竹島は如何に奪われ不当支配されたのか
昭和26年9月 8日 サンフランシスコ講和条約でマッカーサーライン撤廃
韓国政府はマッカーサーライン維持を要望するもアメリカ政府は受け入れず。竹島は日本領として認知される
27年1月18日 韓国国務院告示第十四号「大韓民国隣接海洋の主権に関する大統領宣言(平和ライン宣言)」即ち「李承晩ライン」を設定
1月28日 日本政府 抗議声明
2月 日韓国交正常化交渉本会議開始
4月28日 日米平和条約発効(竹島は朝鮮領に帰属する地域から外れ、日本領に)
5月16日 島根県 竹島での海驢漁業を知事の許可事業に
5月20日 島根県が外務大臣及び農林大臣に、竹島の爆撃演習地からの除外を陳情
7月13日 日本「海上保安庁巡視区域(ABCライン)」を設定
7月26日 日米合同委員会 竹島を占領中と同様に米軍の演習区域に指定
9月27日 クラークライン(国連軍総司令官)
28年1月12日 李大統領「李ライン」内に出漁した日本漁船拿捕を指示
2月 4日 第一大邦丸が拿捕され、漁労長が射殺される
2月27日 韓国政府独島(竹島)の領有権に関する声明を発表
3月19日 日米合同委員会で竹島を演習地から除外する事で合意
4月20日 韓国の「独島義勇守備隊(韓国人漁夫)」竹島上陸 → 3年8か月間滞在と主張
5月23日 日本政府 漁船保護対策に関する閣議決定
朝鮮半島周辺海域に常時巡視船2隻を配置
5月28日 日本海上保安庁竹島へ。韓国人漁夫を発見 → 領土権の侵害と韓国政府に抗議・韓国側も領土権を主張
6月11日 日本海上保安庁 竹島へ
6月17日 海上保安庁「竹島周辺海域の密航密漁取り締り強化」を決定
6月27日 巡視船2隻で第一次竹島取締りを実施、竹島に上陸して設標、韓国人6人に退去勧告・海上保安庁と島根県共同調査「島根県穏地郡五箇村竹島」標識
7月 韓国国会、独島(竹島)に「独島警備隊」を派遣する事を決議
7月12日 竹島警備をしていた韓国民間人による「独島義勇守備隊」が海上保安庁の船に発砲
9月 8日 韓国「李ライン」からの日本漁船の退去を命じ、日本漁船の拿捕を強行し始める
9月 9日 「くさかき」根本孝彦氏韓国警備船に乗り込んで直談判・韓国側の暴挙を詰問するも、効果なし。
★昭和40年までに拿捕された日本漁船 326隻(未帰還185隻・沈没3隻)抑留された日本漁船員 3904人(死者8名) 内44人死傷
10月 日韓会談決裂
10月23日 日本海上保安庁 竹島へ
11月27日 日本「韓国周辺及び東支那海方面公海におけるだ捕事件対策強化措置要綱」を閣議決定。両海域に常時6~7隻の巡視船を哨戒
12月 韓国 海洋警察隊を設立し、李ラインの警備強化を図り、警備範囲を順次拡大、12月30日以降、慶尚北道鬱陵郡警察署の管轄に
29年 1月18日 韓国の沿岸警備隊が竹島に領土標識設置
2月10日 日本外務省覚書を送り、竹島は日本固有の領土である事を伝える
現状確認の為に巡視艇を派遣し、韓国政府が設置した標識を取り除いて、竹島が日本領である事を示す標識を立てた
2月20日 巡視船「さど」が韓国警備艇から銃撃を受け拿捕され、済州邑まで連行される
★巡視船に対する連行・臨検事件3回、銃撃事件15回
3月 1日 日本海上保安庁、第7管区海上保安本部に「だ捕事件対策本部」を設置
6月11日 韓国が竹島に駐留する沿岸警備隊を派遣、不法占拠始まる
8月10日 韓国政府が無人灯台を建設、点燈
*この年、日本巡視船が韓国官憲から銃砲撃される事件が2回発生
8月23日 巡視船「おき」が銃撃される
8月30日 日本政府抗議
★「海上保安庁では、29年8月巡視船「おき」被銃撃事件のあと、関係省庁と協議した結果、実力による対抗手段は避けて、外交々渉により平和的解決を図ると
いう基本方針のもとに、42年以降は外務省からの公式依頼に基づき竹島の現状についての資料収集を目的とした調査を実施している。」
(『海上保安庁30年史』(昭和54年刊)
*住本氏の話、当時、海上保安庁は実力奪還を準備したが、政治家が対応をストップ
9月 2日 韓国が竹島の武力占拠を決定し、海岸警備隊を竹島に常駐させる・竹島を図案化した切手発行
9月25日 日本政府は国際司法裁判所への付託を提案するが韓国が拒否
★2回目が37年、3回目が今年となる(まる五十年放置)
11月30日 近づいた日本の警備艇に砲撃が加えられる
【日韓国交正常化交渉】
第一次会談(26年10月20日~27年4月21日)第二次会談(28年4月15日~7月23日)第三次会談(28年10月6日~21日)第四次会談(33年4月15日~35年4月19日)第五次会談(35年10月25日~36年5月15日)第六次会談(36年8月30日~39年11月5日)第七次会談(39年12月3日~40年6月22日「日韓基本条約」締結)
【竹島密約(40年1月13日)】
「竹島・独島問題は、解決せざるをもって、解決したとみなす。したがって、条約では触れない。(イ)両国とも自国の領土であると主張することを認め、同時にそれに反論することに異論はない。(ロ)しかし、将来、漁業区域を設定する場合、双方とも竹島を自国領として線引きし、重なった部分は共同水域とする。(ハ)韓国は現状を維持し、警備員の増強や施設の新設、増設を行わない。(ニ)この合意は以後も引き継いでいく。」(河野一郎大臣・丁一権総理 佐藤首相・朴大統領)
★この密約に従って、毎年、年末には日本から領有権主張の口上書が送られ、韓国は反論。
1952年から1976年までの24年間で合計78回(日本側42件、韓国側36件)
★この密約は朴正煕・全斗煥・盧泰愚等の軍事政権までは守られるが、1993年(平成5年)に誕生した金泳三政権からは受け継がれず、存在自体も忘却。
【竹島の更なる韓国実効支配の強化】
1965~ 崔鐘徳が家を造って暮らし始める
1987 崔鐘徳の婿の趙俊紀一家4人と宋在郁が居住
1991 金成道・金信烈が住民登録
1989 「青き独島手入れの集い」毎年木を植えに行く。1996・4月で1500本程育つ
1991 12月 鬱陵島との間に電話ケーブル設置(韓国政府)
1995 12月 埠頭建設開始
★翌年2月9日、日本・池田外相抗議するも金大統領は反発
1997 11月6日 接岸施設竣工・有人灯台建設開始
●「東北アジア歴史財団」による国家総ぐるみでの歴史攻勢
独島(竹島)・東海(日本海)・従軍慰安婦(戦場売春婦)・歴史教科書攻撃・靖国神社攻撃
1992 「東海」呼称を開始 「独島が『日本海』にあると日本領内にあるようで適切でない」
2005 3月16日 竹島問題に持続的に対処する国家機関設置
4月「東アジアの平和のための正しい歴史定立企画団」
2006 9月「東北アジア歴史財団」
★韓国政府は100億ウォンを出して世界のNGOを毎年集めて会議
日本からは教科書ネット21(田原義文)神奈川や沖縄からも招待
新しい歴史教科書に対する反対運動
昭和26年9月 8日 サンフランシスコ講和条約でマッカーサーライン撤廃
韓国政府はマッカーサーライン維持を要望するもアメリカ政府は受け入れず。竹島は日本領として認知される
27年1月18日 韓国国務院告示第十四号「大韓民国隣接海洋の主権に関する大統領宣言(平和ライン宣言)」即ち「李承晩ライン」を設定
1月28日 日本政府 抗議声明
2月 日韓国交正常化交渉本会議開始
4月28日 日米平和条約発効(竹島は朝鮮領に帰属する地域から外れ、日本領に)
5月16日 島根県 竹島での海驢漁業を知事の許可事業に
5月20日 島根県が外務大臣及び農林大臣に、竹島の爆撃演習地からの除外を陳情
7月13日 日本「海上保安庁巡視区域(ABCライン)」を設定
7月26日 日米合同委員会 竹島を占領中と同様に米軍の演習区域に指定
9月27日 クラークライン(国連軍総司令官)
28年1月12日 李大統領「李ライン」内に出漁した日本漁船拿捕を指示
2月 4日 第一大邦丸が拿捕され、漁労長が射殺される
2月27日 韓国政府独島(竹島)の領有権に関する声明を発表
3月19日 日米合同委員会で竹島を演習地から除外する事で合意
4月20日 韓国の「独島義勇守備隊(韓国人漁夫)」竹島上陸 → 3年8か月間滞在と主張
5月23日 日本政府 漁船保護対策に関する閣議決定
朝鮮半島周辺海域に常時巡視船2隻を配置
5月28日 日本海上保安庁竹島へ。韓国人漁夫を発見 → 領土権の侵害と韓国政府に抗議・韓国側も領土権を主張
6月11日 日本海上保安庁 竹島へ
6月17日 海上保安庁「竹島周辺海域の密航密漁取り締り強化」を決定
6月27日 巡視船2隻で第一次竹島取締りを実施、竹島に上陸して設標、韓国人6人に退去勧告・海上保安庁と島根県共同調査「島根県穏地郡五箇村竹島」標識
7月 韓国国会、独島(竹島)に「独島警備隊」を派遣する事を決議
7月12日 竹島警備をしていた韓国民間人による「独島義勇守備隊」が海上保安庁の船に発砲
9月 8日 韓国「李ライン」からの日本漁船の退去を命じ、日本漁船の拿捕を強行し始める
9月 9日 「くさかき」根本孝彦氏韓国警備船に乗り込んで直談判・韓国側の暴挙を詰問するも、効果なし。
★昭和40年までに拿捕された日本漁船 326隻(未帰還185隻・沈没3隻)抑留された日本漁船員 3904人(死者8名) 内44人死傷
10月 日韓会談決裂
10月23日 日本海上保安庁 竹島へ
11月27日 日本「韓国周辺及び東支那海方面公海におけるだ捕事件対策強化措置要綱」を閣議決定。両海域に常時6~7隻の巡視船を哨戒
12月 韓国 海洋警察隊を設立し、李ラインの警備強化を図り、警備範囲を順次拡大、12月30日以降、慶尚北道鬱陵郡警察署の管轄に
29年 1月18日 韓国の沿岸警備隊が竹島に領土標識設置
2月10日 日本外務省覚書を送り、竹島は日本固有の領土である事を伝える
現状確認の為に巡視艇を派遣し、韓国政府が設置した標識を取り除いて、竹島が日本領である事を示す標識を立てた
2月20日 巡視船「さど」が韓国警備艇から銃撃を受け拿捕され、済州邑まで連行される
★巡視船に対する連行・臨検事件3回、銃撃事件15回
3月 1日 日本海上保安庁、第7管区海上保安本部に「だ捕事件対策本部」を設置
6月11日 韓国が竹島に駐留する沿岸警備隊を派遣、不法占拠始まる
8月10日 韓国政府が無人灯台を建設、点燈
*この年、日本巡視船が韓国官憲から銃砲撃される事件が2回発生
8月23日 巡視船「おき」が銃撃される
8月30日 日本政府抗議
★「海上保安庁では、29年8月巡視船「おき」被銃撃事件のあと、関係省庁と協議した結果、実力による対抗手段は避けて、外交々渉により平和的解決を図ると
いう基本方針のもとに、42年以降は外務省からの公式依頼に基づき竹島の現状についての資料収集を目的とした調査を実施している。」
(『海上保安庁30年史』(昭和54年刊)
*住本氏の話、当時、海上保安庁は実力奪還を準備したが、政治家が対応をストップ
9月 2日 韓国が竹島の武力占拠を決定し、海岸警備隊を竹島に常駐させる・竹島を図案化した切手発行
9月25日 日本政府は国際司法裁判所への付託を提案するが韓国が拒否
★2回目が37年、3回目が今年となる(まる五十年放置)
11月30日 近づいた日本の警備艇に砲撃が加えられる
【日韓国交正常化交渉】
第一次会談(26年10月20日~27年4月21日)第二次会談(28年4月15日~7月23日)第三次会談(28年10月6日~21日)第四次会談(33年4月15日~35年4月19日)第五次会談(35年10月25日~36年5月15日)第六次会談(36年8月30日~39年11月5日)第七次会談(39年12月3日~40年6月22日「日韓基本条約」締結)
【竹島密約(40年1月13日)】
「竹島・独島問題は、解決せざるをもって、解決したとみなす。したがって、条約では触れない。(イ)両国とも自国の領土であると主張することを認め、同時にそれに反論することに異論はない。(ロ)しかし、将来、漁業区域を設定する場合、双方とも竹島を自国領として線引きし、重なった部分は共同水域とする。(ハ)韓国は現状を維持し、警備員の増強や施設の新設、増設を行わない。(ニ)この合意は以後も引き継いでいく。」(河野一郎大臣・丁一権総理 佐藤首相・朴大統領)
★この密約に従って、毎年、年末には日本から領有権主張の口上書が送られ、韓国は反論。
1952年から1976年までの24年間で合計78回(日本側42件、韓国側36件)
★この密約は朴正煕・全斗煥・盧泰愚等の軍事政権までは守られるが、1993年(平成5年)に誕生した金泳三政権からは受け継がれず、存在自体も忘却。
【竹島の更なる韓国実効支配の強化】
1965~ 崔鐘徳が家を造って暮らし始める
1987 崔鐘徳の婿の趙俊紀一家4人と宋在郁が居住
1991 金成道・金信烈が住民登録
1989 「青き独島手入れの集い」毎年木を植えに行く。1996・4月で1500本程育つ
1991 12月 鬱陵島との間に電話ケーブル設置(韓国政府)
1995 12月 埠頭建設開始
★翌年2月9日、日本・池田外相抗議するも金大統領は反発
1997 11月6日 接岸施設竣工・有人灯台建設開始
●「東北アジア歴史財団」による国家総ぐるみでの歴史攻勢
独島(竹島)・東海(日本海)・従軍慰安婦(戦場売春婦)・歴史教科書攻撃・靖国神社攻撃
1992 「東海」呼称を開始 「独島が『日本海』にあると日本領内にあるようで適切でない」
2005 3月16日 竹島問題に持続的に対処する国家機関設置
4月「東アジアの平和のための正しい歴史定立企画団」
2006 9月「東北アジア歴史財団」
★韓国政府は100億ウォンを出して世界のNGOを毎年集めて会議
日本からは教科書ネット21(田原義文)神奈川や沖縄からも招待
新しい歴史教科書に対する反対運動
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