合い、詩を書いてた様子が思い浮かびます。
あとがきの言葉
「今日も自分との戦いを続けています。
二度といくじなしにはなりたくないと思い、自分のやるべきことへの挑戦をしています。
想うあなたにどれだけつくせるのか、自分の求める道をどれだけやりとげることが出来るのか、わたしの素朴な願いです。
一生涯生きても、何もない人もいます。短い人生でも、心を残し、人生をのこし、愛を残した人もいます。
人間、生まれてきてその瞬間、自分の生き方をして、自分にふさわしい言動をして、納得のいける時間をつかめば公開することはないと思います。
あなた、今すべきことに、勇気をもって行動してください。苦しくとも、淋しくとも、前へ進んでください。後ずさりのための苦しみでなく、道を切り開いていくための人生をしてください。
わたしも絶望、無一文からはいあがって来ました。
自分の夢をやりとげてきました。
後悔はありません。
傷ついた数だけ、やりとげた喜びの数が人生にあります。
わたしはまた旅に出ます。
自分のためせるだけの、つくせるだけの力を出して生きてみます。
その中から、〝人生の確かなるもの〟をひとつひとつ見つけて行きます。
あなた、幸せを自分の力でつかんでください。
あなた、道を自分の勇気で切り開いてください。
あなた、自分の弱さに負けないでください。
須永博士
もう6月も終わりますね・・・
2020年の半分が過ぎようとしています。
今年に入ってから、新型コロナウィルス感染症が全世界に広まり、これまで当たり前のようにできていたことからガラッと生活が変わり・・・須永博士美術館も4月10日から5月31日まで臨時休館しておりました。
4~5月、娘たちの通う高校は週に1日の登校日のみで、ほかの日は家庭学習。部活も無い日々が続いていました。
6月1日から学校が再開し、お弁当も始まり、部活もスタート!
高校でもホッケーする!と楽しみにしていた今年入学した娘も、3年生の姉と一緒にできる残りわずかな部活動に汗を流しています。
須永博士美術館も、館内の見学をお休みしていた間は
http://sunagahiroshi.cart.fc2.com/
↑須永博士美術館WEBショップ
からのご注文受付のみでしたが、館内の見学&お買い物も再開しています。
ですが、今日現在も平日はとってもゆっくりと静かです。
時間がたっぷりあるので、今、須永博士の資料を集めたり直接須永博士に質問してこれまでの人生を聞き直したりして、「須永博士の歴史」をまとめているところです。
これまで知っていたようで知らなかったこと、驚くようなこと、感動することがあり、できれば書籍にできるといいなぁとも思っています。
今のうちに、聞きたいことは聞いてこうと思いますので、皆様もご質問、聞いてみたいことがありましたら須永博士美術館へご連絡ください。
sunaga-h-b★hello.odn.ne.jp
「須永博士の人生」のブログ記事一覧-須永博士美術館スタッフブログ
↑こちらに、須永博士の人生も書いています。
昭和17年 (1942年)2月11日に生まれた須永博士、両親の元、一人っ子で育ちました。
「絵描きになりたい」「詩人になりたい」とこの道をめざし始めたのは21歳の時。
20歳の時に父親が脳出血で目の前で他界してから1年後のことでした。
「人って、こんな簡単に死んでしまうんだ」と、父親の死で感じたこと
18歳の時に就職した会社で、なんのとりえもない須永博士は会社で「お前は駄目だ」「役に立たない」と言われ続け、人に会うのも外に出るのもだんだんと怖くなり
「対人恐怖症」になってしまった。
逆境をはねかえす力も無かった須永博士は、1年半家に閉じこもり、することは絵を描くことと、本を読むこと。
その読んでいた本の中に、「詩集」があった。
その本のタイトルは「わが愛する詩人の伝記」
室生犀星(むろおそうせい)という詩人の著書なのですが、
「各詩人の人がらから潜って往って、詩を解くより外に私に方針はなかった。私はそのようにして書き、これに間違いないことを知った」。藤村、光太郎、暮鳥、白秋、朔太郎から釈迢空、千家元麿、百田宗治、堀辰雄、津村信夫、立原道造まで。親交のあった十一名の詩人の生身の姿と、その言葉に託した詩魂を優しく照射し、いまなお深く胸を打つ、毎日出版文化賞受賞の名作。」
と本の紹介にあるように、私でも名前を知っている詩人の方々が実際に生きていた時代のことで、室生犀星さんが訪ねて行ったり、出逢いの中から感じたことなども書かれてあって・・・
わたしもものすごく感動しました。
20~21歳のころの須永博士の心に、この本との出逢いはものすごく大きく響いたんですね。
「涙があふれてきて、生きる力が込み上げてきた」と言っていました。
こんなメッセージがあります。
このメッセージに書かれてある、
「人間の優しさ」を与えてもらったのは、絵描きと詩人をめざして旅をしていた須永博士の生きる力になりました。
http://sunagahiroshi.cart.fc2.com/ca2/15/p-r2-s/
「風に吹かれて」に、そのことも書かれています。
自分さがし、自分を強くしたい、その想いで旅に出た須永博士でしたが、旅の中で出逢う人に何度も助けられたことがありました。
また、続きを書きます。
須永博士の人生の中で一番つらかった時、それは18歳から22歳の時
その時のつらさ、絶望感、人間不信の想いをしたことが、今も心の中で詩を書くエネルギーになっていることは確かです。
昨日須永博士から電話があり、この前の「須永博士が18歳~19歳のころに将来なりたかった職業」のことをクイズにした話から…
東京の須永博士の資料室からいろいろと出してみて、自分の当時のことを振り返ったりする時間があったそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
タクシーの運転手になりたいと思っていたころの自分…
対人恐怖症になってしまったのは、そのあとのことで、当時の自分ってどんなだったかなぁと思うと、本当の自分の性格は明るかったんだろうな。
だから、過去の友達は、自分が社会に出てつらいことがあって苦しんでいたとは想像もつかないだろう。
だけど、顔は笑っていても心で泣いている時がある
つらいことがあれば、たまってゆく。
でも、表には出さないで生きていた。
だから、だれもそんなこと知らないよね。
死のうとまで思ったことも・・・
本人の人生と、周りが見ている自分の人生とは違うからね。
表を見てるのと、中身を知っているのと違うように。
「詩人、絵描きで生きていく」と決めてからは、「自分の絵が世の中に認められるかな」と不安もあったけれど、近所の喫茶店に、勇気を出して「絵を飾らせてください。」とお願いして3枚の絵を飾らせてもらったんだ。
そうしたら、喫茶店のお客さんに「おもしろい絵だなぁ」と言ってもらえた。
うれしかったなぁ~~
そのあと、父の手伝いをしていた家業の写真屋の配達でカメラの修理で銀座ミノルタカメラへ行った帰り道、銀座三愛みゆき店の前を通るとポスターがあって水森亜土さんとやなせたかしさんの絵の展覧会をしていた。
水森亜土さんは終わっていて、その時はやなせたかしさんの絵が飾られてあった。
かわいい絵や詩がいっぱい飾ってあって、それをみて「僕もやりたいなぁ」と思った。
今でも、その時、26歳の須永博士の行動は生涯忘れられません。
売り場のカウンターへ行って、2~3人いた女性にドキドキする心臓から言葉を絞り出して・・・
「このやなせたかしさんの展覧会の場所は、どうしたらお貸りできるのですか?」
と。今思っても、このことが、今の自分の第一歩です。
女性が、「この場所にふさわしい、かわいい作品ならばお貸しします。担当者がいますので、電話をしてください。」と電話番号をもらいました。
家に帰り、担当者さんに電話をすると、「ぜひ作品を持ってきてください。」と言われ、1週間から10日後にそれまでに描いていた絵を持っていき、見せました。
「これはおもしろい、三愛のお店にふさわしい。
7月1日から10日まで、あのプペギャラリーをお貸ししましょう。」
当時3月で、そのあとのスケジュールが埋まっていたので空いている7月1日からの10日間というお返事をもらいました。
夢のような話です。
色紙に絵を描き(全部手書き)紙粘土でお面を作り、前の年に結婚した妻が、自分の絵をぬいぐるみにしてくれて、それを持って6月30日の夜、飾りに行きました。
担当の方が言いました。
「プライスカードをつけます。」と
え!自分の絵に値段が付くのか!?
「うちは営業でしていますから、1枚350円のプライスカードを付けます。」と。
自分の絵が売れるなんて思ってもなく、値段をつけてもらえることも信じられない思いでした。
翌日7月1日、展覧会スタート。その日も絵を描いていて、後から持っていこうと思っているとお昼頃 三愛さんから電話があり、
「作品が売れています。追加を持ってきてください。」と。
自分でも驚くほど、色紙を求めてくださる人がいて、ものすごい驚きと感動でした。
・・・・・・・・・・
須永博士からの電話とファックスで、当時のことを文面にしてみました。
やはり、最初の「顔で笑っていても 心で泣いている」
そのことが、今も須永博士の心の中には大きな大きなことであり、旅をしてきた中でも、苦しんでいる人にそっと言葉をかけてあげたい、詩を書いて、少しでも心が軽くなってくれたら、という思いがずっとあるんですね。
須永博士の20代のころの写真があります。
この笑顔の裏の心は・・・
また、この続きも書きます。
さぁ、今日は6月1日!
いよいよ須永博士美術館の館内見学も再開いたします。
午前10時に開館します。
感染拡大防止策をできる限りしながらの開館再開になりますが、お待ちしています!
クイズにお付き合いくださってありがとうございます
須永博士が高校を卒業したころの将来なりたかった職業とは・・・難しかったですかね
答えは
「② タクシーの運転手」
でした!
須永博士から今朝届いたファックスから、その想いが伝わります。
正解者の方には(3名様が見事正解!!)後ほどご住所の確認連絡をさせていただきます。
あと1時間半で正解を発表します😊✨ まだ、解答受け付けています😊
須永博士からのヒントが届きました😉 ○○(文字数は関係無し)に入る、須永博士の好きなものが答えです。
以下、5月23日にアップした須永博士クイズです😊
須永博士が高校を卒業した頃の18歳の、なりたかった職業は何でしょうか
①歌手→大サービス 歌手ではありません②〜⑤からお選びください。
②タクシーの運転手
③カメラマン
④酪農家
⑤陸上選手
答えは5月25日(月)
午前11時に
に発表します😊
須永博士美術館フェイスブック、インスタのメッセージから答えを募集します😊
正解の方には、今日アップした絵(5月23日にアップした絵)のポストカード、オリジナルボールペンをプレゼントします💓
発表前までの受付とさせていただきます😊
sunaga-h-b@hello.odn.ne.jp
または、須永博士美術館ファックス
0967-46-5847
でも受け付けます😊
#須永博士
#夢
#好きなことで生きてゆく
今日は、須永博士クイズです😊
この絵は、須永博士が24歳の時に描いたものです。
この絵を描く前、須永博士が高校を卒業した頃の18歳の、なりたかった職業は何でしょうか
①歌手→フェイスブックとインスタにも載せたところほとんどの方が①を選ばれたのですが、歌手ではありません😅
②〜⑤の中からお答えください😊
②タクシーの運転手
③カメラマン
④酪農家
⑤陸上選手
答えは5月25日(月)
午前11時に
発表します😊
須永博士美術館フェイスブック、インスタのメッセージから答えを募集します😊
正解の方には、今日アップした絵のポストカード、オリジナルボールペンをプレゼントします💓
発表前までの受付とさせていただきます😊
sunaga-h-b@hello.odn.ne.jp
または、須永博士美術館ファックス
0967-46-5847
でも受け付けます😊
正解の方には、プレゼント発送先のご住所を後ほど確認させていただきます😉