大変申し訳ございませんが都合により2022年2月22日より27日まで、発送をお休みさせていただきます。
その間にいただきましたご注文は、2月28日以降順次発送いたしますのでよろしくお願いいたします。
お問い合わせは、
スタッフ佐藤粧子携帯
shoko.0428.ss★icloud.com (★を@に変えてください。)
090-8915-1562 へご連絡ください。
電話に出られない場合には のちほどかけなおさせていただきます。
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2022年2月11日(金・祝)
今日、須永博士は80歳の誕生日を迎えました。
1942年2月11日、東京で誕生した須永博士
80年の人生の大半は「詩人」として生きてきましたが、その始まりは「絶望」「孤独」の苦しみの中から見つけ出した、たったひとつの「生きる希望」でした。
これまでたくさんの詩を書き続けてきた須永博士、80歳になった今、生かされている今、そしてこれから
その思いが、今朝ファックスで送られてきました。
ここまで詩人として生きてこられたのも、出逢ってきたすべての方々の支えがあったからこそ。
詩を書かない日は一日も無かったんじゃないかと思います。
そして、
須永博士の絵や詩を知っている人でも、【須永博士の人生】を知っている人はそう多くはないと思いますので、今日は須永博士の80歳を記念して、書き記しておこうと思います。
良かったらお読みください。
(ひろしと、母)
写真屋を営む父と、それを支える母との間に生まれました。きょうだいは無く、ひとりっこ。
父は、ほかに女性がいて、母もそれを知りながらもぐっとこらえて過ごす毎日。
幼いながらも、母の姿をみてきました。
たまに帰ってきても、母は何も言わない。父はお酒を飲んで機嫌が悪くなるとあばれる。
それに抵抗するのは、母ではなくて、自分。
そんな日々を繰り返しながらも、母は過保護と言えるほど大切に育ててくれました。
のちに、高校を卒業、大学入試には失敗し、家業を手伝いながら紹介で入った会社での挫折、引きこもり、対人恐怖症
自分の人生を終わりにしよう・・・と線路の前に立った須永博士の心の叫び・・・
波乱万丈の人生がありました。
ここから以下は、以前須永博士に質問しながら2008年に書き留めたブログをもとに、再編・加筆します。
【生い立ち】
ひろしにはきょうだいは、いません。
「ひとりっこ」です。
1人息子ですから、お母さんは大切に、大切に育ててきました。
お父さんは大酒のみで、いつも酔っ払っていた記憶があります。
そして、飲み屋で知り合った女性の家にいる時間の方が長い生活でした。
お母さんは、ひろしが生き甲斐でした。
笑顔のない家の中で、母に守られるように毎日を過ごし、今はっきり言えるのは
「母の過保護」でした。
いつもそばにいて、
「これをしなさい」
「この子と遊びなさい」
「これはダメ」
と、ピッタリくっついていました。
【小学校での思い出】
勉強がきらい。
根本的に
「なんで勉強しなければいけないのか」
が分からず、難しいことや意味の分からないことを覚えなければいけないのか、
そう思って、まったくしませんでした。
遊びはべーゴマや、どんちっぱ、くぎさし
それと、いろいろな絵を真似して描いて、特にマンガを描くのが好きでした。
身体はあまり強くなく、性格も自分から前に出るようなことはなく、いつも人の後ろにいるような感じでした。
【ともだち】
ともだちは、いたけれど
「なんとなく」
いっしょにいて
「なんとなく」
遊ぶ、そんな小学校生活でした。
家に遊びに来ることもあったけれど、母はそれが嬉しくて、過剰なほどのお菓子を持ってきたり、ともだちと話したりする。それがとても嫌でした。
【中学校での思い出】
やはり、嫌いだったのは「勉強」。
また、退屈な学校生活が始まる・・と思っていたときに全校マラソン大会があり、
思いがけず[学年2位!]に。
「お、やればできるじゃん。」
と、自分でもおどろき、その勢いで陸上部に入部。
野球も好きだったけど、グラウンドの無い学校(1周70Mの校庭だけ)で、野球部も無かったので陸上部にしたという理由もありました。
唯一3年間続けられた陸上部で、800M,1500Mの選手になり、3年生の時には荒川区の中学連合体育大会で800M優勝!
自分の活躍を母も一番喜んでいました。
でも、期待が大きく膨らみすぎていました。
マラソンの大会があり、全校で6人選ばれる選手の選考に落ちたとき、学校に母親が文句を言いに行ったのです。
自分では、
「マラソンは自分に合わないな。800Mが走りやすい。」
と思っていたので、選考に落ちたことも納得していたのですが、母は期待しすぎていたのです。
そんな事件もありましたが、3年間、陸上を続けたことは自分の自信にも繋がりました。
【中学校当時の性格・ともだち】
小学校の頃につづき、性格は「おとなしい」まま。
ともだちも「なんとなく」。
走ることと、絵を描くことは一生懸命にできるけど、そのほかのことは本当に、
「ただ、何となく・・・・。」でした。
目立たない、特徴の無い子供だったと、自分では思います。
【高校を選んだ理由】
特に行きたい高校も無く、担任の先生に勧められた高校を受験することに。
「君の成績ならこの学校が良いでしょう・・・。」といわれるままに。
公立の高校入試に不合格。合格した私立の高校へ「まあ、いいか。」ぐらいの気持ちで3年間通いました。
高校生になり・・・
「どうせ自分はこの程度の人間だ。
だからそれ以上やると疲れるし、努力してもみんな以上になれるわけが無い。
だから自分から がんばる 挑戦する
なんてことは できない。やらない。」
ず~~~~~っと、そんな考えで生きていました。
何の思い出も無い、だらしない、やる気のない高校生活でした。
絵を描くことだけは相変わらず好きだったので、美術部に入部。
毎日、楽しいことも無い、遅刻、欠席の繰り返しで、よく卒業できたと思います。
【高校での友達】
高校では、2人の友との出逢いが心の中に大きくあります。
1人は、いつも成績のビリ争いをしていた友人。
彼とは気が合い、話も合い、家が学校からの方向が同じで近かったこともあり、
よく一緒にいました。
それともう1人、今の須永博士があるのも彼との出逢いがあったからと、
はっきり言えます。
工藤勝嗣君、頭も良く優しい同級生でした。
美術部で描いた自分の絵を、「何を描いているの?」と興味を持ってくれ、絵をプレゼントすることもありました。
彼に見てもらうことも、何となく嬉しいことでした。
【就職活動】
「高校を卒業したら、父の写真屋を継ぎなさい。そのために写真を学べる大学に入りなさい。」と、母に言われるがまま、写真の専門学校、そして大学2校を受験。
でも、受験した3校すべて不合格。
理数系がまったく苦手だったので受かるはずもありません。
仕方なく、新聞広告でみつけた写真屋さんに働きに行くことにしました・・・。
【社会人として】
家業の写真屋は父と母がして、自分は錦糸町の写真屋さんへ。
半年ぐらい働いただろうか・・・。
ある日、知人の紹介で求人中のタイヤ販売の会社へ就職することに。
「働いてみるか。」と、就職してみたものの、
人とうまく話せない。
今まで大変なことはみんな母がしてくれていた。
そんな自分が、タイヤを勧めても誰も買ってくれない。
会社の上司からは、毎日のようにみんなの前で
「お前はダメだなあ。」と言われる。
会議室で机を囲んで月の成績の発表があり、大学卒業した優秀なひとがいつもトップ。自分は全く売れない。
でも、母は有名なタイヤメーカーへの就職を喜び、自分の苦しみ、悩みは理解してくれない。家に帰ったってつまらない。
【唯一の安らぎ】
そんな時いつも、会社の帰り道の銀座へ向かい夜のネオンや大きな鮮やかな看板を見て、それを絵に描いていました。
「きれいだなあ。」
「ずっと絵を描いていたいなあ。」
やはり、絵を描いているときだけが自分の心が落ち着くのでした。
家で母には悩みを打ち明けることも無く、いつも会話はほとんど無い生活でした。
【タイヤ販売会社での大きな挫折】
新宿という町で、営業に出かける毎日。
来る日も来る日も、うまくセールスできない。どこへ行っても断られる。
「あ~、いやだなあ。」「辞めたいなあ・・。」
そんな気持ちでいるから余計に売れるはずが無い。
ある日、新入社員が入ってきた。有名大学を卒業し、英語も話せて、見るからに「頭がいい」人でした。しかも頭がいいだけでなく、人とのコミュニケーションも上手で、会社の壁に張ってあるグラフは彼のはぐんぐん伸び、自分のはちっとも伸びない。
上司に呼ばれ、みんなの前で比べられる。また落ち込む・・。
会議室で机を囲んで座る空間がとても苦手で、心臓がドキドキするし、怒られる、笑われると思うと体が震える。
「あ~あ、もういやだなあ。」
「みんな俺のことをバカにしている。笑っている。」
「がんばったって売れやしない。」
こんなことを頭の中でぐるぐる考えていました。
思い切って、母に「辞めたい」と相談してみたら・・・。
「あんな良い会社、なんで辞めたいなんていうの。」
と、やっぱりか・・・。という返事。
【突然の父の死】
突然でした。
大酒のみの父は、50歳、脳出血で亡くなりました。
泣きませんでした。
「こんな簡単に、人は死ぬんだ。」
というのがそのときの感想です。
【喪失感】
父の葬儀が終わり、その後すぐ、会社を辞めました。
いやな上司もいるし、仕事もうまくいかないし、続けていても意味が無い。
母は怒りました。
でも、もういやでした。
それから、家の中に閉じこもる生活が始まりました・・・・。
【1年半の空白】
父もいなくなり、母と2人っきりの生活が始まりました。
家にいれば、母が食事を部屋まで持ってきてくれる。
仕事もする気にもなれない。
毎日ただ生きている。食べている。寝ている。それだけ。
「あ~あ、生きていてもつまらないなあ。」
「誰も自分の気持ちなんて分かってくれないなあ・・。」
1人でいると、どんどん落ち込んでいくばかりでした。
外に出て人に会うのが怖い。
何をする気にもならない。
でも、部屋で本を読むことと、絵を描くことだけは辞めませんでした。
【誰も助けてくれない】
部屋で1人で過ごす日々が1年半続きました。
誰も自分の気持ちなんて分かってくれない。
こんなに苦しいのに。
こんなに涙がこぼれているのに。
もう生きている意味なんて無い。
毎日思いつめているうちに、
「もう人生を終わりにしよう。
誰も止めてなんてくれやしない。
生きていてもいいことなんてひとつもない」
雨が降る、鎌倉にいました。
北鎌倉駅を降り、踏み切りの前に立ち、電車の音が聞こえてきて・・
「もうすぐ電車が来る。
このまま飛び込めば、楽になれる。
もうおしまいだ・・・。」
一歩、前に足を踏み出そうとしたそのとき!!!
「このまま、死んでいいのか」
確かに聞こえました。
一歩前に出るはずが、一歩うしろに下がっていました。
電車は通り過ぎました。
それからです。
心の中から、こみ上げてくる言葉。
心の声。
「誰も助けてはくれないぞ。
助けてくれる人がいるとすれば、
自分自身 だ。
自分がいるじゃないか!おれだ!
今から、この弱い自分を、自分の力で強い人間にしてみせる。」
どこからか聞こえてきたようにも感じた心の声。
なぜだかみなぎってくる力。
さっきまでの弱い自分。惨めな自分。
でも今は違う。
絶対強くなってみせる!
絶対すごくなってみせる!
そう心が決まったのです。