「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

西郷隆盛 敬天愛人の思想2  薩長同盟を実現せしめた西郷南洲の大度量

2011-04-06 18:19:50 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第二十一回(『祖国と青年』23年1月号掲載)

西郷隆盛 敬天愛人の思想2

  薩長同盟を実現せしめた西郷南洲の大度量



 二度の遠島から戻った西郷南洲は、薩摩藩の政治の中枢に位置し、ひたすら先君・斉彬公の「遺志」の継承・実現の為に尽力して行く。

『島津斉彬言行録』の序に牧野伸顕は「維新ノ前後公文等ニ能ク先君ノ遺志ヲ継イデト云フ一句ガアル 此レハ体裁ノ上ノ言葉デナク全ク一藩ノ上下ヲ通ジタル信念ノ顕レデアッタコトハ毫モ疑イノ余地ハナイノデアル」と記している。島津斉彬公は、常に世界を見つめ、日本の将来に思いを回らし、その為に薩摩藩は如何にあるべきかを考えられていた。そして、尊皇攘夷を実現する為に、志を共にし行動する同志を、幕閣や雄藩の中に見出し、雄藩連合を形成して幕府の政道を正そうとされたのだった。

元治元年(1864)年二月に召還され、翌月に京都で薩摩藩の軍賦役に就任して以来、明治元年迄の五年間に西郷南洲が為し遂げた維新は、斉彬公の遺志の実現に他ならなかった。それを担った西郷南洲は天性の真直ぐさに加えて、死生超脱の大苦難を体験し、揺るがぬ大信念と大度量の人物に鍛え上げられて行った。大西郷遺訓で述べられる言葉の数々には西郷南洲の道に対する信念が伺われる。

●道を行ふ者は、天下挙て毀るも足らざるとせず、天下挙て誉むるも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。

●事大小と無く、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用ふ可からず。人多くは事の指支ふる時に臨み、作略を用ひて一旦其の指支を通せば、跡は時宜次第工夫の出来る様に思へ共、作略の煩ひ屹度生じ、事必ず敗るるものぞ。正道を以て之を行へば、目前には迂遠なる様なれ共、先きに行けば成功は早きもの也。

●学に志す者、規模を宏大にせずば有る可からず。さりとて唯此こにのみ偏倚すれば、或は身を修するに疎に成り行くゆゑ、終始己に克ちて身を修する也。規模を宏大にして己れに克ち、男子は人を容れ、人に容れられては済まぬものと思へよ。
  
かかる大信念を抱き、西郷南洲は果敢に行動した。西郷は寡黙実行の人であった。

●    子弟に示す
才子元来多く事を過つ  議論畢竟世に功無し
誰か知る黙黙不言の裡  山は是青青花は是紅なるを


     薩長同盟の底流と尊攘派の西郷南洲復権への期待

 薩長同盟は、坂本龍馬が成し遂げたとの論が世間に流布しているが、それは、西郷南洲と木戸孝允との盟約の場で龍馬が果たした役割のみに着目しての言葉であって、「木を見て森を見ず」の言に他ならない。

幕末の尊皇攘夷運動の震源地は水戸である。真木和泉守も吉田松陰も水戸に学んで「国体」への確信を強め、久留米藩や長州藩での尊皇攘夷運動の魁となっている。同様に、西郷南洲は安政元年に島津斉彬公に随って上京し、安政五年まで、斉彬公の命を受けて、水戸を始め越前や柳川・肥後等の藩士と交わり将軍継嗣問題に奔走した。その間、西郷は水戸の藤田東湖に多大な感化を受けている。

西郷南洲の尊攘魂は水戸藩士との交流の中で確固たるものとなっていくのである。そして、この間の西郷の他藩の有為なる人材との交流こそ、幕末史が西郷を中心に展開して行く下地を作ったのである。

大老井伊直弼による尊攘派に対する大弾圧・安政の大獄が起こるや、水戸藩士と薩摩藩士は盟約して井伊直弼政権打倒を企図し、桜田門外の変の断行と薩摩藩の上京が盟約される。又、水戸藩士と長州藩士(桂小五郎・松島剛蔵)の間でも「成破盟約」(水戸藩が現体制を打倒し、長州藩が新政権を打ち立てる)が結ばれている。

安政の大獄に際して、全国各地の尊攘派の劣勢挽回の動きが加速されて行く。文久元年には土佐勤王党も結成されている。尊皇攘夷を信條とする志士達の全国的な連携があり、そこには薩摩・長州・土佐の志士達も参加し繋がっている。その流れの中に西郷南洲が居り、木戸孝允(桂小五郎)も居たのである。

 文久二年になると、政治の中心は京都に移り、全国の尊攘派の浪士達は、急逝した島津斉彬の遺志を受けて上京する島津久光を奉じて討幕の軍を起こそうとする。しかし、その期待は破れ島津久光の命で、薩摩藩の尊攘派が手打ちになる「寺田屋事件」が起こり、尊攘派の志士達は薩摩藩に失望していく。西郷はこの悲劇を事前に察知して食い止めんとするが、逆に島津久光の怒りを買って、罪人として沖永良部島に流される。

かくて尊攘派の信望は長州藩へと移り、京都に於ても長州藩が政局の中心を担い、尊攘派の志士達も長州藩と行動を共にする様になる。だが、討幕を企図する長州藩に対し、孝明天皇はあくまでも公武合体での攘夷断行を望まれていた為、穏健派の公家が中心となり、薩摩藩と会津藩の力を得て、文久三年八月十八日に政変が起こり、長州藩と七人の公卿(七卿)は京都から追放される。反動は全国に広がり、土佐藩でも勤皇党への弾圧が開始され、後に薩長同盟の仲介役として大きな役割を果たした中岡慎太郎の土佐脱藩へと繋がって行く。

この政変以降、全国の尊皇攘夷運動の中心地は、七卿を奉じる長州藩三田尻の招賢閣へと移動し、脱藩した全国の尊攘運動の指導者達は三田尻に集結する。中岡慎太郎もその一人だった。

その招賢閣で、沖永良部に流された西郷南洲救出の企てが起こった。

十月十二日、三条実美等の命を帯び真木和泉守の密書を持って、三田尻招賢閣の松山深蔵と原道太は、西郷救出の為出発している。この計画は途中で阻まれて失敗するが、全国の尊攘派藩の西郷南洲に対する期待の程が窺い知れる。西郷は諸国志士の間でも早くから武市瑞山に似た抜群の器量人と人物が評価され、薩摩藩が幕府に与しているのは島津久光が悪いのであって、西郷南洲が復権すれば薩摩と志を共に出来るとの期待があった。

翌元治元年二月に西郷南洲が復権する。京都で活躍する薩摩藩には西郷の力が必要とされたのである。西郷復帰の報が齎されるや、招賢閣から状況視察の為に京都に潜んでいた中岡慎太郎は、西郷の人物を探るため、薩摩藩士の多く集う勤王学者中沼了三塾に入門している。だが、池田屋事件が起こり、遂に七月十九日、禁門の変が勃発する。


    西郷南洲の大度量

 禁門の変は、御所に強訴せんとする長州藩に対し、会津藩や薩摩藩が立ち塞がった戦いだが、西郷南洲指揮する薩摩藩は、勅命を受けた御所警備の為のみに兵を動かし、長州藩残党征討の為の天王山への追討は、幕府と長州との「私闘」であると、拒否する。長州を敵とみなすのではなく、勅命を奉じ御所をお守りする為にのみ戦うとの姿勢を明確にしたのである。

幕府は勅許を得て征長軍を組織する。十月、西郷は征長総督参謀に任じられ、総督の徳川慶勝に意見を具申し、長州処分を任せられる。西郷には、長州藩を悪む気持ちは無かった。十一月、幕府は長州征討に際し、出陣の血祭と称し、捕虜の長州藩兵七人を斬首したが、西郷は禁門の変での長州人捕虜を手厚く扱い、長州に送還している。

西郷は、長州藩との戦いを避ける道を選んだ。十一月三日、西郷南洲は自ら岩国に赴き、吉川監物と談判し長州藩三家老処分等申し入れる。更には、越前藩などの強硬派を説得し、

①山口城の取り壊し②毛利藩主自筆の謝罪状提出③五卿(七卿の内一人は薨去、一人は生野へ脱出)を長州藩から他藩に移す事、の三条件を以て征長軍を解く事と決定する。

だが、最後の「五卿動座」は難航が予想された。その時、長州藩との仲介の任に当ったのが、福岡の筑前勤皇党の志士達であった。筑前藩の月方洗蔵・早川養敬は西郷南洲と福岡の平尾山荘(野村望東尼宅)で会見し、薩長和解で意見が一致する。その折、野村望東尼が詠んだ歌が次の歌だと言われている。

「もののふの大和ごころを縒りあはせすゑ一すぢの大縄にせよ」。

早川は長州を何度も訪れて「薩長和解と五卿の筑前藩預かり」を説いて説得に当る。早川の誠に感動した五卿側近の中岡慎太郎は、十二月に薩摩の真意を知る為に、早川従者と称し小倉へ渡り一週間滞在、四日には西郷南洲と会見して感銘を受け、信頼関係が生れる。

十二月十一日、西郷南洲は吉井幸輔や税所篤と共に下関に渡り五卿の附士の土方久元・中岡慎太郎・長州藩諸隊長と会見、征長軍解兵後五卿を福岡に移す妥協案を出して同意を得る。その折、西郷南洲と高杉晋作との固い握手が為されたとも言われている(馬関稲荷町大阪屋・対帆楼会談)。その後、西郷南洲は広島に向い征長総督に解兵を建議、総督は即日解兵を命じる。

西郷は、長州藩との和平を実現すべく、「会奸薩賊」と薩摩を怨んで殺気立つ長州の地に自ら乗り込んで、事を成就させている。その人間力は次の大西郷遺訓の「始末に困る人」との言葉にも伺う事が出来る。

●命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。去れ共、个様の人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるるに付、孟子に、「天下の広居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ。志を得れば民とこれに由り、志を得ざれば独りその道を行ふ。富貴も婬すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず。」と云ひしは、今仰せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにもその通り、道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬ也。

かくて、この長州征討を巡り薩摩と長州との和解の動きが始まって行く。五卿は一月十四日に功山寺を出発し、赤間滞在を経て二月十二日に太宰府延寿王院へと動座された。中岡慎太郎も五卿に随った。

 一方、長州藩では、高杉晋作が決起して藩論を再び尊皇攘夷・武備恭順に統一、長州藩の甦りに恐れを抱いた幕府は第二次長州征討を発議する。それは幕府の私闘に過ぎないと、西郷南洲は断乎出兵拒否を主張し藩論を固める。この間、中岡慎太郎は五卿の意を奉じて、長州・京都(薩摩藩邸)の間を周旋して回る。

閏五月六日、中岡慎太郎は鹿児島に行き西郷南洲に薩長協和を説き、下関で木戸孝允と会う事を勧める。西郷は一旦了解したものの、将軍の入京が間近となって、勅許が下されない様に朝廷に働きかけていた薩摩藩の大久保一蔵からの急使が届き、西郷は下関寄港を取り止め大阪に直行して、その対策に当った。西郷にとっては、木戸との会見より幕府の長州征討阻止こそが喫緊の課題だったのである。

その後、中岡慎太郎・坂本龍馬の斡旋もあって長州藩は薩摩藩名義での武器・軍艦の購入を実現し、関係は愈々強まって行く。

十月中旬に西郷は自らの代理として黒田清隆を長州に派遣、薩長同盟の話し合いが持たれ、十二月には再び黒田が長州を訪れて木戸孝允に上京を促す。そして、慶応二年一月の薩長同盟締結となるのである。

当時中岡慎太郎は「時勢論」の中で

「当時洛西の人物を論じ申候へば、薩藩には西郷吉之助あり。為人肥大にして(略)。此の人学識あり胆略あり、常に寡言にして最も思慮深く、雄断に長じ、偶々一言を出せば確然人の肺腑を貫く。且つ徳高くして人を服し、屡々艱難を経て事に老練す。其の誠実武市に似て学識これある者、実に知行合一の人物也。是れ即ち洛西第一の英雄に御座候。是れに次で胆あり識あり、思慮周密、廟堂の論に耐ゆる者は長州の桂小五郎。胆略有り、兵に臨みて惑はず、機を見て動き、奇を以て人に勝つ者は高杉東行、是れ亦洛西の一奇才。」と西郷南洲・木戸孝允・高杉東行を三大人物と記している。

慶応二年一月の薩長同盟は、第二次長州征討に当り薩摩藩は幕府に組せず長州藩を側面支援するという内容であり、共に参戦するという軍事同盟では無い。その後の第二次長州征討に於ける長州藩の勝利は、幕府の時代の終焉を天下に明らかにする。

京都では、幕府に変わる政治勢力として、薩摩・越前・土佐・宇和島による「四侯会同」が薩摩藩主導で企図されて行く。それに伴って、討幕の為の薩長連合が慶応三年六月十六日に結ばれ、更に十月八日の薩長芸三藩挙兵盟約へと結実して行く。西郷南洲は時代を見据えて、かつて島津斉彬公が意図された雄藩連合を実現し、更には幕府に止めを刺すべく薩長の武力連合を実現し、幕府を実力で崩壊に導き、明治維新を為し遂げるのである。

国事に奔走する中で西郷南洲は次の詩歌を詠んでいる。

●   慶応丙寅十月上京船中作
連歳危きに投ず十月の天 黒烟南北火船を飛ばす
朝威奮はず奸計を縦にす 身は丹楓と作つて帝辺に散らむ

●君がため深き海原ゆく船をあらくな吹きそしなとべの神

 諸人のまことのつもる船なれば行くも帰るも神や守るらむ






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