えつこのマンマダイアリー

♪東京の田舎でのスローライフ...病気とも仲良く...ありのままに、ユーモラスに......♪

母性が子孫を救う ~「100万人の母たち 七夕プロジェクト」~

2013年06月27日 | 東日本大震災

 三大全国紙が報じているかどうかは知りませんが、東京新聞は6月26日付の朝刊で、 「100万人の母たち 七夕プロジェクト ~首相に願いを~」 について報じていました。「脱原発・脱被ばくの願いを短冊に書いて、7月7日七夕の日に首相官邸に届けよう!」というプロジェクトです。
  プロジェクトのHPはこちらで...
  Facebookのページはこちらで...
  ブログはこちらで...
  安倍首相へのメッセージがこちらで...
見られます。

 デモや署名ではなく、季節の行事を利用したソフトな伝達方法を採るとは、いかにも若いママさんたちらしい、明るく爽やかな発想ですね。被爆と被曝という二重の被ばくを経験した世界で唯一の国にも拘わらず、臆面もなく原発を輸出しようとする首相...そのお方にこのソフトな方法が響くかどうかは別にして、自分達の思いを形にすることの意義と重要性を私は大いに感じますし、勇気と実行力を称えたいと思います。また、昨年娘の出産を通じ、命を産み落とすことの崇高さと強さとリスクを改めて実感した私としては、いたたまれない思いでいるママさんたちの母性に胸が痛み、共感し、また気持ちが動かされます。

 「どんな形をとっても、とにかく、私たちは子供の暮らしを、子供の命を、子供の将来を、なんとかして守りたいのよ」という切実な思い...これを受け止められない人が、どうして一国を守ることができるでしょう? 私はそう思います。「そんなことして、誰が動く? 何が変わる?」 と、このプロジェクトを嗤う人がいるとすれば...その人自身も、母親から生まれ、母性に守られ、育てられたことを、決して忘れないでいただきたいです。

 

 ところで話は逸れますが、6月23日、同新聞の朝刊の「時代を読む」というコーナーで、関西学院大学准教授の貴戸理恵氏が「社会運動に工夫を」というタイトルで次のような提言をしていました。長いですが、そのまま掲載します(太字化部分はブログ管理人による):

copy---------------------------------------------------------
 「女性」であるがゆえに皆が雇用機会を奪われている時代には、「女性運動」が成り立つ。だが、「女性でも、力があれば出世できる」とされるようになると、女性は他の女性と連帯して社会に訴えるより、個人的な頑張りを優先するようになる。
 このように「女性」「障害者」「不登校者」など、属性の共通性をキーワードにした社会運動が成り立ちにくくなっている。グローバル化と市場化が進むと、属性より選択や競争が重視され、「何をするか」という「個人の問題」との認識が広がるからだ。
 同じ状況が、私自身が研究テーマとしている不登校にも当てはまる。不登校は1980年代には「学校を出て会社に就職する」という「主流」からの逸脱であり、「不登校では社会に出ていけない」などと強く否定されていた。それに対抗した不登校運動は、親の会や学校外の居場所・学舎(まなびや)の設立を通じて「不登校は人生の選択、社会に出ていける」と主張していった。不登校は「画一的なこの社会」を見直すキーワードだった。
 それが90年代以降、「学校から仕事へ」という「主流」が崩れると、不登校は社会への抵抗というより、個人の進路上のリスクにすぎなくなった。フリースクールなどの選択肢が増える一方で、不登校後に進学や就職が不利になっても、「個人の問題」とされる。だが、実際に個人の選択が地位を決めているわけではない。差別は色濃く残る。バブル崩壊後の雇用不安定化のダメージが大きかったのは、高卒者と女性だった。92年から2000年で高卒の求人は約6分の1になり、女性の非正規雇用は90年の37.9%から01年に47.7%になった。選択の強調は、実際には存在する集団的な差別を見えにくくした。「自己責任」が強調され、生きづらさが膨らんだ。
 社会は変わる必要がある。社会運動はそのための一つの方法だ。でも、協同の足場をどう組み立てうるだろう? 「不登校でも自分らしく生きたい」と言えば、「ご自由に。ただし、自己責任で自立せよ」と言われてしまうこの時代に。難しい。答えはない。けれども工夫の余地はある。
 関西で不登校・ひきこもり支援などにかかわるNPO法人が、「生きづらさからの当事者研究会」を始めた。私はそこでコーディネーターをしている。今年で3年目だ。月に一度、学校や職場に馴染みにくい人びとが集い、学校経験や親との関係など自分たちにとって重要な問いをリポートしたり、議論したりする。不登校やひきこもりを経験した人が多いが、そうでない人も参加している。
 私たちの工夫は、属性に基づくカテゴリーを立てず、「生きづらさ」という本人の感覚に基づく言葉を採用したことだ。学校へ行かない「生きづらさ」もあれば、行く「生きづらさ」もある。働かないことは「生きづらい」が、働いている人もやっぱり「生きづらい」。互いの状況が違っていても、「生きづらさ」という共通の感覚を頼りに、ともに目指しうる方向を探っていく―そんな思いを込めた。
 社会を変える、というにはあまりにも、ささやかな営みかもしれない。けれども、新しい学びや人間関係、働くことのかたちが、そこから生まれてくるのではないかと、目を凝らし続けたい。
 今、自分が抱えている痛みに耳をすますこと。そして、仲間とのつながりの中で現実を変える道を探ること。それが、「女性運動」や「不登校運動」など、「属性」をキーワードとする先行の社会運動から手渡されたものだから。
---------------------------------------------------------copy

 

 これを読んだとき、なるほど!と思ったものです。今まで、さまざまな事象に関わる社会運動―例えば、被爆、各種の公害病、薬害、拉致被害、犯罪被害、原発やダムなどインフラ建設への反対など―が直面してきたであろう、運動拡大の限界は、おそらくこの「属性を超えることの困難」が大きな要因だと考えられるからです。福島の原発事故後、福島の被災者や風評被害に苦しむ人たちの苦しみも、この「属性を超えることの困難」に起因するところが大きいのではないでしょうか。被災者と非被災者、風評被害者と非被害者...それぞれの間に横たわる超えがたい大きな属性の違いが、困難に立ち向かうことをさらに困難にしているように思えます。

 そんなことを考えていたとき、先に紹介した「100万人の母たち 七夕プロジェクト」を知りました。この社会運動は、一見「脱原発・脱被ばくの願いを持つ母親たちの運動」に思えますが、くだんのプロジェクトのHPにはこう書かれています:
copy---------------------------------------------------------
 「100万人の母たち」というのは
 一人ひとりのいのちを守りたいという母性の象徴です。
 母でなくてもいいですし、男性でもいいのです。
 世界中から願いを集めましょう。

 七夕は、天の川を越えて、織姫と彦星が出会う日です。
 いろんな枠や壁を越えて、これまで離れ離れになっていた女性性と男性性、
 市民と政治、いのちと文化の出会い直しを始めましょう。

 脱原発・脱被ばくの願いを持つ私たちが、ここに再びつながり、
 その輪をさらに広げていく日にしたいと思います。
---------------------------------------------------------copy

 このプロジェクトは、まさに、貴戸理恵氏が提案、推進してきている「属性によらない、本人の感覚に基づくキーワードを立てた運動」ではないでしょうか。理想を高らかに掲げ、かっちり組織立て、目的に向かってストイックに猛進するというような、ありがちな堅苦しい社会運動ではなく、ゆるくつながり、穏やかに呼びかけながらも、裾野を着実に広げていくような運動ではないかと、私の目にはとても好ましく、また頼もしく映っています。私はFBには加入していないので、この記事を掲載することで、このプロジェクトを応援したいと思います。ささやかな、でも当たり前な気持ちから始まり、人の心と心がつながり、人の心を動かしていく...一人ひとりの心が少しずつ社会を変えていく...そんな過程の実現を、私も七夕に込めたいと思います。

 「一人ひとりのいのちを守りたいという母性」を持った人たち、がんばれ! & 一緒にがんばろう!!(*^▽^*)v

  


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 本日の一品(121) ~麻婆大... | トップ | シュールな世界 ~東武ワー... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

東日本大震災」カテゴリの最新記事