「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

済々黌先輩英霊列伝⑥堀内豊秋「海軍体操の創始者・海軍落下傘部隊隊長としてメナドで住民に慕われるも、オランダによる復讐裁判で処刑される」

2020-11-10 10:07:50 | 続『永遠の武士道』済々黌英霊篇
海軍空挺部隊指揮官
堀内 豊秋(ほりうち とよあき)T8卒
「海軍体操の創始者・海軍落下傘部隊隊長としてメナドで住民に慕われるも、オランダによる復讐裁判で処刑される」
  
   
 堀内豊秋は、明治33年に飽託郡川上村(現在・熊本市北区四方寄町)に生まれる。済々黌を経て海軍兵学校(50期)に進む。海兵同期の寺崎隆治は堀内の人となりを「済々黌出身らしい国士的武人になることをこころがけ、こせこせせず、人をおしのけて成績をあげようというような考えの全くない、立身栄達を目標としない生徒。古武士、紳士として貢献したいという精神で、礼儀正しく、正義感旺盛。外国人と交遊し、会話を交わすのが大好きな積極的な性格」と評している。堀内はクラスメートから「ヤギ」又は「ガンジー」という愛称で親しまれていた。身体は頑健では無く、病室への出入りを繰り返していたという。それ故、体力を根本的に養うにはどんな訓練が必要かを真剣に考え生涯の課題とした。大正11年に卒業。14年に海軍航空隊飛行学生となるも、プロペラで大けがをして航空界を去り、各種の艦を乗り継ぎ、昭和5年に兵学校の教官兼監事となる。担当は砲術科陸戦及び体操。翌年、デンマーク体操チームの演技を見学して体操研究を開始する。9年には海軍砲術学校教官兼分隊長になり、その間デンマーク体操を自ら日本人向けに改良した堀内式体操を考案する。この堀内体操が元となって昭和19年に海軍体操が改正される様になる。

 昭和14年、厦門方面特別根拠地隊付となり、陸戦隊司令(少佐)となる。堀内は現地語を直ぐにマスターし、気さくに住民の間に入って話しかけてた。二年間軍政に携わり、現地住民の信望を一身に集めた。堀内部隊交代の報が伝わると住民はこぞって同部隊の駐留継続嘆願書を現地の最高司令官に提出した。15年、同部隊が厦門を去るに当たり、住民は「去思碑」と銘した記念碑を建立して堀内の徳を偲んだ。その後再び海軍兵学校の教官となり、後進の指導と海軍体操の改革に尽力する。
      
 大東亜戦争開戦三か月前、落下傘部隊編成の命が下り、堀内中佐は横須賀鎮守府第一特別陸戦隊司令を命じられた。隊員は千五百名である。体操で鍛えた弾力性、柔軟性のある体が落下傘部隊には是非必要との事で選ばれた人事だった。時に四十一歳だった。堀内は「日本一、軍規厳正なる部隊をつくる」と宣言して厳しい訓練の先頭に立った。大東亜戦争開戦と共に、台湾の嘉義、フィリッピンのダバオへと前進し、翌年一月のインドネシア・セレベス島メナド攻略に於て十一日、堀内を先頭に落下傘部隊が高度150mから落下し、上陸の陸戦隊と共に作戦を展開して成功を収め、オランダ軍を降伏せしめた。インドネシアのミナハサ地方には「わが民族が危機に瀕するとき、空から白馬の天使が舞い降りて助けにきてくれる」との伝説があった。堀内が敷いた軍政では、住民が申し出た税を4分の1に減額したり住民に製塩法を指導したり、学校と教会を拡充支援したりした。軍規の厳正と信義に篤い堀内の人柄もあって、住民は堀内を神様の様に慕った。三か月後、堀内達がメナドを離れる時には、住民達が長い列を作って別れを惜しんだ。

 内地に帰還した堀内は今回の武勲により天皇陛下への単独拝謁が許される異例の名誉に浴している。19年5月に海軍大佐に進み、この間、重巡洋艦「高雄」の副長などに任じられ、20年3月には三度目の兵学校教官に命じられ、7月には呉鎮守府第十一特別陸戦隊司令を任じられ、終戦を迎えた。

 22年1月、広島県大竹市で復員業務に当っていた堀内にB級戦争犯罪容疑での出頭が命じられ巣鴨プリズンに収監された。オランダは現地住民への見せしめの為に、侵攻時の堀内司令を生贄に指名したのである。メナドでのオランダ軍事法廷では、部下の過失の責任を理由に起訴され、現地弁護人の必死の反証にも拘らず死刑となり、23年9月25日に処刑された。享年45歳だった。オランダ軍は堀内大佐の態度の立派さに感じ、処刑後儀仗兵を立て、自国軍の指揮官に対すると同等の礼を以て柩を送った。堀内の遺骨はメナド市カラビアンのテーリン墓地に葬られたが、昭和40年に熊本市に帰還した。テーリン墓地では、平成7年(1995)のインドネシア独立50周年を記念して慰霊碑「霊魂」が建立され、現地の人々が今でも堀内大佐の遺徳を偲んでいる。

【遺書】
九月二十三日突然執行の通知を受け、二十五日午前八時に執行される事となった。在世中は真に幸福な生活だった。執行の日迄刑務所内でも多くのインドネシア人の尊敬を受け、何物かを残した。
一誠(長男・済々黌S26卒)よ、その他の子供達よ、父は国家の犠牲となって散るのだ。桜花よりも清く少しの不安もない。兄妹力を併せ、母上に孝養を尽くしてくれ。人を頼ってはならない。あくまで清く正しい生活をなせ。死に臨んで少しの不安もないのは、小生の過去の清らかな生活がさせるものと信ずる。
不幸な妻よ。子供よ。父はなくとも決して自暴自棄することなかれ。部下の散った「メナド」で、白菊の花の如く美しい態度で散るのだ(落下傘の名を清めて)。年寄った母上様、どうか先立つ因縁をお許し下さい。兄上様、くれぐれも後に残った家族の行く末をお願い申し上げます。
千鶴殿(妹)永い間お世話になった。可寿殿(妻)、一生の内助、感謝しつつ逝く。親戚の皆様御機嫌よう。人は自分を信じ努力を続ければ偉くなれる。自分の死は見守る人もいないが、立派なものであると信じていただきたい。もう二人の日本人将校が残って居ますが、之も遠からず執行されるでしょう。世に思い残すことは少しもありません。
堀内豊秋
 堀内家御一同様
二伸 之は通知を受けた日、オランダ将校に頼んで書いた。オランダ将校も自分の態度にすっかり感心した様子だった。故に之を送ってくれるのだ。その一事を以ても、自分が日本人将校として恥ずかしくなかったことを想像していただきたい。
 神ぞ知る罪なき罪に果つるとも生き残るらむ大和魂
 白菊の香(かおり)を残し死出の旅つはものの後我は追ふなり


※尚、堀内の生家は熊本市北区四方寄の国道3号線沿いに「御馬下の角小屋」として今も保存され、堀内大佐に関する展示も行われている。


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