新聯隊発足時に聯隊旗手に選ばれた秀才
友枝 二人(ともえだ つぎと)S11卒
「ニュージョージヤ島ムンダに眠る若き通信隊長」
友枝二人は、大正8年に熊本市薄場町に生まれた。昭和6年に済々黌入学の後、4学年修了を以て陸軍士官学校に進む。在学中は殊に微積分学に秀で剣術を良くし兵法の要を極めた。14年1月に陸軍少尉に任官、歩兵第18聯隊付の後、9月13日に第229聯隊が編成され、友枝はその連隊旗手の任を受けた。その後、海を渡って広東省中山県江門の警備についた。大東亜戦争の開戦に伴い、南支派遣田中隊中隊長として九龍半島から香港島に進撃してシラランザン高地を奪取して功を立てた。
17年1月には南方派遣となり、インドネシアのパレンバンに上陸し、南部スマトラの警備に就いた。半年後、ガダルカナルを巡る日米の死闘となり、友枝部隊は11月にラバウルを経由してガダルカナル島に上陸する。しかし、18年2月1日に同島撤退の命が下る。ブーゲンビル島ブインに帰着し更に南東に位置するニュージョージヤ島へと移った。ニュージョージヤ島はガダルカナル島の西北約250キロ、海軍基地ラバウルの東南約700キロに位置し、その面積は日本の佐渡島位である。この島の西南端ムンダ岬に日本海軍の飛行場が建設されており、その警備に配置された。友枝は聯隊直轄の通信隊の中隊長だった。友枝大尉の下に、有線・無線各一小隊で編成されていた。第229聯隊の一部はコロンバガラ島にも派遣されていた為、島内の聯隊本部と支隊司令部、各大隊と中隊間の有線連絡構築を担い、他の島との無線連絡を行った。戦闘に於ける通信は極めて重要であり、通信の可否が組織的戦闘の優劣を決する。
6月30日、敵は南方12キロのレンドバ島に上陸、愈々ニュージョージヤ島への反攻が開始された。通信隊はこの日急遽、北方1500mに在る馬蹄山(鈴鳴山)の聯隊本部西南側に移動し、各隊間の有線連絡に当ると共に、陣地の構築にかかった。陣地と言っても一人~四人がやっと入れる程度の穴に過ぎない。岩盤はサンゴ礁の固い石灰石で覆われていた。7月2日にはレンドバ島からの砲撃下に敵は上陸を開始した。敵は米第43歩兵師団、第37師団の二個師団を基幹に重砲兵部隊、海兵隊、海軍構築部隊であり、それを空と海から援護している。わが軍は歩兵第229聯隊の二個大隊と移動中の一個大隊と独立山砲兵第10聯隊の半個大隊、第15野戦防空司令部の野戦高射砲約一個大隊である。
通信隊は、馬蹄山の聯隊本部と清水台の第二大隊、左第一線の第三大隊間の通信連絡に全力を挙げていた。しかし、通信線は砲爆撃によって寸断され、作業は困難を極め戦死も増えて行った。7月10日以降、敵は本格的な地上攻撃を開始、7月中旬には馬蹄山の聯隊本部と左第一線の第三大隊との中間にある通称「墓場の高地」まで侵攻した。この頃、歩兵13聯隊がムンダ応援の為にニュージョージヤ島に上陸、ムンダ飛行場北方5キロまで迫っていた。
そこで、この好機を捉えて「墓場の高地」を奪還して防衛線を確保する作戦が立てられ、各中隊から兵を抽出した150名の臨時部隊が編成され、友枝大尉がその隊長に選ばれた。無線小隊も正面から突撃する事になった。突撃前に友枝隊長は胸ポケットから「恩賜のたばこ」を取り出して隊員に与え、共に一服した。7月17日夜半、攻撃部隊はなだらかな稜線の下に展開した。稜線の上にある台地の上に造られた掩体からは敵の十数個の銃眼が睨みを聞かせていた。生憎の月明かりの為、斥候の合図が遅くなり、18日未明に前進の指示を出し、洞窟を後にした。ここからは、友枝大尉の下で戦い生き残って大尉の最後を家族に伝えた伊奈万三郎氏の文章をそのまま引用しよう。
「銃眼まで距離約100米、夜襲とはいえ真昼のような月明に、敵は既に日本軍の気配を察知し、満を持しているのか、無気味な静寂が保たれている。
この時、部隊の先頭に立った友枝隊長の裂帛の号令が響き渡った。「第何第何中隊は右より、第何第何中隊は左より、通信隊は中央より、前面の敵を攻撃する!突撃に突っ込め!」この気合に満ちた号令一下、部隊は一斉に突撃を開始、白刃を振るい銃剣をかざし、喚声を挙げながら敵銃眼を目指して脇目もふらずに突っ走った。と同時に、銃眼が吾々を目掛けて一斉に火を噴出した。
私は、友枝隊長の右斜め後二米程を、大井少尉は左後三米程を、共に先頭に立って正面の銃眼に向かって真しぐらに突込んだ。この時私は、前夜の友軍の屍を何人飛び越えたことか、雨霰の様な機関銃弾が耳を掠め、友軍がバタバタ倒れる中を、あと四・五十米に迫った時である。友枝隊長の軀が一瞬宙に浮いたと思うと同時に、前のめりになってうつ伏せに倒れた。それきり右手に軍刀をグッと握り締めたまま微動だにしない。即死である。数個の銃弾が若き武人の肉体を貫き、鬼気迫る「突込め!」の号令を最後に、友枝隊長の霊魂は護国の鬼神となって昇天されたのである。隊長にとっては、おそらく武人として本懐だったのではないだろうか。」
時に25歳での惜しまれる戦死だった。
尚、この奪還作戦は失敗し、部下達は友枝隊長の遺体の収容の企ても諦めざるを得なくなる。聯隊本部にも敵が迫り、遂に7月31日に後方への撤退となるのである。又、7月中旬に援軍として上陸して来た第13聯隊には、友枝の済々黌での同期の宇治円誠陸軍少尉が居た。そして宇治少尉もムンダの地で戦い、戦死した。
友枝 二人(ともえだ つぎと)S11卒
「ニュージョージヤ島ムンダに眠る若き通信隊長」
友枝二人は、大正8年に熊本市薄場町に生まれた。昭和6年に済々黌入学の後、4学年修了を以て陸軍士官学校に進む。在学中は殊に微積分学に秀で剣術を良くし兵法の要を極めた。14年1月に陸軍少尉に任官、歩兵第18聯隊付の後、9月13日に第229聯隊が編成され、友枝はその連隊旗手の任を受けた。その後、海を渡って広東省中山県江門の警備についた。大東亜戦争の開戦に伴い、南支派遣田中隊中隊長として九龍半島から香港島に進撃してシラランザン高地を奪取して功を立てた。
17年1月には南方派遣となり、インドネシアのパレンバンに上陸し、南部スマトラの警備に就いた。半年後、ガダルカナルを巡る日米の死闘となり、友枝部隊は11月にラバウルを経由してガダルカナル島に上陸する。しかし、18年2月1日に同島撤退の命が下る。ブーゲンビル島ブインに帰着し更に南東に位置するニュージョージヤ島へと移った。ニュージョージヤ島はガダルカナル島の西北約250キロ、海軍基地ラバウルの東南約700キロに位置し、その面積は日本の佐渡島位である。この島の西南端ムンダ岬に日本海軍の飛行場が建設されており、その警備に配置された。友枝は聯隊直轄の通信隊の中隊長だった。友枝大尉の下に、有線・無線各一小隊で編成されていた。第229聯隊の一部はコロンバガラ島にも派遣されていた為、島内の聯隊本部と支隊司令部、各大隊と中隊間の有線連絡構築を担い、他の島との無線連絡を行った。戦闘に於ける通信は極めて重要であり、通信の可否が組織的戦闘の優劣を決する。
6月30日、敵は南方12キロのレンドバ島に上陸、愈々ニュージョージヤ島への反攻が開始された。通信隊はこの日急遽、北方1500mに在る馬蹄山(鈴鳴山)の聯隊本部西南側に移動し、各隊間の有線連絡に当ると共に、陣地の構築にかかった。陣地と言っても一人~四人がやっと入れる程度の穴に過ぎない。岩盤はサンゴ礁の固い石灰石で覆われていた。7月2日にはレンドバ島からの砲撃下に敵は上陸を開始した。敵は米第43歩兵師団、第37師団の二個師団を基幹に重砲兵部隊、海兵隊、海軍構築部隊であり、それを空と海から援護している。わが軍は歩兵第229聯隊の二個大隊と移動中の一個大隊と独立山砲兵第10聯隊の半個大隊、第15野戦防空司令部の野戦高射砲約一個大隊である。
通信隊は、馬蹄山の聯隊本部と清水台の第二大隊、左第一線の第三大隊間の通信連絡に全力を挙げていた。しかし、通信線は砲爆撃によって寸断され、作業は困難を極め戦死も増えて行った。7月10日以降、敵は本格的な地上攻撃を開始、7月中旬には馬蹄山の聯隊本部と左第一線の第三大隊との中間にある通称「墓場の高地」まで侵攻した。この頃、歩兵13聯隊がムンダ応援の為にニュージョージヤ島に上陸、ムンダ飛行場北方5キロまで迫っていた。
そこで、この好機を捉えて「墓場の高地」を奪還して防衛線を確保する作戦が立てられ、各中隊から兵を抽出した150名の臨時部隊が編成され、友枝大尉がその隊長に選ばれた。無線小隊も正面から突撃する事になった。突撃前に友枝隊長は胸ポケットから「恩賜のたばこ」を取り出して隊員に与え、共に一服した。7月17日夜半、攻撃部隊はなだらかな稜線の下に展開した。稜線の上にある台地の上に造られた掩体からは敵の十数個の銃眼が睨みを聞かせていた。生憎の月明かりの為、斥候の合図が遅くなり、18日未明に前進の指示を出し、洞窟を後にした。ここからは、友枝大尉の下で戦い生き残って大尉の最後を家族に伝えた伊奈万三郎氏の文章をそのまま引用しよう。
「銃眼まで距離約100米、夜襲とはいえ真昼のような月明に、敵は既に日本軍の気配を察知し、満を持しているのか、無気味な静寂が保たれている。
この時、部隊の先頭に立った友枝隊長の裂帛の号令が響き渡った。「第何第何中隊は右より、第何第何中隊は左より、通信隊は中央より、前面の敵を攻撃する!突撃に突っ込め!」この気合に満ちた号令一下、部隊は一斉に突撃を開始、白刃を振るい銃剣をかざし、喚声を挙げながら敵銃眼を目指して脇目もふらずに突っ走った。と同時に、銃眼が吾々を目掛けて一斉に火を噴出した。
私は、友枝隊長の右斜め後二米程を、大井少尉は左後三米程を、共に先頭に立って正面の銃眼に向かって真しぐらに突込んだ。この時私は、前夜の友軍の屍を何人飛び越えたことか、雨霰の様な機関銃弾が耳を掠め、友軍がバタバタ倒れる中を、あと四・五十米に迫った時である。友枝隊長の軀が一瞬宙に浮いたと思うと同時に、前のめりになってうつ伏せに倒れた。それきり右手に軍刀をグッと握り締めたまま微動だにしない。即死である。数個の銃弾が若き武人の肉体を貫き、鬼気迫る「突込め!」の号令を最後に、友枝隊長の霊魂は護国の鬼神となって昇天されたのである。隊長にとっては、おそらく武人として本懐だったのではないだろうか。」
時に25歳での惜しまれる戦死だった。
尚、この奪還作戦は失敗し、部下達は友枝隊長の遺体の収容の企ても諦めざるを得なくなる。聯隊本部にも敵が迫り、遂に7月31日に後方への撤退となるのである。又、7月中旬に援軍として上陸して来た第13聯隊には、友枝の済々黌での同期の宇治円誠陸軍少尉が居た。そして宇治少尉もムンダの地で戦い、戦死した。
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