『ヴィヴィアン・マイヤーを探して(原題 ; FINDING VIVIAN MAIER )』を観てきた。
例えば、織田信長というとどういうイメージがあるだろう?
東條英樹は?
田中角栄は?
なんらかのイメージがあると思う。でも、それは本当に正しいんだろうか?
ヴィヴィアン・マイヤーの写真やネガは、ある倉庫から処分のためのオークションで発掘された。発掘した青年は”VIVIAN MAIER”でググった。
ヒット数はゼロ。
彼の部屋でそのネガは数ヶ月眠ることになった。
数ヶ月後もう一度ググると、一件ヒットした。
死亡通知。
彼はそのネガを引っ張り出しスキャンし、ネットのブログに投稿した。あっという間にVIVIAN MAIERの名は広まった。
VIVIAN MAIERの撮った写真は天才が切り取ったストリートフォトだった。
その写真のネガはおよそ15万枚。これがどれだけのことか、フィルム写真歴が10年の僕でもわかる。
本当に毎日撮らなければ撮れない枚数なのだ。
なぜこれほど数の写真を撮れる天才写真家が、生前写真を公表してこなかったのか?彼は当然ともいえる疑問を抱く。
FINDING VIVIAN MAIER.
彼女を追う旅が始まる。
彼女は1926年にニューヨークで産まれた。
幼少期はアメリカとフランスの間を行き来することになった。
アメリカで家政婦をかねた乳母として働きだした。
変わり者だった。
背が高かった。
ファッションも野暮ったくて体のラインを出さない服を着ていた。
ずっとカメラを提げていた。
収集家だった。
心を閉ざし、名前さえ隠したがった。
時に冷酷な一面を見せた。
歳を取るにつれてクレイジーと呼ばれる行動が増えていった。
そして、2009年に孤独のうちに亡くなった。
彼女に対する証言が時折真逆になるシーンがあった。
あえてそうしたんだろうけれど。
人のイメージは見る人によって全然違う。
何も語らなかった彼女は、モザイク状にその姿を現す。
写真。手紙。莫大なチラシや新聞の切り抜き、そして証言。
でも、VIVIAN MAIERは何者か?本当はどんな人物なのか?何を考えていたのか?もう分からないのだ。
写真を見つけた彼は、フランス語で書かれた写真屋への手紙を見つけて喜んでいる。
「これまで、彼女が公表していなかったことを公表してしまったことに罪の意識があった。でも、あの手紙は自分の写真を公開したいという彼女の意志なんだ」と。
そうかもしれない。
でも、僕は違うと思う。
写真は見せるために撮るのだと思う人が多いようだけれど、僕は撮るために撮っていることが多い。
彼女の目的は写真を撮ることだったんじゃないだろうか?
彼女自身が自分を撮ったポートレートがある。
どの写真も表情は硬い。怒っているように見えるし、無表情なようにも見える。
ほかのストリートフォトには被写体の表情がある。撮りたいものの心が伝わる。でも、自身のポートレートには無いのだ。お見合い写真なんかに使ったら最悪だ。
彼女は孤独の内に死んだ。看取る家族はいなかった。
人は人の死を知った後で後悔する。
「あのとき、ああしていれば」と平気で悲しむ。それは、自己憐憫でしかないのに。
彼女は収集癖があった。それはそれは自分の物をこれっぽっちも逃すものかと言わんばかりだ。自分の声のテープすら残している。
「それらは、全て私の物。誰にも渡すつもりはないわ」
と彼女は言っているようだ。
フィルムを現像し、写真にしたことは、僕は避けるべきだったと思う。おそらくだけど、VIVIAN MAIERは誰にも知られるべきではなかったのだ。
彼女は寂しかったんだろうと思う。孤独だったんだろうな、とも思う。
でもその寂しさも孤独すらも「私の物」と思っていたんじゃないだろうか?それは良くないことなのかもしれない。でも、それは所謂、曖昧な常識という奴に照らせば、だ。
だが、彼女は死んだ。VIVIAN MAIERはもういない。
遺体もなくなり、彼女自身の魂も散逸した。何もない。
死者は何も語らない。感じない。
でも、15万枚にも及ぶ写真が残った。そこに魂は宿っている。
写真から観る僕らの姿をVIVIAN MAIERはどう感じているんだろう?
この作品はとてもおもしろい。
でも、同時に罪悪感がずっとつきまとう。
彼女のベールを剥ぐことは、良いのだろうか?と。
まだ、彼女を巡る調査が続いているらしい。
VIVIAN MAIERは、どこかの時点で男性からの暴力を受けていたようだ。
でも、僕は思う。もう、彼女の過去に立ち入らないであげてほしい。VIVIAN MAIERはもう故人なのだ。そんなことに意味はない。
VIVIAN MAIERが撮った15万枚の写真達。そこに宿る魂。そこに目を向けてそれを感じることが、僕らの、本質的な、望みなのだから。
例えば、織田信長というとどういうイメージがあるだろう?
東條英樹は?
田中角栄は?
なんらかのイメージがあると思う。でも、それは本当に正しいんだろうか?
ヴィヴィアン・マイヤーの写真やネガは、ある倉庫から処分のためのオークションで発掘された。発掘した青年は”VIVIAN MAIER”でググった。
ヒット数はゼロ。
彼の部屋でそのネガは数ヶ月眠ることになった。
数ヶ月後もう一度ググると、一件ヒットした。
死亡通知。
彼はそのネガを引っ張り出しスキャンし、ネットのブログに投稿した。あっという間にVIVIAN MAIERの名は広まった。
VIVIAN MAIERの撮った写真は天才が切り取ったストリートフォトだった。
その写真のネガはおよそ15万枚。これがどれだけのことか、フィルム写真歴が10年の僕でもわかる。
本当に毎日撮らなければ撮れない枚数なのだ。
なぜこれほど数の写真を撮れる天才写真家が、生前写真を公表してこなかったのか?彼は当然ともいえる疑問を抱く。
FINDING VIVIAN MAIER.
彼女を追う旅が始まる。
彼女は1926年にニューヨークで産まれた。
幼少期はアメリカとフランスの間を行き来することになった。
アメリカで家政婦をかねた乳母として働きだした。
変わり者だった。
背が高かった。
ファッションも野暮ったくて体のラインを出さない服を着ていた。
ずっとカメラを提げていた。
収集家だった。
心を閉ざし、名前さえ隠したがった。
時に冷酷な一面を見せた。
歳を取るにつれてクレイジーと呼ばれる行動が増えていった。
そして、2009年に孤独のうちに亡くなった。
彼女に対する証言が時折真逆になるシーンがあった。
あえてそうしたんだろうけれど。
人のイメージは見る人によって全然違う。
何も語らなかった彼女は、モザイク状にその姿を現す。
写真。手紙。莫大なチラシや新聞の切り抜き、そして証言。
でも、VIVIAN MAIERは何者か?本当はどんな人物なのか?何を考えていたのか?もう分からないのだ。
写真を見つけた彼は、フランス語で書かれた写真屋への手紙を見つけて喜んでいる。
「これまで、彼女が公表していなかったことを公表してしまったことに罪の意識があった。でも、あの手紙は自分の写真を公開したいという彼女の意志なんだ」と。
そうかもしれない。
でも、僕は違うと思う。
写真は見せるために撮るのだと思う人が多いようだけれど、僕は撮るために撮っていることが多い。
彼女の目的は写真を撮ることだったんじゃないだろうか?
彼女自身が自分を撮ったポートレートがある。
どの写真も表情は硬い。怒っているように見えるし、無表情なようにも見える。
ほかのストリートフォトには被写体の表情がある。撮りたいものの心が伝わる。でも、自身のポートレートには無いのだ。お見合い写真なんかに使ったら最悪だ。
彼女は孤独の内に死んだ。看取る家族はいなかった。
人は人の死を知った後で後悔する。
「あのとき、ああしていれば」と平気で悲しむ。それは、自己憐憫でしかないのに。
彼女は収集癖があった。それはそれは自分の物をこれっぽっちも逃すものかと言わんばかりだ。自分の声のテープすら残している。
「それらは、全て私の物。誰にも渡すつもりはないわ」
と彼女は言っているようだ。
フィルムを現像し、写真にしたことは、僕は避けるべきだったと思う。おそらくだけど、VIVIAN MAIERは誰にも知られるべきではなかったのだ。
彼女は寂しかったんだろうと思う。孤独だったんだろうな、とも思う。
でもその寂しさも孤独すらも「私の物」と思っていたんじゃないだろうか?それは良くないことなのかもしれない。でも、それは所謂、曖昧な常識という奴に照らせば、だ。
だが、彼女は死んだ。VIVIAN MAIERはもういない。
遺体もなくなり、彼女自身の魂も散逸した。何もない。
死者は何も語らない。感じない。
でも、15万枚にも及ぶ写真が残った。そこに魂は宿っている。
写真から観る僕らの姿をVIVIAN MAIERはどう感じているんだろう?
この作品はとてもおもしろい。
でも、同時に罪悪感がずっとつきまとう。
彼女のベールを剥ぐことは、良いのだろうか?と。
まだ、彼女を巡る調査が続いているらしい。
VIVIAN MAIERは、どこかの時点で男性からの暴力を受けていたようだ。
でも、僕は思う。もう、彼女の過去に立ち入らないであげてほしい。VIVIAN MAIERはもう故人なのだ。そんなことに意味はない。
VIVIAN MAIERが撮った15万枚の写真達。そこに宿る魂。そこに目を向けてそれを感じることが、僕らの、本質的な、望みなのだから。