「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

【新連載】武士道の言葉(一) 私を「士道」に導いた四つの言葉 

2012-09-02 22:05:38 | 【連載】武士道の言葉
【新連載】武士道の言葉(一)私を「士道」に導いた四つの言葉(『祖国と青年』24年4月号)


むさしののあなたこなたに道はあれど我が行くみちはますら男のみち
    水戸藩士 蓮田藤蔵「殉難前草」(藤田徳太郎『志士詩歌集』)

 本号より、「武士道の言葉 ますらをの道を求めて」と題して、毎月四つの言葉を紹介したい。日本人のアイデンティティーが強く求められる世相の下、今日では「武士道」に関する書物も多数出版され、とても喜ばしい事だと思っている。しかし、言葉は認識するだけではなく、魂に刻みつけ、自らの生き方、日々の行動へと昇華されなければ、「道」とは言えない。私は、大学生二年生だった昭和四十九年九月二十二日に、立派な人物になろうと志を立てて、生涯独学の道を歩み始めた。その時に指針としたのが「武士道」だった。高校時代に空手部に属していた私は、済々黌高校のモットーである文武両道・質実剛健・武士道に強く魅かれていた。又、テレビで見るサムライの姿の、強く正しい生き方にあこがれを抱いていた。爾来、様々な武士道の言葉を自らの糧として生きて来た。
 冒頭紹介するのは、幕末期の水戸藩士蓮田藤蔵のものとされている短歌である。水戸藩は水戸学に基く国体論を展開し、尊皇攘夷運動の震源地であった。安政五年蓮田等は攘夷の先駆けたらんと、アメリカ使節襲撃計画を立てたが、事が発覚して捕えられ、蓮田は獄中で病死した。享年二十六歳だった。この歌はその後志士達の間でも語り継がれ、吉田松陰も深く感銘している。武蔵野の地には様々な道があるかも知れないが、自分が行くのは「ますら男(益良男・大丈夫)のみち(道)」であるとの強い自覚の歌である。人生行路には様々な誘惑があり、志を風化させんと待ち構えている。その様な時、「わが行く道」は「ますらをの道」だと断乎として言う事が出来るか、そこに人生の岐路がある。この歌は、かつて私が学生運動の責任者だった頃深い感銘を受けて、「ますらをの道」と題する小文を「反憲通信」に毎月草していた。今回、初心に戻る意味でこの歌を冒頭に紹介する。


力なき正義は無能なり、正義なき力もまた無能なり
         極真空手 大山倍達

 今回は連載の初めでもあるので、私自身の体験に基いて「武士道」参入の導きともなった言葉を紹介したいと思う。
私が高校生の頃には、漫画の「空手バカ一代」がはやり、その主人公が極真空手創始者の大山倍達氏だった。当時空手を修していた私は、時代のヒーロー大山倍達氏に憧れた。その漫画の中で大山氏が自己の信念として述べていたのが、この言葉である。今日ではこの漫画の大半が著者梶原一騎の創作であり、大山氏は在日韓国人・崔永宜で、戦後の混乱の中、朝鮮総連と民団の抗争時の戦闘隊長だったという事も解り(小島一志・塚本佳子『大山倍達正伝』)、失望も覚えているが、極真空手という実践空手を生み出し、日本の多くの少年達に空手道の魅力を伝えた功績は正当に評価すべきであろう。その大山氏はこの言葉を生涯の信條としていた。出典はパスカルの『パンセ』で、「力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である。」とある。それを大山氏は自らの座右の銘として「力なき正義は無能なり、正義なき力は暴力なり」と語って居たという(前掲書)。
 私の記憶では、「力なき正義は無能なり、正義なき力もまた無能なり」となっている。私は中学時代、身体も小さく気も弱かったので、意地悪な同級生から脅された事があった。それ故高校は、バンカラ気風の済々黌を選択し、その中でも最も怖い空手道部に入部した。毎日の稽古で死ぬ目にあったが、私をイジメた奴を殴り返す事のみを考えて、歯を食い縛って稽古に励んだ。試合では先鋒を務め、新人戦では全勝した。その内に身体も精神も強くなり、稽古終了時に唱える「五条訓」の中の「血気の勇を戒むべし」が効いたのか、復讐の念は消えて行った。
 正義と力は、武士道の永遠のテーマである。武士道では「文武両道」を唱え、文を「仁道」(他者への思いやり)、武を「義道」(正義)に配している。武士道では、特に「義」を重視した。新渡戸稲造の『武士道』も「義」を第一に紹介している。そして「義」を貫くには「勇」が必要となって来る。「義」と「勇」とが相俟って「士」の道を導く。私にとって、力と正義を初めて考えさせてくれたこの言葉は、個々人のみならず国家に於ても同様の事が当て嵌まると思う。


一、士道ニ背キ間敷事
新撰組「局中法度書」

高校時代に感動して見ていたテレビ時代劇に「燃えよ剣」があった。幕末期の新撰組副長、土方歳三を主人公とする物語で、原作は司馬遼太郎『燃えよ剣』(文藝春秋)である。私は、学生時代にこの著書を読み、そこに表現されていた土方歳三の生き方に強い影響を受けた。感動した文章を私は、当時の求道録「俺の道」に書き記して行った。その中から幾つか紹介する。「歴史というものは変転してゆく、その中で万世に易らざるものは、その時代その時代に節義を守った男の名だ。」「男の一生というものは美しさを作るためのものだ、自分の。そう信じている。」「人間、万世に照らして変わらねえものがあるはずだよ。その変わらねえ大事なものをめざして男は生きてゆくもんだ。」土方歳三は、維新激動の中、最後迄幕府に対する忠義を貫いて函館の地に散った。滅び行く旧体制への節義に殉じたのである。愚直ともいうべき武士道の姿がそこにはあった。
新撰組の中心になった近藤勇や土方歳三は、武州三多摩の田舎剣術道場に学び、時代の嵐の中で京都守護の為の浪士隊に志願した。内部分裂の後、新撰組が結成されるが、壬生浪士と揶揄された新撰組は正に烏合の衆であり、結束するためには鉄の掟が必要だった。そこで草されたのが「局中法度書」五ヶ条であった。
一、士道ニ背キ間敷事
一、局ヲ脱スルヲ不許
一、勝手ニ金策致不可
一、勝手ニ訴訟取扱不可
一、私ノ闘争ヲ不許
そして、これに背いた者には「切腹」を申し付けると記されている。浪士であったが故に、より武士らしくありたいと考え、士の道に反する行為は厳しく処断し、武士としての名誉の死を課したのである。背く間敷「士道」とは何か、当時のサムライ達には自明の事であったのだろう。不義を働く事や、卑怯な行いなど、男の誇りが決して許さない振る舞いを彼らは拒否し、誇り高く生きんと志したのである。私は、明治維新の勤王討幕派の志士達を尊敬しているが、会津や荘内そして新撰組の生き方にも心惹かれるのである。尚、後に、森田必勝氏の遺稿集の中で、森田氏の愛読書が『燃えよ剣』であった事を知り、とても嬉しくなった。


一、我事におひて後悔をせず
宮本武蔵「独行道」(『二天記』)

『燃えよ剣』の次に繙いたのが吉川英治『宮本武蔵』(全六巻)だった。この本の事は先に記した『空手バカ一代』の中で、大山倍達氏が、空手を通じて人間を完成させんと決意した契機を与えた本として紹介してあった。私は宮本武蔵を身近な存在として育っていた。武蔵は晩年を熊本で送り、代表的な著作『五輪書』は熊本の金峰山の中腹にある霊巖洞で記した。私は、小学校の頃から金峰山には幾度も登り、霊巖洞も父に連れられて幾度か訪ねていた。武蔵のお墓にもお参りした事があった。それ故、この書を直に買い求めたのだった。実際、この書は私自身に激しい求道の心を湧き起こした。書物の中に記された「吉川武蔵」の言葉は感動的なものであり、剣を通して自らを磨いていく姿に強く惹かれて行った。吉川英治氏は安岡正篤氏に学んだ人物であり、その文章には日本人の気品が漂っていた。
吉川英治氏は大作である宮本武蔵をひとつのキーワードで貫いて描写していた。それが「われ事において後悔せず」であった。この言葉は、武蔵の死後、二刀流を学んだ豊田正剛が、武蔵に直接教えを受けた人々の談話を記録し、その後三代に亘って成った「武蔵伝」ともいうべき『二天記』の中に紹介されている。武蔵は亡くなる七日前に自誓の心にて「独行道」十九条書き付けて渡した。その五条目に「我事におひて後悔せず」とある。吉川氏は「われ事において後悔せず」と読み(小林秀雄氏は「わが事において」と読むべきではないかと述べられている。)、若き武蔵(この小説で扱われるのは佐々木小次郎との巌流島の決闘・二九歳まで)が人生の随所に於いてこの言葉を自らの鏡として生きていた様に表現されている。それにしても「後悔せず」との言葉を死の直前に記す事の出来た宮本武蔵の生き方とは何と素晴らしい事であろうか。私は、「俺の道」の中で「後悔」多き日々を恥じ、一ページ丸々この言葉を書き付け、今後決して後悔しない生き方を貫こうとの決意を記し、拇印と印鑑まで押している。

次回からは、武士道シリーズの初めとして、宮本武蔵の言葉を紹介し、武蔵が求めた心の世界を探って行きたい。

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