「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

上杉謙信⑤「身の見合いながら、鉄砲の先へ出し、手を負わせ候とも、うち殺させ候とも定めてその時は、この入道をならでは、うらみまじく候あいだ、一旦、追い込め申し候。」

2020-09-29 11:39:09 | 【連載】続『永遠の武士道』
続『永遠の武士道』」第十九回(令和2年9月29日)

上杉謙信に学ぶ⑤
身の見合いながら、鉄砲の先へ出し、手を負わせ候とも、うち殺させ候とも定めてその時は、この入道をならでは、うらみまじく候あいだ、一旦、追い込め申し候。       (「吉江織部・与次老母」宛書簡 「出羽吉江文庫」)

 天正元年(1573)七月、謙信は大挙して越中に侵攻し、八月には加越国境にある朝日要害を攻撃した。ところが加賀や越中の一向一揆は、紀州から運び込まれた鉄砲を多数装備して総力を挙げて抵抗し、上杉軍を散々悩ませた。

この時、上杉軍の数名の若侍が、無謀にも要害に近づき敵の鉄砲により死傷した。謙信は激怒して彼らを捕えさせて監禁した。そして謙信はその中に居た若侍の父母に対し、次の内容の手紙を送った。

「加賀の朝日要害を攻めた時に、例の中条与次達や吉江喜四郎は、自分が意見をしたにも拘らず、それを聞かずに一人で鉄砲の前を駆け歩いた。自分は身体が不自由(足を悪くしていた)な為、家臣の小島に頼んで彼らを引きずり返して今は監禁している。さぞ心配しているかと思うが、この謙信が見ていながら、敵の鉄砲の前に彼らを出して痛手を負わせたり、撃ち殺されでもさせたら、定めしその時はこの入道(謙信)を憾みに思うであろうから、一旦、監禁したのである。

よくよくの心遣いと思って欲しい。柿崎廉三は腿を裏表へ撃ち抜かれ、やっとの事で呼び戻した。又、仲間孫四郎は鉄砲に撃ち殺されてしまった。(略)この様な訳だからもし負傷でもしたら、今叱りつけるよりもその方ら夫婦は恨むであろうから、こうして制止させたが、中々私の意見を聞こうとしないので、今後は織部(父親)のそばに置くより他はないであろう。(後略)」

 猛将と言われた謙信が、無謀な若者を制止し、監禁したその理由について若者の両親宛てに、かな書きの手紙で丁寧に説明すると言う、細心の心配りを見せているのである。謙信の慎重さと思い遣りの深さ、温かい情を伺う事の出来る手紙である。


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