『一献の系譜』を観てきた。
杜氏が醸す酒と、彼ら自身のドキュメンタリー映画。
僕は、下戸と言うほど呑めないわけではないけれど、ビールで中ジョッキ二杯ぐらいが限界。で翌日は二日酔い、というタイプ。
まぁ、どっちかと言えば呑めないほうだ。
躁うつ病になってからは薬とチャンポンにするのが怖くてあまり飲んでないけれど。元来、という話で。
日本酒は飲まない。無論、味も種類も分からない。
味と種類が分からないと言うことは、味と種類がある、と言うことだ。
酒の歴史は人の歴史と言ってもいい。
人は祭事のために、一種のドラッグとして酒を使ってきたんだろう。
エタノールほど微量で中枢神経に作用し酩酊させるドラッグは他にないのだ、実は。結構危険なのだ。
口噛み酒なんて、雑菌だらけだ。菌と言う概念があったにしろなかったにしろ、結構冒険だ。
しかも穢れを知らない少女に限ったという辺りがなんとなく背徳的な感じがあってこれまた危険だ。
なぜ、そんな危険な物を人は作り続けて来たんだろう?
酒には祓うの力がある。
荒塩にその効力を求める人もいるけれど、塩は霊的なものに対する威嚇であり、迂闊に使わない方がいい。
霊的なものを祓うには、酒(神酒)と生米と水の三つだといわれている。
つまり神聖なものとしても酒は使われてきたんだろう。これも理由の一つなのではないかと思う。
ちなみに欧州の悪魔祓い(エクソシスト)は、ワインとパンと水を使うそうだ。
酒と穀物と水。不思議な相似だ。
八百万の神々は百八十日間の酒の宴を開いたそうだが、人はそこまでのことは出来ない。
でも、人は酒を嗜む。程々に、自分が楽しむために、人と人との繋がりを円滑にするため、あるいは強くするために。程々に嗜んできた。
「そう、あなたと我々が異なるのは、我々が必要としている分だけ、神を受け入れると言うことだ。哀れみ深き我らの神もお許しになるだろう」
「言ったろう、我々は程々に嗜むことを知っている、と」
伊藤計劃 <harmony/>より
杜氏たちにとっては、酒作りは戦いだ。
映画の中で沢山の杜氏たちを見たが、酒米から酒になるに至るまでその眼は真剣だ。
本当に易々と触れば斬られてしまいそうな眼だ。その魂に程々が介入する余地はない。
ただ、酒造りに塩梅は必要なのだ。
米に水を含ませる塩梅。
温度の塩梅。
乳酸菌や酵母菌の量の塩梅。
全ては、長年の経験の蓄積と研ぎ澄まされた勘が支えている。
だから、その経験を職人から職人へと引継がせるには膨大な時間が、10年以上の歳月がかかる。しかもそれも成功するかどうかの保証はない。
沢山の杜氏が紹介される中で、異質な人物がいた。
内山智弘さん。
酒の品質を向上させると共に蔵人の職の保障とを模索する人物だ。
つまり、徹底した品質・工程管理を行い、職人レベルの経験や勘を会得せずとも酒を作り出すということを目指しているんだろう。
さっき言ったように職人を育てるのには膨大な時間がかかる。そして、それによって会得したとされる経験と勘は不安定で不明瞭な物だ。それに頼りつづけることは、今後の酒造界に良い事なんだろうか?
酒造りの系譜をメインにすえた作品なので、彼の紹介は作中では短かったが、僕は彼が今後の酒造界の良いアジテーターであり、新しい系譜を描き出す人物だと感じた。
多分、相当な反発が彼を待っているんだろうなとも思うけど。
さて、冒頭に少し紹介した、酒の祓う力だけれど、その力がどこから来ているのかこの映画を見て分かった。
それは、杜氏たちの魂なのだ。
魂をこめて造った酒だから、魂が篭った酒だから、力を持つのだ。
決して、神主の祈祷だけで宿る力ではない。
杜氏たち一人々々の、系譜に宿る幾重にも折りたたまれた魂。それはとても強い力だと思う。
では、内山智弘さんの方法で作った酒にその力が宿るだろうか?
「蔵人も人です。生活がある。生きていかなければならない」
彼が言っていることは正しい。間違っていない。彼が作り出す酒もきっと他の杜氏たちに劣らぬ味が出せるはずだ。僕はそう思う。
でも、魂が宿るだろうか?
一生懸命やる。そのさらに先にある、命がけの蔵人たちの魂を超えることが彼に出来るだろうか?
僕は、苦しみ、悶え、間違い、挫折し精神をそぎ落としながらも逃げない。そんな風に生きている人が好きだ。彼らには独特の力がある。彼らの語る言葉は朴訥で平凡でも力がある。
僕もそうなりたいと思う。
「酒造りはね、夢なんだよ」
とある杜氏は言った。超えられない天才を超えるために、脇道を直向に歩む。その脇道はまた誰かにとっての天才の足跡になる。
杜氏は、みんなそうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれないけれど、職人として何かを極めるのは夢なんだろうなと思う。
知っているのに、出来ない。
掴めそうで、掴めない。
それが酒造りなんだろう。
その系譜は、これまでずっと受け継がれてきた。能登杜氏四天王と呼ばれる彼らにも当然、先人たちが存在する。
系譜は受け継がれるだけでなく、枝分かれし、新しい考えが入り、そしてまた酒造りの系譜の魂に織り込まれていく。
酒の歴史は人の歴史。
僕らが「程々に嗜むこと」を知っていさえすれば、その系譜は途切れることなく続いていくのだろう。
杜氏が醸す酒と、彼ら自身のドキュメンタリー映画。
僕は、下戸と言うほど呑めないわけではないけれど、ビールで中ジョッキ二杯ぐらいが限界。で翌日は二日酔い、というタイプ。
まぁ、どっちかと言えば呑めないほうだ。
躁うつ病になってからは薬とチャンポンにするのが怖くてあまり飲んでないけれど。元来、という話で。
日本酒は飲まない。無論、味も種類も分からない。
味と種類が分からないと言うことは、味と種類がある、と言うことだ。
酒の歴史は人の歴史と言ってもいい。
人は祭事のために、一種のドラッグとして酒を使ってきたんだろう。
エタノールほど微量で中枢神経に作用し酩酊させるドラッグは他にないのだ、実は。結構危険なのだ。
口噛み酒なんて、雑菌だらけだ。菌と言う概念があったにしろなかったにしろ、結構冒険だ。
しかも穢れを知らない少女に限ったという辺りがなんとなく背徳的な感じがあってこれまた危険だ。
なぜ、そんな危険な物を人は作り続けて来たんだろう?
酒には祓うの力がある。
荒塩にその効力を求める人もいるけれど、塩は霊的なものに対する威嚇であり、迂闊に使わない方がいい。
霊的なものを祓うには、酒(神酒)と生米と水の三つだといわれている。
つまり神聖なものとしても酒は使われてきたんだろう。これも理由の一つなのではないかと思う。
ちなみに欧州の悪魔祓い(エクソシスト)は、ワインとパンと水を使うそうだ。
酒と穀物と水。不思議な相似だ。
八百万の神々は百八十日間の酒の宴を開いたそうだが、人はそこまでのことは出来ない。
でも、人は酒を嗜む。程々に、自分が楽しむために、人と人との繋がりを円滑にするため、あるいは強くするために。程々に嗜んできた。
「そう、あなたと我々が異なるのは、我々が必要としている分だけ、神を受け入れると言うことだ。哀れみ深き我らの神もお許しになるだろう」
「言ったろう、我々は程々に嗜むことを知っている、と」
伊藤計劃 <harmony/>より
杜氏たちにとっては、酒作りは戦いだ。
映画の中で沢山の杜氏たちを見たが、酒米から酒になるに至るまでその眼は真剣だ。
本当に易々と触れば斬られてしまいそうな眼だ。その魂に程々が介入する余地はない。
ただ、酒造りに塩梅は必要なのだ。
米に水を含ませる塩梅。
温度の塩梅。
乳酸菌や酵母菌の量の塩梅。
全ては、長年の経験の蓄積と研ぎ澄まされた勘が支えている。
だから、その経験を職人から職人へと引継がせるには膨大な時間が、10年以上の歳月がかかる。しかもそれも成功するかどうかの保証はない。
沢山の杜氏が紹介される中で、異質な人物がいた。
内山智弘さん。
酒の品質を向上させると共に蔵人の職の保障とを模索する人物だ。
つまり、徹底した品質・工程管理を行い、職人レベルの経験や勘を会得せずとも酒を作り出すということを目指しているんだろう。
さっき言ったように職人を育てるのには膨大な時間がかかる。そして、それによって会得したとされる経験と勘は不安定で不明瞭な物だ。それに頼りつづけることは、今後の酒造界に良い事なんだろうか?
酒造りの系譜をメインにすえた作品なので、彼の紹介は作中では短かったが、僕は彼が今後の酒造界の良いアジテーターであり、新しい系譜を描き出す人物だと感じた。
多分、相当な反発が彼を待っているんだろうなとも思うけど。
さて、冒頭に少し紹介した、酒の祓う力だけれど、その力がどこから来ているのかこの映画を見て分かった。
それは、杜氏たちの魂なのだ。
魂をこめて造った酒だから、魂が篭った酒だから、力を持つのだ。
決して、神主の祈祷だけで宿る力ではない。
杜氏たち一人々々の、系譜に宿る幾重にも折りたたまれた魂。それはとても強い力だと思う。
では、内山智弘さんの方法で作った酒にその力が宿るだろうか?
「蔵人も人です。生活がある。生きていかなければならない」
彼が言っていることは正しい。間違っていない。彼が作り出す酒もきっと他の杜氏たちに劣らぬ味が出せるはずだ。僕はそう思う。
でも、魂が宿るだろうか?
一生懸命やる。そのさらに先にある、命がけの蔵人たちの魂を超えることが彼に出来るだろうか?
僕は、苦しみ、悶え、間違い、挫折し精神をそぎ落としながらも逃げない。そんな風に生きている人が好きだ。彼らには独特の力がある。彼らの語る言葉は朴訥で平凡でも力がある。
僕もそうなりたいと思う。
「酒造りはね、夢なんだよ」
とある杜氏は言った。超えられない天才を超えるために、脇道を直向に歩む。その脇道はまた誰かにとっての天才の足跡になる。
杜氏は、みんなそうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれないけれど、職人として何かを極めるのは夢なんだろうなと思う。
知っているのに、出来ない。
掴めそうで、掴めない。
それが酒造りなんだろう。
その系譜は、これまでずっと受け継がれてきた。能登杜氏四天王と呼ばれる彼らにも当然、先人たちが存在する。
系譜は受け継がれるだけでなく、枝分かれし、新しい考えが入り、そしてまた酒造りの系譜の魂に織り込まれていく。
酒の歴史は人の歴史。
僕らが「程々に嗜むこと」を知っていさえすれば、その系譜は途切れることなく続いていくのだろう。