「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

伊藤仁斎⑤「忠恕は是れ己が為にするの心を以て人の為にするなり。反求は是れ人を責むるの心を以て己を責むるなり。」

2021-01-02 16:56:37 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第三十三回(令和3年1月2日)

伊藤仁斎に学ぶ
「忠恕は是れ己が為にするの心を以て人の為にするなり。反求は是れ人を責むるの心を以て己を責むるなり。」
                                                  (『童子問』第五十七章)

 新年明けましておめでとうございます。今年も毎週一回、江戸時代の儒学者・心学者の言葉を紹介して参ります。皆さん自身の日々の心の磨きの参考にして戴ければ幸いです。

 伊藤仁斎は「学問の要」についての問いに対し、「唯己れに反求するにあり。」と答えている。反求とは、自らの身に振り返る事であり、全ての事柄を他者のせいにするのではなく、自らを省みるよすがとする事を言う。論語に「三人行けば必ず我が師有り。」という言葉がある。それは、良き行いには学び、悪い行いは見て自らを改める事が出来るからである。その様に、全てを自己生長の糧とする為には、物事を自らに引き付けて学ぶ姿勢が大切である。それを「反求」と呼ぶ。かつての「学問」は自らの人格の生長の為の学びであった。

 更に仁斎はその「反求」と「忠恕」(思いやりの心)とは全く同じ心持によって生じるのだと指摘する。「忠恕とは自分の為にする心を以て人の為にする事である。反求は、人を責める様な心で自分自身を責める事を言う。能く自分自身を振り返って反省する(反求)事の出来る人は、必ず人に思いやりのまごころを以て接する(忠恕)事が能く出来るのである。思いやりの心で人に接する(忠恕)事が出来る人は、必ず自らを省みる事が出来る(反求)人である。他者への思い遣り(忠恕)と、自分自身に引き付けて省みる(反求)事とは決して異なる事では無い。それ故、孔子や曽子はもっぱら「忠恕」を述べ、孟子はもっぱら「反求」を述べているが、その実は一つで同じことを言っているのである。」

 私の知人で何度も結婚と離婚を繰り返している女性が居る。その人の話を聞くと、もっぱら相手の悪口ばかりで、相手が悪百%の様な口ぶりである。しかし、相手を非難する事しか出来ないならば、自らの生長は無く、再び三度同じ事を繰り返すばかりの悲劇しか生み出さない。全ての物事には双方の言い分がある。それを真摯に受け止めて、自らを変える事が出来るか否かが、その人の人間力を決する。

 二十年程前にパラオに行った時、ナカムラクニオ元大統領が「戦前の日本人は強くて優しかった」という話をされた事を思い出す。人間の真の強さは絶え間ない「自省」による自己の磨きによって創られて行く。正に「反求」の功である。そして優しさとは、相手を思いやる心の深さ、広さによって生じる。戦前の教育を受けた人々は、論語の中の箴言を心に刻んでいた人が多い。里仁篇の「夫子の道は忠恕のみ」との曽子の言葉を多くの人が心に刻んで、自らの生き方の模範としていた。反求する力が忠恕を生み出し、忠恕の心が絶え間ない反求力を生み出すとの仁斎の指摘は、旧来の日本人が備えていた「強く優しい」心が如何にして養われていたかを教えてくれている。


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