明日、10万人の日本人が亡くなった(米軍によって焼き殺された)東京大空襲から60年が経ちます。先日NHKでも特集番組がありましたし、上野の寛永寺に慰霊碑が建立されたそうです。
ボクたち(40代)の年代の親世代が青年あるいは少年、少女として遭遇してしまったことであり、ことあるごとにそのことを聞かされて育てられました。(親が生き残ってくれたからこそ、今 命があるのです。)本当に焼け野が原になってしまったそうです。また、いた場所が30cmぐらい違っただけが生死の境を分けたとも聞きました。(父も母も祖父母も東京出身です。)
本所の小学校で教師として勤務していた叔母は何かの理由でたまたま、その日学校に宿直だったのに交代して杉並の家にいたために難を逃れたそうです。(今でも夢に出てくることがあると母に言ったと母から聞きました)
また、空襲以外でも度々 低空で侵入してきた戦闘機からの機銃掃射に逢ったと母が言っていました。生前父も何度も焼け出されて、最終的にこの場所に落ち着いたのだと言っていました。
我々は伝え聞くことが出来ましたが、次の世代に語り継ぐのは到底困難なことです。
しかし、このようなことは二度と起こしてはいけないことだと思います。
この一晩で10万人の死亡者という数はイラクでの戦死者の総数に匹敵する数だそうです。
両国にある江戸東京博物館には数々の資料が残されています。初めて見た時には広島の原爆資料館を訪れたときと同じ気持ちになりました。
ボクたち(40代)の年代の親世代が青年あるいは少年、少女として遭遇してしまったことであり、ことあるごとにそのことを聞かされて育てられました。(親が生き残ってくれたからこそ、今 命があるのです。)本当に焼け野が原になってしまったそうです。また、いた場所が30cmぐらい違っただけが生死の境を分けたとも聞きました。(父も母も祖父母も東京出身です。)
本所の小学校で教師として勤務していた叔母は何かの理由でたまたま、その日学校に宿直だったのに交代して杉並の家にいたために難を逃れたそうです。(今でも夢に出てくることがあると母に言ったと母から聞きました)
また、空襲以外でも度々 低空で侵入してきた戦闘機からの機銃掃射に逢ったと母が言っていました。生前父も何度も焼け出されて、最終的にこの場所に落ち着いたのだと言っていました。
我々は伝え聞くことが出来ましたが、次の世代に語り継ぐのは到底困難なことです。
しかし、このようなことは二度と起こしてはいけないことだと思います。
この一晩で10万人の死亡者という数はイラクでの戦死者の総数に匹敵する数だそうです。
両国にある江戸東京博物館には数々の資料が残されています。初めて見た時には広島の原爆資料館を訪れたときと同じ気持ちになりました。