2010年4月初旬、「明治大学平和教育 登戸研究所資料館」が一般公開されました。これは、明治大学生田キャンパス内にある旧陸軍登戸研究所の当時の建物を利用し、同大学非常勤講師の渡辺賢二先生(稲城市在住)が中心になって設立されたものです。公開直後、渡辺先生自らを案内人として見学する機会を得ました。4ヶ月前のことで恐縮ですが、終戦記念日にちなみ、本日ここにご紹介します。
(★これより下の画像をクリックすると、大きい画像や別の画像が見られます。※印がついた画像には裏に別画像が入っています。★撮影日は2010年4月9日です。)
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生田キャンパスは、小田急線生田駅から歩き、急な坂を上ったところにあります。
まずは、キャンパス内に残る当時の施設を案内していただきました。
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(左)渡辺先生は、25年の歳月をかけて集めた資料のうちの一つ、当時の航空写真を見せながら解説してくださいました。
(右)キャンパスの入口に近い所にある登戸研究所の跡碑 (裏)「過ぎし日々この丘に立ちめぐり逢う 旧陸軍登戸研究所有志」
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(左)・(右)キャンパス内に保存されている陸軍の消火栓。星のマークが陸軍のマークです。
(中央)「動物慰霊碑」 表向きは明治大学農学部が実験に使う動物の慰霊碑ということになっていますが、渡辺先生によると、実際には陸軍が化学兵器の実験に使った中国人等を慰霊している碑らしいとのこと。但し、当時の研究員で、登戸研究所の真実を著書で暴露した伴繁雄氏は、明確にはそれを肯定しなかったそうですが...。
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中国の偽札を偽造していた建物(中央)・(右)と偽札(左)
建物の中に入りました。
(左)鉛や水が流されていた排水溝。当時としては最先端だったそうです。
(中央)屋根は西洋式、三角形で、柱が建物の中にないのが特徴だそうです。
弾薬庫
登戸研究所資料館は一番奥にあります(トップ画像)。
建物入口にある設立趣旨文:「旧陸軍登戸研究所の研究施設だった建物を保存・活用して、研究所がおこなったことがらを記録にとどめ、大学として歴史教育・平和教育・科学教育の発信地とするとともに、地域社会との連携の場としていくことを目指している」
HPより:「登戸研究所は、戦争には必ず付随する『秘密戦』(防諜・諜報・謀略・宣伝)という側面を担っていた研究所であり、そのため、その活動は戦争の隠された裏面を示しているといえます。(略)研究内容やそこで開発された兵器・資材などは、時には人道上あるいは国際法規上、大きな問題を有するものも含まれています。しかし、私たちはこうした戦争の暗部ともいえる部分を直視し、戦争の本質や戦前の日本軍がおこなってきた諸活動の一端を、冷静に後世に語り継いでいく必要があると思っています。
それは、私たち大学と同じ科学研究にあたる場が、戦争という目的のためには、場合によっては尋常な理性と人間性を喪失してしまいかねない機能をもってしまうことを強く自戒するためでもあります」
内部は撮影禁止なので画像がありません。ここからは文章だけの解説になります。重い話題&冗長になるかもしれませんが、最後までおつき合いいただけると嬉しいです。
既述のように、陸軍登戸研究所は天皇と陸軍参謀本部直属の秘密機関であったため、長い間その存在さえ秘匿されていました。しかし、くだんの伴繁雄氏が半世紀も経ってからその著書で全容を暴露し、世の中に知られるところとなりました。
本来は陸軍の9番目の研究所でしたが、敢えて号外とし、「登戸」と地名で表わしたのは、秘密研究所だったからです。中国戦が泥沼化し、それを打開するため、陸軍が極秘に兵器開発のために作ったのです。11万坪の敷地を有し、1945年当時には研究員・学徒動員の工員等合わせて1000人近い規模で、当時の最先端の科学の粋を集めた研究機関でした。潤沢な研究費を受けており、研究員は高給を得、兵役を免れた(情報漏洩を防ぐため)ため、戦争の最中にありながらも、自由で恵まれた環境だったそうです。
施設は3つに分かれていました:
第1科:●物理学を利用した兵器開発
・風船爆弾*の製造:人を直接焼夷弾や爆弾で攻撃すること・牛疫ウィルスを撒くこと(結局未使用に終わる)が目的
・電波兵器(超短波兵器・有線兵器等)の製造
第2科:●生物化学兵器開発:毒ガス・牛疫ウィルス(稲をだめにするのが目的)の開発
●秘密戦:防諜(敵国への秘密漏洩を防ぐため)・諜報(敵国の秘密を得るため)・諜略・宣伝(国民を誘導する心理戦)
第3科:●経済謀略活動:(↑の画像で紹介した)中国の法幣の偽造*
この資料館では、以上3科の研究内容が4つの展示室でわかりやすく解説されています。展示はパネルではなく布製(掛け軸のような構造で、上下で引っ張られている)で、後ろからの光線によって透けるようになっており、斬新なスタイルでもあります。
* 風船爆弾の模型がありました。気圧の変化により風船の高度が下がると、砂嚢が自動的に落ちる仕組みで、風船部が和紙でできていたところが、我が国ならではですね。
* 当時、中国は4つの造幣局を持っていましたが、アメリカとイギリスが4つを統合して法幣を作らせるようになりました。(アメリカ軍は透かしを作れませんでしたが、イギリス軍は作ることができたそうです。) 陸軍はその法幣をここで偽造しました。偽札を流通させ、経済的に撹乱するのが1つの目的(実際に、大量の貨幣が流通、インフレが起きました)で、2つ目の目的は日本軍が中国で物資を調達しやすくすることでした。
最初は偽造していましたが、その後香港で使われていた本物の法幣印刷の原版を持ってきて生産するようになったそうです。偽造していたくだんの建物は研究所内でも極秘にされ、関係者以外は立ち入り禁止でした。
さらに、第5展示室では、本土決戦体制下の登戸研究所と戦後処理について解説されています。
本土決戦を覚悟してからの陸軍は、研究所を登戸から長野の飯田に移しました。飯田は岩盤がしっかりしていて山に囲まれているという理由で選ばれました。当時使われていた、珪酸土を使った水の濾過器が展示されています。天皇と参謀部中枢の人間の命を守るために、どんな毒をも濾過するよう開発されたものでした。
この研究所で働いた人達は本来は戦犯ですが、アメリカ軍に情報提供することを交換条件に、戦後戦争責任を免責されました。
その他、この資料館には、当時使われていた暗室や映像による資料室もあります。
渡辺先生の解説の中で、伴繁雄氏の次の証言に戦慄を覚えました:「科学者として中国人を実験台に使ううちに、だんだん快感を覚えるようになってしまった」
その言葉を受けて先生がおっしゃった言葉が強く心に残ります:「戦争は科学者をも人道的、倫理的に問題ある人間に変えてしまう」「戦争は食べ物までをも兵器にする」
さらに、先生は強調されました:「『戦争は悪い』とただ強調するだけではだめで、客観的事実を冷静に直視、後世に伝えていく必要があると思う。そのために、この資料館で実際に使われた物を資料として残し、伝えていく方法を採った」
この思い、考えが、この資料館の設立趣旨につながったのですね。
登戸研究所はたまたま明治大学が買い取った敷地内にあったため、平和教育をも目的として、資料館としてキャンパス内に公開されるに至ったそうですが、この意義は大きいと私は思います。私たちが訪れたときは、新学期でキャンパスに活気がある時期でしたが、画像で紹介したそれぞれの施設の周りは閑散としていました。実際に陸軍施設の存在を学生たちに尋ねてみましたが、ほとんど知らないようでした。この資料館が今後学生や地域の人々に広く知られ、多くの人々が訪れるようになることを願っています。
なお、渡辺賢二先生を講師としてお呼びする行事を1週間後に開きます。雑木林に囲まれた稲城市城山体験学習館にぜひお越しくださいませ。
冗長な記事におつき合いくださり、感謝いたします
昨日まで、テレビのチャンネルは、何処を回しても戦争に関するプログラムでしたね。
我が家の直ぐ近く、
明大のキャンパスに、このような施設があることは知っていました。が
どのような研究をしていたのかはよく知りませんでした。
そうだったんですか。
偽札つくりまでもしていたなんて・・・・。
何もかもおかしくしてしまう戦争という大罪、
怖い話です。
興味深く読ませていただきました。
ついこの間の話なんだよねぇ。そして今でも、世界のどこかでは、こうした研究がまだ行われている…。
9月1日から、南京で近々始まる遺棄化学兵器の廃棄処理の施設視察に行ってきます。様々な困難を乗り越えてやっと始まることなので、忌まわしい過去に関わる話ではあるのですが、ポジティヴに報道してもらえるとよいのですが。
そう、お近くでしたよね。この日、「お近くだったなぁ。ご存知かしら...」と思いながら訪れていたのでした。記事にするのが遅くなってしまったのですが。
半世紀の沈黙を破って公にされた事実ですから、一人でも多くの人に見てもらい、設立者の趣旨が伝わるといいと願っています。
にりんそうさんも一度訪れてみてくださいませ。
そうですか、歴史的な場面に立ち会うことができるのですね。報道もですが、いつか直接お話が伺えると嬉しいです。
気をつけて行ってきてくださいね。