医大生・たきいです。

医大生的独言。

医学部は文系なのか

2012-11-02 23:59:59 | 医大生的生活

風呂場でラグ部の大男に会う。山梨県出身である。

「あしたも車校行くの?」

宮城県流に、「自車校」と言ってしまわずに、「車校」というのにも慣れてきた。すると大男、

「や、明日は旅に出る」

秋リーグも終わって奇跡の土曜日が休みという明日である。確かに旅にでも出たくなるかもしれない。

「どこ行くの?」

ともちろん問う。すると驚きの答えが。



「仙台。」



う ら や ま し す ぎ る



わたくしの故郷です。仙台です。ですから、まぁ流石に同行はしないけれども(笑)。えーいいなぁー、牛タン食いに行くのね。お前1.5人前頼まないと足りないよ、とアドバイス。利久という名店に行ってくるらしい。下調べばっちりだなお前。俺が仙台にいるときに仙台来てくれるなら牛タンくらいおごったのに(笑)。わたくしの自宅で一泊することを許可するので、お土産に筆者の大好物の牛タンジャーキー買ってきてください(笑)。こちらは伊達の牛タンのがおすすめですよぉ。医大生・たきいです。



さて、先日学長のお話を授業で聞いた。少々浪人時代に真面目に考えたこともあったアカデミックな話題についても取り上げられていたので、眠さも感じずに聞き耽ってしまった。筆者にしては珍しいと言わざるを得ないのが悲しいところではあるが(笑)。

診断するとは、理解することであるという。「背景」の理解が重要だという。大枠でとらえれば、人間理解の為に「背景」と「言動」から「内面」を読み解くのである。人間は、「背景」があって、「内面」があって、「言動」があるのだ。「大学に合格して」、「嬉しいから」、「泣く」のである。大学に合格して泣いている人を診れば、「嬉しいのだ彼は」と推測しなければならない。これ、小説の正しい能動的な解き方だ。この延長線上に論理的な診断もあるのではないか。

また、医学は一般的に科学である。科学者は実証できないことは言わないのだそうだ。原因から導かれた結果、すなわち因果関係に基づいた法則性に着目するからである。法則には再現性がある。熱力学第一法則が昨日は成立していたのに、今日は成立しないだなんてことはありえない。いつも必ず、熱と仕事のエネルギーの増減は、内部エネルギーの変化なのである。この再現性に基づいて、未来は予測できるから、医学という学問がある。医学は科学だからだ。未来が予測できなければ診断はできない。

しかし、「臨床」という個について着目しなければいけない局面では、実証できることにしか着目しない科学の姿勢にはどうも限界があるようだ。法則性に重きを置く科学は個について無関心である。では、臨床の現場に於いて科学を補完するものとは一体何か。蓋し、文学である。誰が言ったか、「まさに科学が成り立たぬところに於いて文学は成り立つ」のである。文学に再現性はない。文学は一回性である。この一回かぎりの文学において必要となってくる素養は他者理解である。数式に代入して整理すれば、答えを出てくる科学的手法は通用せず、いちいち「内面」理解の為にこちらも苦闘しなければならないのだ。「内面」とは無論患者の内面のことである。これが、診断するとは、理解することであると学長が云う所以ではないか。となれば、僕ら医学生は文学についても学ばなければならぬ。



「医学部は文系だ」とはたまに耳する言葉である。医学部の勉強は覚えることが多く、知識の洪水に四苦八苦することになるので、時に医学部は、日本史や世界史の果てしない暗記量のイメージと結びつくのか、文系だと揶揄されたり、医学生は卑下することがあるのである。しかし医学部は文系であると、蓋然性を持って主張できる根拠は果たして本当にこういうことか。例えば現代文的思考のプロセスが重要になったり、書くことという文章構成能力が重要になったりするということなのではないかと筆者は考える。僕らの身につけなければならぬ素養は膨大だ。努力せねばならぬことは多い。


以上のように胡散臭く語ってみたのは、今から書くことに重みを持たせるためだけであり、大したことはない。学長曰く、「とにかく書いてください。調べることと書くことが一生の生活の中で最も重要とされる知的能力であります。書くことが教養の基本です。書くことがなければ、日記でも構わないのです。」





・・・俺、やってんじゃん\(^o^)/笑






…そういえば、学長講話の感想文提出しなきゃいけないんだった。今日のブログコピーして提出しようかな。笑









(ラウンジで勉強する友を見て、そろそろ勉強しなきゃまずいわと焦ってきた人(笑))









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