『愛を語れば変態ですか』を観てきた。
愛とは何か?
山田洋次監督作品『京都太秦物語』の中で、田中壮太郎演じる榎大地という男が“愛”という漢字の成り立ちを語るシーンがある。
愛という漢字には中央に心がある。だからこれは人の姿を現した文字だ。別れを惜しみ、それでも行かねばならないときに人は行く先の方向とは逆を振り返る。その姿を現したのが“愛”なのだと。
それほど離れたくない、離したくない、もっと言えば束縛したいという、エゴイスティックな感情が愛なのだ。
と僕は思う。
これまで愛のためにどれだけの血が流れてきたことか。
そのことを記述した物語があったとしたら、それだけで図書館はいっぱいになるだろう。
仕事を辞めてまで妻との時間を作ろうとしていた夫。
そこにやってくる妻との不貞をはたらいた男達。そして全てを苛つかせるバイト候補の男。
徐々に暴かれていく妻の、いや、女の正体。
男達は争う。女を自分の物にしたくて争いまくる。
僕が、一番愛している!
いや、俺なんて人を殺してまで金を奪って来たんだ!あいつを幸せに出来るのは俺だけだ!
俺はあいつの夫だぞ!
そんな彼らを尻目に、女はこう言う。
「私はそこそこ美人だから、キスで世界を救うの」
妻が夫と最後に正面から対峙するシーン。
妻は夫をブン殴って昏倒させる。
そして、倒れた彼の頭を優しく撫でる。それが彼との最後の挨拶。
たぶん、他の男と違って、夫に対しては彼女は別の感情を持っていたんだと思う。愛じゃなくて、もっと別の何かを。
サラッとみれて、笑って帰れるタイプの映画じゃないので注意がいる。R指定があっても良いぐらいだと思う。
あさこ役の黒川芽衣。フワッとした優しい感じの中にドロドロしたダーティーな部分を隠し持ってる女、っていうのがピッタリ。
西村役の今野浩喜はもの凄い腹立つ!イライラする!それだけ巧いと言うこと何やけども、こーゆー奴おるわー!腹立つ!
愛とは何か?
山田洋次監督作品『京都太秦物語』の中で、田中壮太郎演じる榎大地という男が“愛”という漢字の成り立ちを語るシーンがある。
愛という漢字には中央に心がある。だからこれは人の姿を現した文字だ。別れを惜しみ、それでも行かねばならないときに人は行く先の方向とは逆を振り返る。その姿を現したのが“愛”なのだと。
それほど離れたくない、離したくない、もっと言えば束縛したいという、エゴイスティックな感情が愛なのだ。
と僕は思う。
これまで愛のためにどれだけの血が流れてきたことか。
そのことを記述した物語があったとしたら、それだけで図書館はいっぱいになるだろう。
仕事を辞めてまで妻との時間を作ろうとしていた夫。
そこにやってくる妻との不貞をはたらいた男達。そして全てを苛つかせるバイト候補の男。
徐々に暴かれていく妻の、いや、女の正体。
男達は争う。女を自分の物にしたくて争いまくる。
僕が、一番愛している!
いや、俺なんて人を殺してまで金を奪って来たんだ!あいつを幸せに出来るのは俺だけだ!
俺はあいつの夫だぞ!
そんな彼らを尻目に、女はこう言う。
「私はそこそこ美人だから、キスで世界を救うの」
妻が夫と最後に正面から対峙するシーン。
妻は夫をブン殴って昏倒させる。
そして、倒れた彼の頭を優しく撫でる。それが彼との最後の挨拶。
たぶん、他の男と違って、夫に対しては彼女は別の感情を持っていたんだと思う。愛じゃなくて、もっと別の何かを。
サラッとみれて、笑って帰れるタイプの映画じゃないので注意がいる。R指定があっても良いぐらいだと思う。
あさこ役の黒川芽衣。フワッとした優しい感じの中にドロドロしたダーティーな部分を隠し持ってる女、っていうのがピッタリ。
西村役の今野浩喜はもの凄い腹立つ!イライラする!それだけ巧いと言うこと何やけども、こーゆー奴おるわー!腹立つ!