「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

済々黌先輩英霊列伝⑦ペリリュー島海軍指揮官大谷龍蔵「軍属の後輩に万年筆を預け遺族への伝言を託し、ペリリュー島にて生涯を終えた。」

2020-11-14 23:33:39 | 続『永遠の武士道』済々黌英霊篇
⑦ペリリュー島海軍指揮官
大谷 龍蔵(おおたに りょうぞう)T9卒
「軍属の後輩に万年筆を預け遺族への伝言を託し、ペリリュー島にて生涯を終えた。」
    

 大谷龍蔵は済々黌から海軍兵学校(51期)に進学。大正13年に海軍少尉任官。昭和5年に神通分隊長、砲術学校教官となる。11年に少佐に任官され、軍艦「名取」砲術長、人事局員となる。大東亜戦争開戦後は宮崎、比島ダバオの両海軍航空隊司令を経て、19年7月10日に編成された西カロリン海軍航空隊司令としてパラオに赴任した。同航空隊は、ペリリュー飛行場を拠点とし、パラオ諸島の航空基地の防衛を指揮した。第一航空艦隊第六十一航空戦隊の地上部隊として編成されたが、一度も航空隊の指揮を執ることはなかった。ペリリュー飛行場には海軍機一式陸上攻撃機が配備されていたが、6月~7月のサイパン防衛戦に出撃し、一機も戻って来ていなかったからである。

 日本軍は戦略的要衝であるペリリュー島に二本の滑走路を持つ大型の飛行場を構築していた。サイパンを攻略した米軍はフィリピン並びに沖縄侵攻の出撃拠点確保の意味で、次の攻略地点をペリリュー島に定めた。ペリリュー島は南北9キロ東西3キロで面積は約20㎢しかない小島である。陸軍のペリリュー島守備隊長は中川州男大佐で、熊本の玉名中学の出身だった。中川大佐は4月24日にペリリュー島に赴任、米軍の同島侵攻は9月中旬と予測して、島内の地下に洞窟陣地を縦横に構築する事を命じた。大谷大佐率いる海軍部隊は6月から同島に集結し始め南部の飛行場に布陣した。そして、陸軍と共に洞窟陣地構築に汗を流した。配備兵力は陸軍部隊が6822人、海軍部隊・軍属が3646人で合計1万468人だった。海軍部隊は航空要員や設営・建設部隊が大半で、地上戦闘員は第45警備隊ペリリュー派遣隊の712人のみであった。 

 制海・制空権を手中にした米軍は中川大佐の予想通り9月15日に南西海岸より上陸を開始した。米軍は第1海兵隊、第81歩兵の各師団を中心に兵士の総数は4万8千人を越えた。米軍は日本軍より人員で7倍、小銃は8倍、機銃は6倍、火砲3.5倍、戦車10倍あり、戦闘は3日間あるいは2日間で終わると考えていた。しかし、日本軍守備隊はこれ迄に行われた島嶼での戦闘・玉砕戦の戦訓(それぞれの守備隊は戦いの教訓を打電し、それらは各地の守備隊に共有されて行った)を基に長期持久の戦法を考案していた。
ペリリュー守備隊は
1、 徹底した総合水際防衛システム
2、 山岳洞窟砲台の破砕火力システム
3、 山岳地の洞窟網・複廓陣地システム
を構築していた。特に、ペリリュー島内の12の高地に掘られた500を超える地下陣地は難攻不落の要塞として米軍の前に立ち塞がった。制空権を奪われていた日本軍は夜襲を繰り返し、米軍は恐れおののき、「夜間斬り込みをやめれば艦砲砲撃や飛行機の重爆撃をやめます」と放送や宣伝ビラで呼び掛ける程だった。上陸後、米軍は二週間たっても中川大佐の本陣である中央台地群には迫れず、米海兵隊は多大な損害を受けて、師団長ルパータスは戦闘能力なしと判定され、後退を命じられた。戦闘の中心に立った米第一海兵師団は戦死傷者が全体の40%に当る6526人に達し、師団としての機能を失うまでに至っている。

 だが、物量の差は如何ともし難く、日本守備隊は山の中の陣地へと後退して行き、日々犠牲者が増えて行った。大谷司令の率いる海軍部隊も最初は飛行場付近で勇敢に戦闘していたが、敵の大軍に押され観測山に後退し、そこを拠点に戦いを展開した。しかし、観測山は米軍に包囲され、9月27日、海軍部隊は残存兵力で斬り込み攻撃を決行、大谷中佐は洞窟を出て、太平洋の彼方の祖国を遥拝し拳銃で自決した。享年42歳だった。

 大谷はその二日前に海軍軍属の坂梨實(済々黌T6卒の先輩)を呼び、27日に最後の攻撃を実行する事を伝える報告書を、ペリリュー島北東約50キロにあるコロール島の海軍司令部に届ける様に託した。軍属は元々非戦闘員なので戦線離脱には当たらないと説得した。最後に、万年筆を取り出し、私ごとで恐縮だがと告げて、「もし、貴君が生きて故郷に帰る日があれば、私の家族に渡してもらいたい」と頼み、「これからはペンの力も必要だと、子供達に伝えて欲しい」と付け加えた。坂梨は他の隊員と共にその夜の内にペリリュー島を離れ、米軍の眼を逃れながら島伝いに泳いで渡りコロール島の海軍司令部に辿り着いた。その後、パラオで終戦を迎えて21年1月に復員して熊本に戻り、大谷中佐の遺族を訪ねて「遺言」と万年筆を渡した。遺児達は片身の万年筆を心の支えに、父に続いて済々黌に学び、戦後を生き抜いた。万年筆は「ペリリュー島の戦いをもっと知ってもらいたい」との願いから陸上自衛隊北熊本駐屯地の資料館「北熊館」で展示されている。

 尚、大谷大佐戦死後もペリリュー島の戦いは続き10月を越えて11月となった。しかし、遂に11月24日、大山陣地から最後の攻撃が行われ、中川大佐は自刃して組織的な戦闘は終了する。実に81日の長きに亘って米軍の侵攻を食い止めたのである。更には、その後も洞窟に隠れてのゲリラ戦は続き、富田大隊と海軍の生存者計34名が投降したのは昭和22年4月だった。この戦いで米軍の戦死傷・不明者は7860人を数え、我が軍は1万22人が戦死、446人が捕虜となった。双方に多大な犠牲を齎したペリリュー島の戦いは第二次世界大戦に於ける最激戦の戦いとして戦史に刻まれた。そして、ペリリュー島守備隊が打電した50回を超える「戦訓」は次の硫黄島や沖縄での守備隊の戦闘の教訓となった。

 このペリリュー島の戦いでは、歩兵第2聯隊の沢田三郎陸軍大尉(S15卒)が9月16日に戦死している。


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