昨日のブログに書いていた神鉄の三木上の丸駅のすぐ南側にある丘陵一帯には、三木城址があります。戦国時代の三木城主別所長治が篭城して戦った城として有名ですね。 少しだけ説明…
天正5(1577)年に織田信長は、羽柴秀吉を播磨攻略を命じましたが、この時の当主別所長治は、当初東播磨の旗頭として参陣しましたが、毛利氏に通じ反旗を掲げることになりました。
天正6年、秀吉は三木城攻めを開始しますが、なかなか落城させられず、天正8年まで三木城の周囲に30数ヶ所もの付城を築き、三木城を兵糧攻めにしました。 ついに、別所長治は城兵の命と引き替えに自刃し、三木城を開城しました。
その三木城址からは、↓このように美嚢川を渡る神戸電鉄粟生線が見えました。
↑8月28日 神鉄粟生線 三木⇔三木上の丸駅間にて 3000系
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城跡で公園となっているのは本丸部分だけですが、今は住宅地となっている丘陵一帯を散策すると、随所に城の面影がいまでも残っています。
↑8月28日 神鉄粟生線 三木⇔三木上の丸駅間にて 1100系
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北条鉄道の貸切親睦会の後にちょっと立寄った三木上の丸駅から、少し階段を昇った三木城址からの眺めでしたが、400年以上前の戦国の世を垣間見ることができました。
↑8月28日 神鉄粟生線 三木上の丸駅にて
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三木上の丸駅からまた粟生線に乗って新開地経由で三宮へ向かいました。
天正5(1577)年に織田信長は、羽柴秀吉を播磨攻略を命じましたが、この時の当主別所長治は、当初東播磨の旗頭として参陣しましたが、毛利氏に通じ反旗を掲げることになりました。
天正6年、秀吉は三木城攻めを開始しますが、なかなか落城させられず、天正8年まで三木城の周囲に30数ヶ所もの付城を築き、三木城を兵糧攻めにしました。 ついに、別所長治は城兵の命と引き替えに自刃し、三木城を開城しました。
その三木城址からは、↓このように美嚢川を渡る神戸電鉄粟生線が見えました。
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城跡で公園となっているのは本丸部分だけですが、今は住宅地となっている丘陵一帯を散策すると、随所に城の面影がいまでも残っています。
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北条鉄道の貸切親睦会の後にちょっと立寄った三木上の丸駅から、少し階段を昇った三木城址からの眺めでしたが、400年以上前の戦国の世を垣間見ることができました。
↑8月28日 神鉄粟生線 三木上の丸駅にて
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三木上の丸駅からまた粟生線に乗って新開地経由で三宮へ向かいました。