「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

北条氏康「戦の道は衆と雖も必ず勝たず、寡と雖も必ず敗れず、唯士心の和と不和とに在るのみ」 

2020-06-16 11:20:18 | 【連載】続『永遠の武士道』
「続『永遠の武士道』」第四回(令和2年6月16日)

戦の道は衆と雖も必ず勝たず、寡と雖も必ず敗れず、唯士心の和と不和とに在るのみ 
    (『定本 名将言行録』「北条氏康」)

 後北条氏の三代目である北条氏康(うじやす)は、稀代の名将として関東に覇を唱えた。その契機となったのが、天文14年(1545)4月20日の「河越の夜軍(よいくさ)」である。駿河の今川義元は関東の両上杉(関東管領上杉憲政・上杉朝定)と結託、更に古河公方の足利晴氏とも手を結び、北条氏に打撃を与えんとした。今川軍が東駿河に侵攻を開始し、同時に両上杉軍と足利軍が、要衝の地である河越城(城主・北条綱成)を幾重にも包囲した。氏康は一端駿河に出兵するが、とって返して河越城の救援に駆け付けた。北条軍1万に対し、両上杉・足利連合軍は8万、圧倒的に不利だった。

 氏康は、打開策(謀)を考え、先ずは籠城中の綱成に謀を伝える決死の使者を送る事に成功する。その上で、足利晴氏やつての有る敵将に使者を送って籠城兵の助命を嘆願し、圧倒的な劣勢にある氏康が弱気になっている様に思わせた。更には、敵兵が来れば戦わずして小田原に退避、それを幾度も繰り返して長期戦に持ち込んだ。更には敵陣に食物・衣服等の商人や遊女を送り敵兵の油断を誘う。敵の状況はその都度間者を入れて的確に把握した。かくて敵の驕りと油断が高じ、「虚」が生じた頃、「時分は能(よ)きぞ」と兵を集めて訓示し、心を一つにして攻め入った。それに応じて河越城からも綱成が打って出た。上杉軍は驚愕し大混乱に陥って敗走し、上杉朝定は戦死した。両上杉・足利軍の死者は1万6千、北条軍の死者は百人にも満たなかった。この大勝利によって、氏康の名は関東一円に轟いた。

 その総攻撃の際に氏康が兵に述べた言葉が、「吾聞く、戦の道は衆と雖も必ず勝たず、寡と雖も必ず敗れず、唯士心の和と不和とに在るのみ、諺に曰く、小敵と雖も侮るべからず、大敵と雖も恐るべからずと云ふ、吾上杉と数度戦に及びけれども、何(い)つも我一人にて敵十人に当れり、寡を以て衆に敵すること、今日に始まりしことにあらず、勝敗の決、此一戦に在り、汝等心を一にし、力を協(あ)はせ、唯吾向ふ所を視よ」である。

氏康は十六歳の初陣より勝利する事三十六回、刀鎗の創七ヵ所、面にも刀創二ヵ所あったという。圧倒的な兵力の差を逆手に取り、謀によって敵の「虚」を誘い、一気に勝負に出た氏康。その言葉には実戦の裏付けがあり、将兵に勝利を確信させる氏康の絶大なる信念が籠められている。「唯吾向ふ所を視よ」将兵は氏康の魂と一つになって勝利を得たのである。


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