晴耕雨読と申しますが、連日の 猛暑
晴耕などと、畑に出ようものなら ・・・救急車のお世話になる羽目に。
で、人参もあきらめて、お茶を飲みながら家でゴロゴロです。
ですが、ゴロゴロも長くなりますと飽きてしまいますから、本を引っ張り出しました。
日高敏隆(動物行動学者)著、エッセイ集「人間はどこまで動物か・・・季節」より
今年(2000年)は暑かった。北海道でも35度という日が何日もあった。しかも日本の各地でその暑さがいつまでもつづいた。京都にいると、しみじみそれを感じてしまう。
本来、京都の祇園祭は、長いじめじめした梅雨が明けて、一気に夏の暑さがやってきたときにおこなわれるもの。そして、8月16日の大文字の送り火がすむと、山はすっかり秋めいて、風も涼しくなるものだ。
けれどこのところ何年か、大文字がすんでもさっぱり涼しくならない。いわゆる残暑がいつまでもつづいた。今年の9月の暑さには驚くほかなかった。そして10月に入っても、なお昼間は暑く、いつまでも半袖のワイシャツを手放せなかった。
そういえば、今年の台風も変だった。昔は台風一過ということばどおり、はげしい風と雨の不安な一夜が明けると、翌日はうそのような秋晴れになったものだ。「野分の朝」という表現がじつにぴったりだと思ったことも多かった。
今年はしかし、そうではなかった。台風は何日も奄美や沖縄に居すわり、本土の天気もぐずついたままだった。そして台風は北東に去りました、というテレビの気象情報にもかかわらず、晴天はやってこなかった。そして、暑さは相変わらずだった。
「今年は異常ですね」とか「このごろ季節がおかしくなってなってますね」とかいうのが、日常のあいさつのようになった。そして会話のいきつく先はたうていこういうことになる。「やはり温暖化のせいでしょうか」
こうなると、さまざまな疑問がでてきてしまう。
今年は異常ですね、というけれど、そもそも平常な年なんてあるのだろうか? このごろ季節がおかしくなってますね、というけれど、暦どおりに季節が進行した年なんてあったろうか?花冷えの年もあったし、空梅雨の年もあった。冷夏の年も暖冬の年もあった。毎年どこか異常なのだ。
10月に入ると、北海道には雪が降った。夏は異常に暑かったけれど、雪の季節はちゃんときたらしい。結局のところ、それほど異常でもおかしくなってもいないのではないか?
あるいは次のような言い方もできる。気候は毎年「異常」なのだ。それを平均したものが「平年並み」なのである。これはきわめて常識的なことであって、今さらいうべき必要もない。ぼくらは、「平年」ということばに異常に執着しているのだろう。
たまたま話題がこのことに及ぶと、いつもぼくは小学校のころのある体験を思いだす。どういうきっかけだったか憶えていないけれど、クラスで人間の平常の脈拍は1分間に75だという話になった。担任の先生の「じゃあ計ってみよう」という言葉に、みんな神妙な顔をして、1分間自分の脈拍を数えた。72、76、77、73、74、78、などとさまざまな答えが出た。けれど75というのは一人もいなかった。「わかったろう?こういうものだ」という先生のことばが、じつによくわかった。
「温暖化」ということばには、ぼくはまたべつの疑問を感じてしまう。
近年、地球は温暖化しており、その原因は二酸化炭素だということが一般に言われている。もう少し正確には、原因は二酸化炭素だけではなく、メタンなども含めた「温室効果ガス」というべなのだ、と教えてくれた人もいる。そしてメタンは植物が分解するときには必ず発生するし、牛のゲップにも含まれているのだそうである。
いずれにせよ、とくに問題にされるのは二酸化炭素である。人間が石炭や石油をどんどん使って二酸化炭素を排出するから、大気中の二酸化炭素濃度が急激に上昇し、その結果、二酸化炭素の温室効果によって地球が温暖化しているのだ、とされている。
地球が温暖化すれば、南極や北極の氷が融け、海面が上昇して、あちこちの島や沿岸低地の町が水没する。植物の成長が変わり、生態系は破壊される。その他その他。温暖化の影響ははかりしれないものがある。
これは由々しき事態である。何とかして二酸化炭素濃度の増加を食いいとめねばというので、かつて京都でCOP3という会議(正式には気候変動枠組条約第3回締結国会議というそうだ)が大々的に開かれた。二酸化炭素濃度の増加を食いとめることには、だれも異存はなかった。けれどいざ実行段階の議論となると、どの国も自国の経済レベルの低下を懸念した。結果的には、二酸化炭素濃度は少しも下がっていない。
実際、南極や北極の氷は融けており、氷河も各地で急速に融け始めている。地球大気の二酸化炭素濃度は急激に上昇を続けている。日本でも冬の降雪量は極端に減っている。温暖化はたしかにおこっているようだ。
ぼくがわからないのは、この温暖化の根本的な原因が人間による二酸化炭素排出にあるのか、それとも昔からおこっている地球のなかば周期的な気温変化によるものなのか、ということである。このことについてはさまざまな研究結果や見解が次々に発表されており、ぼくにはどの考えをとったらよいのか、正直なところわからない。
いずれにせよ、二酸化炭素が温室効果をもつことはたしかである。たとえ温暖化が、地球の「周期的」な変化によるものだとしても、だからこのまま二酸化炭素放出をつづけてよいというものではない。けれど、もし周期的変化だとしたら、ぼくらはこの事態にどう対処したらよいのか? 相手はまったく自然の変化なのだから、人間の力でそれを食い止めたり逆転させたりすることはできない。かといって島や低地の水没を手をこまねいて見ているわけにはいかない。
とにかく「季節」というものは何よりもまず自然に関わる問題なのである。そしてそれに人間の認識や記憶が絡む。昔は、といったって、それはたしかなことなのか?しかもそれはせいぜいこの2、3千年、じっさいにはもっと短い期間のことにすぎない。北極のスピッツベルゲン(スヴァルバール諸島)にも昔はうっそうと木が茂っており、それが今は石炭となって掘り出されている。そこでお土産として買ってきた石炭のかけらを見るたびに、ぼくは季節とは何なのかとかんがえてしまうのだ。
・
・
・
で、日高先生のエッセイを紹介して、何を申し上げたかったか?
うん!・・・何かを申し上げたくて紹介したはずなのですが、あまりにも長い文章を書き進むうち失念しました
みなさん、それぞれお感じ下さい。
あ、お茶は熱い番茶、お菓子のように見えるのは沖縄の黒糖です。
水の飲み過ぎ、パピコの食べ過ぎはお腹をこわしますから、暑いときは熱いものを・・・
これはお勧めですよ
ではまた
晴耕などと、畑に出ようものなら ・・・救急車のお世話になる羽目に。
で、人参もあきらめて、お茶を飲みながら家でゴロゴロです。
ですが、ゴロゴロも長くなりますと飽きてしまいますから、本を引っ張り出しました。
日高敏隆(動物行動学者)著、エッセイ集「人間はどこまで動物か・・・季節」より
今年(2000年)は暑かった。北海道でも35度という日が何日もあった。しかも日本の各地でその暑さがいつまでもつづいた。京都にいると、しみじみそれを感じてしまう。
本来、京都の祇園祭は、長いじめじめした梅雨が明けて、一気に夏の暑さがやってきたときにおこなわれるもの。そして、8月16日の大文字の送り火がすむと、山はすっかり秋めいて、風も涼しくなるものだ。
けれどこのところ何年か、大文字がすんでもさっぱり涼しくならない。いわゆる残暑がいつまでもつづいた。今年の9月の暑さには驚くほかなかった。そして10月に入っても、なお昼間は暑く、いつまでも半袖のワイシャツを手放せなかった。
そういえば、今年の台風も変だった。昔は台風一過ということばどおり、はげしい風と雨の不安な一夜が明けると、翌日はうそのような秋晴れになったものだ。「野分の朝」という表現がじつにぴったりだと思ったことも多かった。
今年はしかし、そうではなかった。台風は何日も奄美や沖縄に居すわり、本土の天気もぐずついたままだった。そして台風は北東に去りました、というテレビの気象情報にもかかわらず、晴天はやってこなかった。そして、暑さは相変わらずだった。
「今年は異常ですね」とか「このごろ季節がおかしくなってなってますね」とかいうのが、日常のあいさつのようになった。そして会話のいきつく先はたうていこういうことになる。「やはり温暖化のせいでしょうか」
こうなると、さまざまな疑問がでてきてしまう。
今年は異常ですね、というけれど、そもそも平常な年なんてあるのだろうか? このごろ季節がおかしくなってますね、というけれど、暦どおりに季節が進行した年なんてあったろうか?花冷えの年もあったし、空梅雨の年もあった。冷夏の年も暖冬の年もあった。毎年どこか異常なのだ。
10月に入ると、北海道には雪が降った。夏は異常に暑かったけれど、雪の季節はちゃんときたらしい。結局のところ、それほど異常でもおかしくなってもいないのではないか?
あるいは次のような言い方もできる。気候は毎年「異常」なのだ。それを平均したものが「平年並み」なのである。これはきわめて常識的なことであって、今さらいうべき必要もない。ぼくらは、「平年」ということばに異常に執着しているのだろう。
たまたま話題がこのことに及ぶと、いつもぼくは小学校のころのある体験を思いだす。どういうきっかけだったか憶えていないけれど、クラスで人間の平常の脈拍は1分間に75だという話になった。担任の先生の「じゃあ計ってみよう」という言葉に、みんな神妙な顔をして、1分間自分の脈拍を数えた。72、76、77、73、74、78、などとさまざまな答えが出た。けれど75というのは一人もいなかった。「わかったろう?こういうものだ」という先生のことばが、じつによくわかった。
「温暖化」ということばには、ぼくはまたべつの疑問を感じてしまう。
近年、地球は温暖化しており、その原因は二酸化炭素だということが一般に言われている。もう少し正確には、原因は二酸化炭素だけではなく、メタンなども含めた「温室効果ガス」というべなのだ、と教えてくれた人もいる。そしてメタンは植物が分解するときには必ず発生するし、牛のゲップにも含まれているのだそうである。
いずれにせよ、とくに問題にされるのは二酸化炭素である。人間が石炭や石油をどんどん使って二酸化炭素を排出するから、大気中の二酸化炭素濃度が急激に上昇し、その結果、二酸化炭素の温室効果によって地球が温暖化しているのだ、とされている。
地球が温暖化すれば、南極や北極の氷が融け、海面が上昇して、あちこちの島や沿岸低地の町が水没する。植物の成長が変わり、生態系は破壊される。その他その他。温暖化の影響ははかりしれないものがある。
これは由々しき事態である。何とかして二酸化炭素濃度の増加を食いいとめねばというので、かつて京都でCOP3という会議(正式には気候変動枠組条約第3回締結国会議というそうだ)が大々的に開かれた。二酸化炭素濃度の増加を食いとめることには、だれも異存はなかった。けれどいざ実行段階の議論となると、どの国も自国の経済レベルの低下を懸念した。結果的には、二酸化炭素濃度は少しも下がっていない。
実際、南極や北極の氷は融けており、氷河も各地で急速に融け始めている。地球大気の二酸化炭素濃度は急激に上昇を続けている。日本でも冬の降雪量は極端に減っている。温暖化はたしかにおこっているようだ。
ぼくがわからないのは、この温暖化の根本的な原因が人間による二酸化炭素排出にあるのか、それとも昔からおこっている地球のなかば周期的な気温変化によるものなのか、ということである。このことについてはさまざまな研究結果や見解が次々に発表されており、ぼくにはどの考えをとったらよいのか、正直なところわからない。
いずれにせよ、二酸化炭素が温室効果をもつことはたしかである。たとえ温暖化が、地球の「周期的」な変化によるものだとしても、だからこのまま二酸化炭素放出をつづけてよいというものではない。けれど、もし周期的変化だとしたら、ぼくらはこの事態にどう対処したらよいのか? 相手はまったく自然の変化なのだから、人間の力でそれを食い止めたり逆転させたりすることはできない。かといって島や低地の水没を手をこまねいて見ているわけにはいかない。
とにかく「季節」というものは何よりもまず自然に関わる問題なのである。そしてそれに人間の認識や記憶が絡む。昔は、といったって、それはたしかなことなのか?しかもそれはせいぜいこの2、3千年、じっさいにはもっと短い期間のことにすぎない。北極のスピッツベルゲン(スヴァルバール諸島)にも昔はうっそうと木が茂っており、それが今は石炭となって掘り出されている。そこでお土産として買ってきた石炭のかけらを見るたびに、ぼくは季節とは何なのかとかんがえてしまうのだ。
・
・
・
で、日高先生のエッセイを紹介して、何を申し上げたかったか?
うん!・・・何かを申し上げたくて紹介したはずなのですが、あまりにも長い文章を書き進むうち失念しました
みなさん、それぞれお感じ下さい。
あ、お茶は熱い番茶、お菓子のように見えるのは沖縄の黒糖です。
水の飲み過ぎ、パピコの食べ過ぎはお腹をこわしますから、暑いときは熱いものを・・・
これはお勧めですよ
ではまた