先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第三十三回(『祖国と青年』24年1月号掲載)
安岡正篤 東洋哲学の泰斗・人間学を提唱した昭和の導師2
同志各々一燈を点じて一隅を照し、萬燈天下を遍照することを期す
昭和四年三月、安岡は「文教革新会」の趣意書を起草した。安岡は当時の教育を「職業教育機関甚しきは営利事業化し、無責任なる粗製品濫造を為す工場の観」があり、「教育の為に却って国民は経済的道徳的破綻に瀕しつゝある」と嘆いている。
安岡は様々な提言を行い、特に「師範教育」充実の為に「師範学校・師範高等学校及師範大学を置く。」事を主張している。安岡は、日本国の理想と使命を信じ、それを体現する人物を育てる事こそ教育の使命だと考えた。
●王道を詳しく言ふと皇道、帝道、王道と云ふ段階があつて、王道よりは帝道、帝道よりは皇道の方が上です。今世界の民族を較べて見ると、最も皇道に近いのは日本民族のそれである。(略)天皇と皇道と云ふものは東洋政治哲学の中の最高範疇に属する。支那の王道は多くは覇道なんです。
●日本精神と云ふのは最も深い思想的根底に立つて此の行詰まれる世界文明の救済をやらなければならぬ使命を有つて居る(「政治哲学より観たる現代日本」昭和八年)
真実の日本精神の実現を求めて
十一年、安岡は「日本の心の歴史」と「東洋主義と西洋主義・日本精神の真義を論じ」る為に『日本精神通義』を出版した。その中で安岡は誤れる日本精神論者を批判した。
●今日、憂うべきことの一つの大事は、心なき人々が、妄りに日本主義、王道、皇道を振り回して、他国に驕ることであります。
一方、十二年の支那事変勃発に際し、安岡は東洋精神から逸脱する支那人に対しても次の様に呼びかけた。
●我等は支那の為に哭す。三千年の伝統と輝しき文化、而してこの義烈なる精神とを空しく眠らしめ、何時まで汝四億の民は低迷するのか。我等亜細亜の同胞須らく団結し白人の専制を脱し、更に聖賢仁義の教を振作して西欧落日の文明を救はねばならぬ。汝立ちて与に亜細亜の使命に勇躍せよ(昭和十二年七月二十八日日記)
十三年には元の名臣張養浩が著した『三事忠告』(宰相及大臣、警察官及検察官、地方長官の心得)を翻訳し『為政三部書』として出版し、わが国の東亜経営指導者の在るべき姿を示した。この本は支那大陸や台湾・朝鮮でも多大な反響を呼んだ。
更に十二月から、半年をかけて欧米視察に赴く。安岡は「書生」に戻り虚心に世界の動きをみつめた。
●私は沁々誤って先生になったような気がして、なるべく早く先生の仕事は後進の人たちに譲りまして、もう一遍書生になって他郷に放浪し勉強し、青空を流れる雲のような生活がしたいと考えておりましたが、このたび初めてそれができるわけです。(欧米外遊送別会挨拶)
十六年、大東亜戦争が始まる。安岡は、開戦後の大勝利に伴う人心の浮薄に次の様に警告を発した。
●今次、英米との開戦劈頭の戦勝に現れた国民の態度の中には、平生の涵養の乏しきを思はせるものあり、其処に学徒として大いに反省の要がある。もう少し沈着で剛毅でありたいと願はれる。英米もよくよく内部的に頽廃してゐれば格別、三箇月、四箇月経つに従つて、段々威力ある反撃を現はすかも知れぬ(昭和十七年一月『東洋思想研究』)
十九年八月小磯内閣が誕生、前年に大東亜会議を開催し東亜諸国との連携を強めていた重光葵外相兼大東亜相は、大東亜省顧問として安岡を迎えた。しかし戦勢の挽回はならず、日本国の敗色は愈々濃くなって行く。
敗戦の総括と日本復興への決意
二十年二月、安岡は伊與田覺宛に「このまま行けば日本は必ず敗戦する。しかしこれは軍と官が敗れるのであって、国民が敗れるわけではない。ゆえに神州は不滅である。その時に今後は七転び八起きの精神で、日本を復興させねばならない。」との旨を書き送った(『安岡正篤先生からの手紙』)。
八月九日の御前会議に陪席し、戦争終結のご聖断を仄聞した安岡は翌日、農士学校の生徒に訓示を行った。
●此ノ度ノ敗戦ハ主トシテ何二因ルカ(略)是レ実二内二於テハ道議ノ頽敗、外ニアツテハ科学力及政治カノ未熟ノ結果ナリ。此ノ敗戦ノ後二来ルモノハ戦争ニモ増ス苦痛ト紛乱ト屈辱トナルコト亦明瞭ナリ。小人奸人其ノ間二跋扈シ異端邪説横行シテ、国民帰趨二迷フベシ。此ノ邦家ノ辱ヲ雪イデ、天日ノ光ヲ復スベキモノ実二諸子ノ大任ナリ。諸子夫レ深潜厳毅以テ自己人物ヲ錬磨シ、鎮護国家ノ道約ヲ果スニ遺憾ナカランコトヲ期セヨ。
八月十四日、終戦の大詔起草に当り、迫水書記官長から御文章刪修の依頼を受けた安岡は、「五内為ニ裂ク」「義命ノ存スル所」「万世ノ為ニ太平ヲ開カム」等の語句の使用を勧めた。わが国の敗戦は力尽きてやむをえずして行うのではなく、世界平和を求める天皇の深き大御心に因るものとの大義名分を明らかにする為の語句の選択であった。
五月の空襲で自宅を焼失した安岡は、日本農士学校に起居し、終戦前後、毎朝の朝参(朝礼)に於て、古今先哲の言葉を紹介し短い感想を示している。それは後に『百朝集』として出版された。
敗戦に就いて安岡は、春秋左伝の「(國の)将に亡びんとするや神に聴く」を紹介して「最も神を知らざる似而非敬神者流が神を弄んで日本を敗亡に陥れた。神意の畏るべきを深省せねばならぬ。」と述べた。この『百朝集』の中で唯一、安岡自らの言葉として紹介しているのが、現在も多くの人々を導き続けている「六中観」である。
●死中・活有り。苦中・楽有り。忙中・閑有り。壷中・天有り。意中・人有り。腹中・書有り。 安岡正篤
註(一)壷中有天 世俗生活の中に在つて、それに限定されず、独自の世界即ち別天地をいふ。漢書方術伝・費長房の故事に出づ。(二)意中有人 意中の人といふと、恋人の意に慣用するが、こゝでは常に心の中に人物を持つ意。或は私淑する偉人を、或は共に隠棲出来る伴侶を、又要路に推薦しうる人材を…といふやうにあらゆる場合の人材の用意。(三)腹中有書 目にとめたとか、頭の中の滓のやうな知識ではなく、腹の中に納まつてをる哲学のことである。
私は、平生窃に此の観をなして、如何なる場合も決して絶望したり、仕事に負けたり、屈託したり、精神的空虚に陥らないやうに心がけてゐる。(『百朝集』 五八 六中観)
安岡は、日本国の大激動の時、この「観」を行う事によって不動かつ時代超越の胆識を養っていたのである。
●これから進駐軍がやってくると、戦争犯罪者を一方的に指名して逮捕投獄がつづくだろう。また、これまで指導的立場にあった人々も追放され、社会の混乱は必至とみられます。当然、日本神道の廃止も取り沙汰されるだろう。でも、もしそれでもって神道が消え去ってしまうのなら、もともと大したものではなかったということです。このようなときこそ、挙って護り抜くのが真の信仰で、わが同志は騒がず、競わず、さりとて随わず、この厳しい道を生きていかなければなりません。(『安岡正篤の世界』)
この頃安岡は「青山元不動 白雲自去来(青山元動かず、白雲自ら去来す)」を好んで揮毫したという。
米占領軍は、金鶏学院及び日本農士学校を接収、安岡を公職追放に処した。安岡は生徒達に次の様に語った。
●日本農士学校は吾人の心魂の中に厳存す。各人意を固めよ。(昭和二十一年一月十七日『安岡正篤先生年譜』)
占領軍の中にも安岡の人格に触れ敬意を抱く人物も現れて来る。安岡は政府の人脈を使い、金鶏学院は難しくとも、日本農士学校が解散させられる所以はないと、マッカーサーに直訴状を出して存続を訴えた。安岡達の至誠は占領軍を動かし、解散命令は取り消された。稀有の出来事だった。
●事をなすには正しいという確信がなければ力が出るものではない。その為には平常俯仰天地に恥じない生活をすることだ。(経過を語りて『安岡正篤先生年譜』)
二十五年九月二十四日、安岡は次の様に時局を論じている。
●日本と民族の危機は全く悚然たるものあり この度の敗戦降伏は尚未だ敗国の沙汰也 この次もしソ連に降り赤色革命成功せば終に是れ亡国にて国民は死か奴隷かとなり百年正気滅び申すべし この危局を為政者や警察などに任せてその日の生計などに逐われ 朝鮮などの乱に乗じて漁夫の利を求めて過ぐる今の日本の人士は何といふ愚昧ぞや 是非無力微力を問はず吾輩同志誠を竭すの秋 最も正気を養ひ道を興すの学を講ぜざるべからざる所以に御座候(『安岡正篤先生からの手紙』)
安岡を師と仰ぐ師友会の誕生
安岡の公職追放は二十六年十一月二十九日に解除される。
それ以前、安岡を師と慕う多くの者達から、安岡を中心とする会の結成が求められ、二十四年九月に「師友会」が誕生する。更に二十九年には全国師友協会へと発展する。
安岡は、伝教大師の「一隅を照らす、此れすなはち国宝なり」の言葉に学び、日本人一人一人が自らを磨き上げて、回りを照らし出す「一燈照隅」を師友会同志の目標に掲げた。
●全国師友協会 綱領 (昭和29年設立)
一、本会は東洋文化の歴史的伝統的精神を探究し、同時に日新の世界事情を究明し、会員各自の安心立命と共に日本の進むべき道の開明に努力する。二、本会は会員各自、一燈を点じて一隅を照すことを信念とし、総て正業に従事し、その業務を通じて、本会の精神・使命を遂行すべきことを念願する。三、本会は常に国民教化の振興に尽瘁し、祖国の危機に臨んでは、分に応じて国難の解消に献身努力することを誓願する。
●内外の状況を深思しましょう。このままで往けば、日本は自滅するほかはありません。我々はこれをどうすることも出来ないのでしょうか。我々が何もしなければ、誰がどうしてくれましょうか。我々が何とかするほか無いのです。我々は日本を易えることが出来ます。暗黒を嘆くより、一燈を点けましょう。我々はまず我々の周囲の暗を照す一燈になりましょう。手のとどく限り、至る所に燈明を供えましょう。一人一燈なれば、萬人萬燈です。日本はたちまち明るくなりましょう。これ我々の萬燈行であります。互に真剣にこの世直し行を励もうではありませんか。(萬燈行)
安岡の回りには、政界・経済界・教育界など錚々たる人々が教えを受けに集まった。吉田茂・池田勇人・佐藤栄作・大平正芳など歴代の総理も教えを受けた。特に佐藤栄作は所信表明演説など必ず安岡に添削をお願いしている。
安岡は、『政治家と実践哲学』重版序文の中で「もし現在政治家の一人でも多くが、何よりも先ず自己自身の精神革命、人間革命を行うことが出来れば、それこそ現代の暗黒に貴い光明を点ずるものである。私は常に宗教的祈願をこの点について抱いておるものである。」と述べている。安岡は自らのライフワークとして「東洋宰相学」を集大成したいと考えていた。
更に安岡は二十九年一月に師友協会の出版部ともいうべき明徳出版社を設立し、東洋哲学の古典や研究書の出版を手がけ、四十六年には全十三巻の『陽明学体系』を世に出した(同社は五十八年に王陽明全集を刊行し、平成元年からはシリーズ陽明学を出している)。
一方で安岡は、日本を立て直す為の行動にも積極的に参加した。三十年、わが国の自主独立を目指して結成された国民運動団体の新日本協議会では代表理事を務めた。明治維新百年に際して編纂された大著『明治天皇詔勅謹解』の編修委員会委員長も務め、四十八年一月に出版している。
四十九年四月に結成された「日本を守る会」では代表委員を務め、結成式の記念講演を行っている。
五十四年に制定された元号法に際しては、法案の校閲を行い、新元号を考案する四人の中の一人に選ばれ、書経に基く「平成」を提出した。他の有識者からも「正化」「修文」「文思」などが提案されたが、御世代わりに際し、アジア史学長老の山本達郎が「平成」を再提案し、決定したという(「東京新聞」平成七年十二月三十一日)。
安岡が定めた師友会の様々な「信條」には国家救済の已むに已まれぬ思いが綴られている。
「一、我々は日本現在の国民的弱点と内外の危機を直視し、その解脱救済の為に努力する。一、我々は国際共産主義者の革命的謀略と堕落した資本主義自由主義者の弊害を排除する。」(師友信條〔二〕)「祖国と同胞の為に相共に感激を以て微力を尽さう。」(素心規)「日本の危機なり。匹夫・責有るを知つて、祖国と同胞の為に尽瘁すべし。」(新秋清警)
五十年二月十三日に安岡の喜寿祝賀会が行われた。しかし、その二週間後に長年連れ添った婦美夫人が逝去した。安岡はその後の寂しさを次の漢詩に詠んでいる。
●朝起きて厨房に声あらず 夜帰って寂寞としてまた迎えるなし 梅花すでに散り柳條乱る 孤り坐して書を看短檠に対す
安岡は晩年、師友会館の建設を求める人々に「私は生きている間はそういうことはしたくない。というのは、堕落と余弊が目に見えるからである。」と語ったという(『安岡正篤 人と思想』新井正明氏が紹介)。
五十八年十二月病床に伏した安岡は林繁之に次の様に語った(『安岡正篤の世界』)。
●どうもありがとう。でもね、ぼくももう寿命らしい。どうやら今度が最後みたいだ。元木は永久に残すことはできない。元木の形態を無理して残すようなことはしてくれるなよ。それが自然というものだ。親木の花粉が飛んで、思わぬところに新芽が出る。君たちはその媒体となる心がけを忘れてはならない。陰の世話役、これが尊い。林さん、人生はたとえば王陽明の詩のようなものです。
四十余年睡夢の中 而今醒眼始めて朦朧 知らず日已に亭午を過ぐるを
起って高楼に向かって暁鐘を撞く
十二月十三日逝去、享年八十六歳。最後の言葉は「三界流転。日本は不滅」であった。
安岡正篤 東洋哲学の泰斗・人間学を提唱した昭和の導師2
同志各々一燈を点じて一隅を照し、萬燈天下を遍照することを期す
昭和四年三月、安岡は「文教革新会」の趣意書を起草した。安岡は当時の教育を「職業教育機関甚しきは営利事業化し、無責任なる粗製品濫造を為す工場の観」があり、「教育の為に却って国民は経済的道徳的破綻に瀕しつゝある」と嘆いている。
安岡は様々な提言を行い、特に「師範教育」充実の為に「師範学校・師範高等学校及師範大学を置く。」事を主張している。安岡は、日本国の理想と使命を信じ、それを体現する人物を育てる事こそ教育の使命だと考えた。
●王道を詳しく言ふと皇道、帝道、王道と云ふ段階があつて、王道よりは帝道、帝道よりは皇道の方が上です。今世界の民族を較べて見ると、最も皇道に近いのは日本民族のそれである。(略)天皇と皇道と云ふものは東洋政治哲学の中の最高範疇に属する。支那の王道は多くは覇道なんです。
●日本精神と云ふのは最も深い思想的根底に立つて此の行詰まれる世界文明の救済をやらなければならぬ使命を有つて居る(「政治哲学より観たる現代日本」昭和八年)
真実の日本精神の実現を求めて
十一年、安岡は「日本の心の歴史」と「東洋主義と西洋主義・日本精神の真義を論じ」る為に『日本精神通義』を出版した。その中で安岡は誤れる日本精神論者を批判した。
●今日、憂うべきことの一つの大事は、心なき人々が、妄りに日本主義、王道、皇道を振り回して、他国に驕ることであります。
一方、十二年の支那事変勃発に際し、安岡は東洋精神から逸脱する支那人に対しても次の様に呼びかけた。
●我等は支那の為に哭す。三千年の伝統と輝しき文化、而してこの義烈なる精神とを空しく眠らしめ、何時まで汝四億の民は低迷するのか。我等亜細亜の同胞須らく団結し白人の専制を脱し、更に聖賢仁義の教を振作して西欧落日の文明を救はねばならぬ。汝立ちて与に亜細亜の使命に勇躍せよ(昭和十二年七月二十八日日記)
十三年には元の名臣張養浩が著した『三事忠告』(宰相及大臣、警察官及検察官、地方長官の心得)を翻訳し『為政三部書』として出版し、わが国の東亜経営指導者の在るべき姿を示した。この本は支那大陸や台湾・朝鮮でも多大な反響を呼んだ。
更に十二月から、半年をかけて欧米視察に赴く。安岡は「書生」に戻り虚心に世界の動きをみつめた。
●私は沁々誤って先生になったような気がして、なるべく早く先生の仕事は後進の人たちに譲りまして、もう一遍書生になって他郷に放浪し勉強し、青空を流れる雲のような生活がしたいと考えておりましたが、このたび初めてそれができるわけです。(欧米外遊送別会挨拶)
十六年、大東亜戦争が始まる。安岡は、開戦後の大勝利に伴う人心の浮薄に次の様に警告を発した。
●今次、英米との開戦劈頭の戦勝に現れた国民の態度の中には、平生の涵養の乏しきを思はせるものあり、其処に学徒として大いに反省の要がある。もう少し沈着で剛毅でありたいと願はれる。英米もよくよく内部的に頽廃してゐれば格別、三箇月、四箇月経つに従つて、段々威力ある反撃を現はすかも知れぬ(昭和十七年一月『東洋思想研究』)
十九年八月小磯内閣が誕生、前年に大東亜会議を開催し東亜諸国との連携を強めていた重光葵外相兼大東亜相は、大東亜省顧問として安岡を迎えた。しかし戦勢の挽回はならず、日本国の敗色は愈々濃くなって行く。
敗戦の総括と日本復興への決意
二十年二月、安岡は伊與田覺宛に「このまま行けば日本は必ず敗戦する。しかしこれは軍と官が敗れるのであって、国民が敗れるわけではない。ゆえに神州は不滅である。その時に今後は七転び八起きの精神で、日本を復興させねばならない。」との旨を書き送った(『安岡正篤先生からの手紙』)。
八月九日の御前会議に陪席し、戦争終結のご聖断を仄聞した安岡は翌日、農士学校の生徒に訓示を行った。
●此ノ度ノ敗戦ハ主トシテ何二因ルカ(略)是レ実二内二於テハ道議ノ頽敗、外ニアツテハ科学力及政治カノ未熟ノ結果ナリ。此ノ敗戦ノ後二来ルモノハ戦争ニモ増ス苦痛ト紛乱ト屈辱トナルコト亦明瞭ナリ。小人奸人其ノ間二跋扈シ異端邪説横行シテ、国民帰趨二迷フベシ。此ノ邦家ノ辱ヲ雪イデ、天日ノ光ヲ復スベキモノ実二諸子ノ大任ナリ。諸子夫レ深潜厳毅以テ自己人物ヲ錬磨シ、鎮護国家ノ道約ヲ果スニ遺憾ナカランコトヲ期セヨ。
八月十四日、終戦の大詔起草に当り、迫水書記官長から御文章刪修の依頼を受けた安岡は、「五内為ニ裂ク」「義命ノ存スル所」「万世ノ為ニ太平ヲ開カム」等の語句の使用を勧めた。わが国の敗戦は力尽きてやむをえずして行うのではなく、世界平和を求める天皇の深き大御心に因るものとの大義名分を明らかにする為の語句の選択であった。
五月の空襲で自宅を焼失した安岡は、日本農士学校に起居し、終戦前後、毎朝の朝参(朝礼)に於て、古今先哲の言葉を紹介し短い感想を示している。それは後に『百朝集』として出版された。
敗戦に就いて安岡は、春秋左伝の「(國の)将に亡びんとするや神に聴く」を紹介して「最も神を知らざる似而非敬神者流が神を弄んで日本を敗亡に陥れた。神意の畏るべきを深省せねばならぬ。」と述べた。この『百朝集』の中で唯一、安岡自らの言葉として紹介しているのが、現在も多くの人々を導き続けている「六中観」である。
●死中・活有り。苦中・楽有り。忙中・閑有り。壷中・天有り。意中・人有り。腹中・書有り。 安岡正篤
註(一)壷中有天 世俗生活の中に在つて、それに限定されず、独自の世界即ち別天地をいふ。漢書方術伝・費長房の故事に出づ。(二)意中有人 意中の人といふと、恋人の意に慣用するが、こゝでは常に心の中に人物を持つ意。或は私淑する偉人を、或は共に隠棲出来る伴侶を、又要路に推薦しうる人材を…といふやうにあらゆる場合の人材の用意。(三)腹中有書 目にとめたとか、頭の中の滓のやうな知識ではなく、腹の中に納まつてをる哲学のことである。
私は、平生窃に此の観をなして、如何なる場合も決して絶望したり、仕事に負けたり、屈託したり、精神的空虚に陥らないやうに心がけてゐる。(『百朝集』 五八 六中観)
安岡は、日本国の大激動の時、この「観」を行う事によって不動かつ時代超越の胆識を養っていたのである。
●これから進駐軍がやってくると、戦争犯罪者を一方的に指名して逮捕投獄がつづくだろう。また、これまで指導的立場にあった人々も追放され、社会の混乱は必至とみられます。当然、日本神道の廃止も取り沙汰されるだろう。でも、もしそれでもって神道が消え去ってしまうのなら、もともと大したものではなかったということです。このようなときこそ、挙って護り抜くのが真の信仰で、わが同志は騒がず、競わず、さりとて随わず、この厳しい道を生きていかなければなりません。(『安岡正篤の世界』)
この頃安岡は「青山元不動 白雲自去来(青山元動かず、白雲自ら去来す)」を好んで揮毫したという。
米占領軍は、金鶏学院及び日本農士学校を接収、安岡を公職追放に処した。安岡は生徒達に次の様に語った。
●日本農士学校は吾人の心魂の中に厳存す。各人意を固めよ。(昭和二十一年一月十七日『安岡正篤先生年譜』)
占領軍の中にも安岡の人格に触れ敬意を抱く人物も現れて来る。安岡は政府の人脈を使い、金鶏学院は難しくとも、日本農士学校が解散させられる所以はないと、マッカーサーに直訴状を出して存続を訴えた。安岡達の至誠は占領軍を動かし、解散命令は取り消された。稀有の出来事だった。
●事をなすには正しいという確信がなければ力が出るものではない。その為には平常俯仰天地に恥じない生活をすることだ。(経過を語りて『安岡正篤先生年譜』)
二十五年九月二十四日、安岡は次の様に時局を論じている。
●日本と民族の危機は全く悚然たるものあり この度の敗戦降伏は尚未だ敗国の沙汰也 この次もしソ連に降り赤色革命成功せば終に是れ亡国にて国民は死か奴隷かとなり百年正気滅び申すべし この危局を為政者や警察などに任せてその日の生計などに逐われ 朝鮮などの乱に乗じて漁夫の利を求めて過ぐる今の日本の人士は何といふ愚昧ぞや 是非無力微力を問はず吾輩同志誠を竭すの秋 最も正気を養ひ道を興すの学を講ぜざるべからざる所以に御座候(『安岡正篤先生からの手紙』)
安岡を師と仰ぐ師友会の誕生
安岡の公職追放は二十六年十一月二十九日に解除される。
それ以前、安岡を師と慕う多くの者達から、安岡を中心とする会の結成が求められ、二十四年九月に「師友会」が誕生する。更に二十九年には全国師友協会へと発展する。
安岡は、伝教大師の「一隅を照らす、此れすなはち国宝なり」の言葉に学び、日本人一人一人が自らを磨き上げて、回りを照らし出す「一燈照隅」を師友会同志の目標に掲げた。
●全国師友協会 綱領 (昭和29年設立)
一、本会は東洋文化の歴史的伝統的精神を探究し、同時に日新の世界事情を究明し、会員各自の安心立命と共に日本の進むべき道の開明に努力する。二、本会は会員各自、一燈を点じて一隅を照すことを信念とし、総て正業に従事し、その業務を通じて、本会の精神・使命を遂行すべきことを念願する。三、本会は常に国民教化の振興に尽瘁し、祖国の危機に臨んでは、分に応じて国難の解消に献身努力することを誓願する。
●内外の状況を深思しましょう。このままで往けば、日本は自滅するほかはありません。我々はこれをどうすることも出来ないのでしょうか。我々が何もしなければ、誰がどうしてくれましょうか。我々が何とかするほか無いのです。我々は日本を易えることが出来ます。暗黒を嘆くより、一燈を点けましょう。我々はまず我々の周囲の暗を照す一燈になりましょう。手のとどく限り、至る所に燈明を供えましょう。一人一燈なれば、萬人萬燈です。日本はたちまち明るくなりましょう。これ我々の萬燈行であります。互に真剣にこの世直し行を励もうではありませんか。(萬燈行)
安岡の回りには、政界・経済界・教育界など錚々たる人々が教えを受けに集まった。吉田茂・池田勇人・佐藤栄作・大平正芳など歴代の総理も教えを受けた。特に佐藤栄作は所信表明演説など必ず安岡に添削をお願いしている。
安岡は、『政治家と実践哲学』重版序文の中で「もし現在政治家の一人でも多くが、何よりも先ず自己自身の精神革命、人間革命を行うことが出来れば、それこそ現代の暗黒に貴い光明を点ずるものである。私は常に宗教的祈願をこの点について抱いておるものである。」と述べている。安岡は自らのライフワークとして「東洋宰相学」を集大成したいと考えていた。
更に安岡は二十九年一月に師友協会の出版部ともいうべき明徳出版社を設立し、東洋哲学の古典や研究書の出版を手がけ、四十六年には全十三巻の『陽明学体系』を世に出した(同社は五十八年に王陽明全集を刊行し、平成元年からはシリーズ陽明学を出している)。
一方で安岡は、日本を立て直す為の行動にも積極的に参加した。三十年、わが国の自主独立を目指して結成された国民運動団体の新日本協議会では代表理事を務めた。明治維新百年に際して編纂された大著『明治天皇詔勅謹解』の編修委員会委員長も務め、四十八年一月に出版している。
四十九年四月に結成された「日本を守る会」では代表委員を務め、結成式の記念講演を行っている。
五十四年に制定された元号法に際しては、法案の校閲を行い、新元号を考案する四人の中の一人に選ばれ、書経に基く「平成」を提出した。他の有識者からも「正化」「修文」「文思」などが提案されたが、御世代わりに際し、アジア史学長老の山本達郎が「平成」を再提案し、決定したという(「東京新聞」平成七年十二月三十一日)。
安岡が定めた師友会の様々な「信條」には国家救済の已むに已まれぬ思いが綴られている。
「一、我々は日本現在の国民的弱点と内外の危機を直視し、その解脱救済の為に努力する。一、我々は国際共産主義者の革命的謀略と堕落した資本主義自由主義者の弊害を排除する。」(師友信條〔二〕)「祖国と同胞の為に相共に感激を以て微力を尽さう。」(素心規)「日本の危機なり。匹夫・責有るを知つて、祖国と同胞の為に尽瘁すべし。」(新秋清警)
五十年二月十三日に安岡の喜寿祝賀会が行われた。しかし、その二週間後に長年連れ添った婦美夫人が逝去した。安岡はその後の寂しさを次の漢詩に詠んでいる。
●朝起きて厨房に声あらず 夜帰って寂寞としてまた迎えるなし 梅花すでに散り柳條乱る 孤り坐して書を看短檠に対す
安岡は晩年、師友会館の建設を求める人々に「私は生きている間はそういうことはしたくない。というのは、堕落と余弊が目に見えるからである。」と語ったという(『安岡正篤 人と思想』新井正明氏が紹介)。
五十八年十二月病床に伏した安岡は林繁之に次の様に語った(『安岡正篤の世界』)。
●どうもありがとう。でもね、ぼくももう寿命らしい。どうやら今度が最後みたいだ。元木は永久に残すことはできない。元木の形態を無理して残すようなことはしてくれるなよ。それが自然というものだ。親木の花粉が飛んで、思わぬところに新芽が出る。君たちはその媒体となる心がけを忘れてはならない。陰の世話役、これが尊い。林さん、人生はたとえば王陽明の詩のようなものです。
四十余年睡夢の中 而今醒眼始めて朦朧 知らず日已に亭午を過ぐるを
起って高楼に向かって暁鐘を撞く
十二月十三日逝去、享年八十六歳。最後の言葉は「三界流転。日本は不滅」であった。
「日本のおかげで、アジアの諸国は全て独立した。日本というお母さんは、難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか」
と書き記しています。この言葉が、あの戦争が何であったか、そのすべてを表わしているでしょう。