グァム島で玉砕
宇野 光方(うの てるかた)S14卒
「夜間攻撃を敢行し壮烈な戦死の機関銃中隊長」
宇野光方は熊本市本山町出身。済々黌卒業後、陸軍士官学校(55期)に進んだ。昭和16年7月、卒業と同時に満州孫呉の第一師団歩兵第57聯隊に赴任し東満州の警備についた。
その後南方戦線の激烈化に伴い19年2月末、同聯隊三大隊機関銃中隊長のまま所属大隊と共に、第六派遣隊に編入され、3月20日大宮島(グァム島)に上陸した。6月12日、大隊は同島に於て独立歩兵第10聯隊に改編され、第29師団長の指揮下に入り、グァム島南東海岸(稲田地区〔現イナラハン〕)の防御を担当したが、米軍の侵攻が予想された7月中旬には師団予備として島の中央部折田付近(米軍上陸予想の明石湾南方)に集結を命じられた。
7月21日、早朝から艦砲射撃及び数百機の艦載機の地上攻撃に掩護され米海兵第三師団は、同島中央西岸明石湾地区(現ハガニア湾アサン海岸)に強行上陸、我が第一線部隊と激烈な戦闘を繰り返した。米軍に対し、第48旅団の第一大隊は大隊長自ら手榴弾を手にして白兵戦を展開、工兵隊も、隊長自ら爆薬を抱いて戦車に体当たり攻撃をかけ、下士官は戦車に取り付いて、ハッチから手榴弾を投げ込もうとするなど、隊員全員が激しい肉弾攻撃を行い文字通り全滅している。わが軍の激しい抵抗に第三海兵師団は苦戦を強いられ、初日だけで死傷者を1047名出している。又、LVT(水陸両用戦車)50両が破壊されている。米第三海兵師団は、海岸線のわが軍の抵抗を排除しながら内陸部に進んだが、砂浜からわずか200m離れた、パラソル台、砲台山、チョニト断崖、日向台、駿河台といった多くの洞窟が存在する標高200m程度の小高い山地地帯で進撃が停止した。わが軍はここに無数の後方縦深陣地を構築し、米軍を待ち構えていた。わが軍の正確な射撃によって米兵はまともな反撃が出来ずに斃れ、一時撤退するに至った。米軍は縦深陣地攻略に手間取り、わが軍の地の利を得た頑強な抵抗により一進一退の攻防が続いた。わが軍は縦深陣地より出撃し、海兵隊に激しい夜襲を繰り返した。
この間、上陸地点から直線で約8キロの折田地区に集結していた宇野中尉の所属する第三大隊は、爾後の攻撃の為マンガン山への転進を命じられたが、砲爆撃の為前進は遅滞、20時頃に米軍上陸地点より約三キロの本田台東側斜面に到着した。命により22日午前2時頃からパラソル台西側方面に夜間攻撃を敢行、率先陣頭にあった宇野中隊長は壮烈な戦死を遂げた。
この様に、21日から22日にかけて第48旅団の2個大隊と宇野の所属する独立混成第10連隊の2個大隊が米軍橋頭堡に対し夜襲をしかけ、一部は米軍陣地を突破したが、米軍の強力な火力の前に死傷者が続出し、橋頭堡撃滅には至らないまま壊滅状態に陥った。この教訓は後の島嶼防衛に生かされる事となった。
その後も各地でわが軍の戦いは続行し、8月11日に最後の総攻撃を敢行して組織的な戦闘は終結した。しかしその後も密林に潜む約7500名の日本兵によるゲリラ戦が続き、最後の日本兵が降伏したのは終戦後の20年9月4日だった。捕虜となった人数は1250名であり、この間多くの日本兵が戦死や自決、病気や飢餓で亡くなっている。
サイパンやテニアン、グァム島等のマリアナ諸島は日本にとって正に「太平洋の防波堤」であり、これらの島々が米軍の手に陥った後、これらの島々の飛行場からB29等の爆撃機が出発して、本土空襲の無差別攻撃が可能となったのである。原爆搭載機もテニアン島から出発している。それ故、グァム島やサイパン島などの守備隊は「我、太平洋の防波堤たらん」と、故郷の平和を守る為に必死の戦いを敢行したのだった。
宇野が、東満から南方戦線への転進途中に鉛筆書きで認めた簡潔な遺書が唯一の遺品として遺されている。
【遺書】
南方の決戦に参与することを得ました 男子の本懐之に過ぐるものはありません
祖母上様 御両親様 兄上様のご健康を祈り上げます
晁子 敬子 中子(妹達の名前)達も元気で勉強なさい
光方
皆々様
宇野 光方(うの てるかた)S14卒
「夜間攻撃を敢行し壮烈な戦死の機関銃中隊長」
宇野光方は熊本市本山町出身。済々黌卒業後、陸軍士官学校(55期)に進んだ。昭和16年7月、卒業と同時に満州孫呉の第一師団歩兵第57聯隊に赴任し東満州の警備についた。
その後南方戦線の激烈化に伴い19年2月末、同聯隊三大隊機関銃中隊長のまま所属大隊と共に、第六派遣隊に編入され、3月20日大宮島(グァム島)に上陸した。6月12日、大隊は同島に於て独立歩兵第10聯隊に改編され、第29師団長の指揮下に入り、グァム島南東海岸(稲田地区〔現イナラハン〕)の防御を担当したが、米軍の侵攻が予想された7月中旬には師団予備として島の中央部折田付近(米軍上陸予想の明石湾南方)に集結を命じられた。
7月21日、早朝から艦砲射撃及び数百機の艦載機の地上攻撃に掩護され米海兵第三師団は、同島中央西岸明石湾地区(現ハガニア湾アサン海岸)に強行上陸、我が第一線部隊と激烈な戦闘を繰り返した。米軍に対し、第48旅団の第一大隊は大隊長自ら手榴弾を手にして白兵戦を展開、工兵隊も、隊長自ら爆薬を抱いて戦車に体当たり攻撃をかけ、下士官は戦車に取り付いて、ハッチから手榴弾を投げ込もうとするなど、隊員全員が激しい肉弾攻撃を行い文字通り全滅している。わが軍の激しい抵抗に第三海兵師団は苦戦を強いられ、初日だけで死傷者を1047名出している。又、LVT(水陸両用戦車)50両が破壊されている。米第三海兵師団は、海岸線のわが軍の抵抗を排除しながら内陸部に進んだが、砂浜からわずか200m離れた、パラソル台、砲台山、チョニト断崖、日向台、駿河台といった多くの洞窟が存在する標高200m程度の小高い山地地帯で進撃が停止した。わが軍はここに無数の後方縦深陣地を構築し、米軍を待ち構えていた。わが軍の正確な射撃によって米兵はまともな反撃が出来ずに斃れ、一時撤退するに至った。米軍は縦深陣地攻略に手間取り、わが軍の地の利を得た頑強な抵抗により一進一退の攻防が続いた。わが軍は縦深陣地より出撃し、海兵隊に激しい夜襲を繰り返した。
この間、上陸地点から直線で約8キロの折田地区に集結していた宇野中尉の所属する第三大隊は、爾後の攻撃の為マンガン山への転進を命じられたが、砲爆撃の為前進は遅滞、20時頃に米軍上陸地点より約三キロの本田台東側斜面に到着した。命により22日午前2時頃からパラソル台西側方面に夜間攻撃を敢行、率先陣頭にあった宇野中隊長は壮烈な戦死を遂げた。
この様に、21日から22日にかけて第48旅団の2個大隊と宇野の所属する独立混成第10連隊の2個大隊が米軍橋頭堡に対し夜襲をしかけ、一部は米軍陣地を突破したが、米軍の強力な火力の前に死傷者が続出し、橋頭堡撃滅には至らないまま壊滅状態に陥った。この教訓は後の島嶼防衛に生かされる事となった。
その後も各地でわが軍の戦いは続行し、8月11日に最後の総攻撃を敢行して組織的な戦闘は終結した。しかしその後も密林に潜む約7500名の日本兵によるゲリラ戦が続き、最後の日本兵が降伏したのは終戦後の20年9月4日だった。捕虜となった人数は1250名であり、この間多くの日本兵が戦死や自決、病気や飢餓で亡くなっている。
サイパンやテニアン、グァム島等のマリアナ諸島は日本にとって正に「太平洋の防波堤」であり、これらの島々が米軍の手に陥った後、これらの島々の飛行場からB29等の爆撃機が出発して、本土空襲の無差別攻撃が可能となったのである。原爆搭載機もテニアン島から出発している。それ故、グァム島やサイパン島などの守備隊は「我、太平洋の防波堤たらん」と、故郷の平和を守る為に必死の戦いを敢行したのだった。
宇野が、東満から南方戦線への転進途中に鉛筆書きで認めた簡潔な遺書が唯一の遺品として遺されている。
【遺書】
南方の決戦に参与することを得ました 男子の本懐之に過ぐるものはありません
祖母上様 御両親様 兄上様のご健康を祈り上げます
晁子 敬子 中子(妹達の名前)達も元気で勉強なさい
光方
皆々様
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