「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

心法の実践者 熊沢蕃山1

2010-02-16 18:51:43 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人 第五回(『祖国と青年』22年8月号掲載)

心法の実践者 熊沢蕃山1
諸士(しょし)は極(きわま)りある所を学び、愚(ぐ)は極(きわま)まりなき所を学び候(そうろう)


 熊沢蕃山(くまざわばんざん)が中江(なかえ)藤樹(とうじゅ)の下(もと)で学んだ期間は約八カ月に過ぎない。しかし、蕃山の鋭(するど)い感性(かんせい)は、藤樹が求めていた学問の全体像を学び、自らのものとして体得(たいとく)し、実学(じつがく)として、後(のち)に実際の政事(せいじ)の場で実践(じっせん)して行った。熊沢蕃山の偉業(いぎょう)については、幕(ばく)末期(まつき)にも藤田(ふじた)幽谷(ゆうこく)・東湖(とうこ)父子や橋本(はしもと)左内(さない)・高杉(たかすぎ)晋作(しんさく)・山(やま)田(だ)方(ほう)谷(こく)など多くの志士(しし)達(たち)が敬仰(けいぎょう)している。

 熊沢蕃山は元和(げんな)5年(1619)に京都で生(うま)れた。父は浪人(ろうにん)していたが、蕃山は8歳の時に、水戸(みと)藩士(はんし)であり剣の名人である外(がい)祖父(そふ)熊沢(くまざわ)守(もり)久(ひさ)の養子(ようし)として父母の元(もと)を離れた。その後、16歳の時、親戚筋(しんせきすじ)の推薦(すいせん)により岡山藩主(はんしゅ)池田(いけだ)光政(みつまさ)に仕(つか)えた。その年に祖父守久は亡くなっている。

蕃山は武勲(ぶくん)で奉公(ほうこう)しようと考え、太らないように留意(りゅうい)して寝るにも帯を解(と)かず、飲食(いんしょく)も節制(せっせい)し、武道(ぶどう)の鍛錬(たんれん)に励み、日日厳(きび)しく自らを鍛(きた)え上げていった。20歳の時に島原(しまばら)の乱(らん)が起こり、主命(しゅめい)に背(そむ)いても参陣(さんじん)せんと志(こころざ)すが果たせず、結局岡山藩を辞(じ)して、琵琶(びわ)湖(こ)東岸(とうがん)に位置する祖母(そぼ)の郷里(きょうり)・桐原(きりはら)(近江八幡市(おうみはちまんし)の南西部)に戻(もど)った。父から兵書(へいしょ)の手ほどきを受け、22歳で初めて儒教(じゅきょう)の教科書「四書集註(ししょしゅうちゅう)」を繙(ひもと)き学問に志(こころざ)した。

本物の師を求めていた蕃山はその翌年、中江藤樹(なかえとうじゅ)の下に馳(は)せて、孝(こう)経(きょう)・大学(だいがく)・中庸(ちゅうよう)について教えを受けた。郷里(きょうり)に戻った蕃山は極貧(ごくひん)の生活の中で、藤樹から学んだ学問により自らの心の本体を摑(つか)むべく「心法(しんぽう)」を錬(ね)って行く。

●拙者(せっしゃ)若(わか)き時(とき)田舎(いなか)に独学(どくがく)いたし、聖学(せいがく)を空(そら)に覚(おぼ)え、山野(さんや)歩行(ほこう)の時(とき)も心(こころ)に思(おも)い口(くち)に吟(ぎん)じ候(そうら)えば、意味(いみ)の通(つう)じがたきも、ふと道理(どうり)うかみよろこばしく候(そうら)いき(私は若い頃郷里(きょうり)の田舎(いなか)で独学(どくがく)を行い、四書(ししょ)などの聖典(せいてん)の言葉を暗記(あんき)して、山や野の道を歩く時にも心に思い口に出して唱(とな)える事を繰返(くりかえ)した。そうすると、それ迄意味が解(わか)らなかった所も、にわかにその意味がはっきりと解る様になり嬉(うれ)しくなったものだった。)

蕃山には学問を深めていく心の喜びがあったが、生活は苦しく、家族の貧窮(ひんきゅう)を見かねた方から、岡山藩への再出仕(さいしゅっし)の斡旋(あっせん)が行(おこな)われ、27歳で蕃山は帰藩(きはん)する。「心法(しんぽう)」を錬(ね)る事で学問を究(きわ)めんと志(こころざ)した蕃山は回(まわ)りに居る同僚(どうりょう)にも悟(さと)られないように「書(しょ)を見(み)ずして心法(しんぽう)をねること三年(さんねん)」に及んだ。蕃山は書物について次の様に記(しる)している。

●書(しょ)はたとへば雪中(せっちゅう)の兎(うさぎ)の足跡(あしあと)なり。兎(うさぎ)は心(こころ)なり。聖人(せいじん)の経書(けいしょ)、賢人(けんじん)の註釈(ちゅうしゃく)した伝(でん)は、皆(みな)わが心(こころ)の註(ちゅう)なり。兎(うさぎ)を得(え)て後(のち)に、足(あし)あとは用(よう)なし。心(こころ)を得(え)て後(のち)に書(しょ)は用(よう)なし。(書物(しょもつ)は例(たと)えるならば雪の中の兎の足あとの様なものである。駆(か)け抜(ぬ)けていった兎が心である。又、四書(ししょ)五経(ごきょう)などの経書(けいしょ)や賢人(けんじん)の註釈(ちゅうしゃく)した書物などは、総(すべ)て自分自身の心を明らかにする為の解説書(かいせつしょ)である。目的である兎を捕(つか)まえたなら足あとに用(よう)は無いのと同様(どうよう)、自分の心を確(しっか)りと摑(つか)んだなら書物にはもはや用は無い。)

心法(しんぽう)錬磨(れんま)の成果は当然、その人柄(ひとがら)に顕(あらわ)れて来る。蕃山(ばんざん)の人徳(じんとく)に魅(ひ)かれた武士(ぶし)達(たち)が蕃山の周(まわ)りに集(あつま)り始め、儒学(じゅがく)を学ぶ輪(わ)が広がって行く。勿論(もちろん)、藤(とう)樹(じゅ)先生(せんせい)仕込(しこみ)の陽明学(ようめいがく)である。

29歳の時に、藩主(はんしゅ)池田(いけだ)光政(みつまさ)公(こう)からも蕃山の学は認められ、藩主自(みずか)ら陽明学を学ぶようになる。更には、31歳で池田公に従って江戸に赴(おもむ)くや、蕃山の学者としての高名(こうめい)が幕閣(ばっかく)・大名(だいみょう)に迄(まで)及ぶようになる。(だが、幕府(ばくふ)の官学(かんがく)は朱子学(しゅしがく)であり、蕃山の名声(めいせい)が高まれば高まる程、大学頭(だいがくのかみ)である林家(はやしけ)などからの誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)が始まり、後(のち)に禍(わざわい)を齎(もたら)す様になる。)

 慶安(けいあん)元年(1648)に蕃山の師である中江藤樹が亡(な)くなる。長く藤樹(とうじゅ)の下(もと)で学びを受けた淵(ふち)岡山(こうざん)を始めとする門人(もんじん)達(たち)は藤樹の教えを全国に広め、その学派(がくは)は「江西(こうせい)学派(がくは)(琵琶(びわ)湖(こ)の西岸(せいがん)に藤樹(とうじゅ)書院(しょいん)があった)」と呼ばれる様になる。江西(こうせい)学派(がくは)の門人(もんじん)達(たち)はありし日の藤樹先生の教えを絶対(ぜったい)視(し)して、忠実(ちゅうじつ)に受け継(つ)ぎ自(みずか)らに体現(たいげん)しようとしていた。

一方(いっぽう)、蕃山はあくまでも藤樹先生から学んだ心法を、自らの求道(ぐどう)の中で独自(どくじ)に深(しん)化(か)させようとしていた。その様な蕃山に対して江西学派からは、藤樹先生の教えを逸脱(いつだつ)しているとの批判(ひはん)が出される様になる。それに対して答えた蕃山の言葉は、蕃山の求める学問(がくもん)観(かん)について端的(たんてき)に言い表(あらわ)している。

●諸子(しょし)は極(きわま)りある所(ところ)を学(まな)び、愚(ぐ)は極(きわま)りなき所(ところ)を学(まな)び候(そうろう)。其(その)時(とき)には大小(だいしょう)たがひなく候(そうろう)ても、今(いま)は大(おおい)にたがひ申(もうす)べく候(そうろう)。極(きわま)りたる所(ところ)は其(その)時(とき)の議論(ぎろん)講(こう)明(めい)なり。極(きわま)りなき所(ところ)は、先生(せんせい)の志(こころざし)こゝに止(と)まらず、徳業(とくぎょう)の昇(のぼ)り進(すす)むなり。日新(にっしん)の学者(がくしゃ)は、今日(きょう)は昨日(きのう)の非(ひ)を知(し)るといへり。愚(ぐ)は先生(せんせい)の志(こころざし)と、徳業(とくぎょう)とを見(み)て其(その)時(とき)の学(がく)を常(つね)とせず。其(その)時(とき)の学問(がくもん)を常(つね)とする者(もの)は先生(せんせい)の非(ひ)を認(みと)めて是(ぜ)とするなり。先生(せんせい)の志(こころざし)は本(も)としからず。(集義外書(しゅうぎがいしょ)巻二)(君達(きみたち)は先生の教えを固定的(こていてき)なものとしてとらえているが、私は先生の教えを無限(むげん)の発展性(はってんせい)・可能性(かのうせい)を持(も)つものとして受け止めている。学んだ当時(とうじ)はお互(たが)いに殆(ほと)んど相違(そうい)がなかったが、今では大きな違(ちが)いが生(しょう)じている。君達の学びが固定的(こていてき)だというのは、その時の議論(ぎろん)や意味(いみ)の究明(きゅうめい)のみにこだわっているいる事を言う。私が、無限(むげん)の発展性(はってんせい)があるというのは、その時の境地(きょうち)に止(とど)まらずに、先生ご自身(じしん)の徳(とく)と行(おこ)われる業(わざ)が日日(ひび)高まって行かれていた事を言うのであり、それこそが藤(とう)樹(じゅ)先生(せんせい)の志(こころざし)だった。日々(ひび)新(あら)たな境地(きょうち)を開拓(かいたく)していこうと志(こころざ)す学者(がくしゃ)は、今日(きょう)には昨日迄(きのうまで)の過(あやま)ちに気付(きず)くと言うではないか。私は、先生の志と、徳業(とくぎょう)だけを見て来た。その時その時の学問(がくもん)内容(ないよう)にはこだわっていない。その当時の学問(がくもん)内容(ないよう)にこだわっている者は、当時は先生が間違(まちが)っておられたかもしれない事までも真実だと強弁(きょうべん)してしまう。それは、死ぬまで真実を求め続け、境地(きょうち)を高めて行かれた先生の志(こころざし)を学ばないからそう成(な)るのだ。)
   
  「君子の特色八箇条」

 蕃山(ばんざん)は、心法(しんぽう)について、「明徳(めいとく)を養(やしな)ひて日々(ひび)に明(あきら)かにし、人(じん)欲(よく)の為(ため)に害(がい)せられざるを心法(しんぽう)といふ。」「思(おもい)無邪(よこしまなし)(思(おも)い邪(よこしま)無(な)し『論語(ろんご)』)の三(さん)字(じ)心法(しんぽう)を尽(つく)せり。」と述(の)べている。心法の実践(じっせん)により、一切(いっさい)の邪念(じゃねん)が昇華(しょうか)され、心は「明徳(めいとく)」に輝くのである。

蕃山は、心法修業(しゅぎょう)の栞(しおり)として、「小人(しょうじん)の特質(とくしつ)十一箇条(かじょう)」「君子(くんし)の特色(とくしょく)八箇条(かじょう)」を記(しる)している。紙面(しめん)の都合上(つごうじょう)、「君子の特色八箇条」のみを掲載(けいさい)し、その要点(ようてん)を記(しる)す。

①仁者(じんしゃ)の心(こころ)動(うご)きなきこと大山(たいざん)の如(ごと)し。無欲(むよく)なるが故(ゆえ)に能(よ)く静(しずか)なり。(不動(ふどう)の心(こころ)・無欲(むよく)から生(しょう)じる静(しず)かな心)

②仁者(じんしゃ)は太虚(たいきょ)を心(こころ)とす。天地(てんち)、万物(ばんぶつ)、山川(やまかわ)、河(かわ)海(うみ)みな吾(わ)が有也(ゆうなり)。春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)、幽明(ゆうめい)昼夜(ちゅうや)、風(ふう)雷(らい)、雨露(うろ)、霜雪(そうせつ)、皆(みな)我(わが)が行(こう)なり。順逆(じゅんぎゃく)は人生(じんせい)の陰陽(いんよう)なり。死生(しせい)は昼夜(ちゅうや)の道(みち)なり。何(なに)をか好(この)み、何(なに)をか悪(にく)まん。義(ぎ)と倶(とも)に従(したが)ひて安(やす)し。(天地(てんち)自然(しぜん)を心の師として、好悪(こうお)の情(じょう)無(な)く義(ぎ)に随(したが)って心(こころ)安(やす)らかに生きる)

③知者(ちしゃ)の心(こころ)、留滞(りゅうたい)なきこと流水(りゅうすい)の如(ごと)し。穴(あな)に導(みちび)き器(うつわ)につきて終(つい)に四海(しかい)に達(たっ)す。意(い)を起(おこ)し、才覚(さいかく)を好(この)まず。万事已(ばんじや)むを得(え)ずして応(おう)ず。無事(ぶじ)を行(おこな)ひて無為(むい)なり。(心にこだわりが無く、全(すべ)ての事に自然(しぜん)に無理(むり)なく対応(たいおう)出来(でき)る)

④知者(ちしゃ)は物(もの)を以(もっ)て物(もの)を見(み)る、己(おのれ)に等(ひと)しからん事(こと)を欲(ほっ)せず。故(ゆえ)に周(しゅう)して比(ひ)せず。小人(しょうじん)は我(われ)を以(もっ)て物(もの)を見(み)る。己(おのれ)に等(ひと)しからんことを欲(ほっ)す。故(ゆえ)に比(ひ)して周(しゅう)せず。(他人を自分のものさしで測(はか)らずに尊重(そんちょう)し、あまねく人々と交(まじ)わる事が出来る)

⑤君子(くんし)の意思(いし)は内(うち)に向(むか)ふ。己(おのれ)独(ひと)り知(し)る所(ところ)を慎(つつし)んで人(ひと)に知(し)られんを求(もと)めず。天地(てんち)神明(しんめい)と交(まじ)はる。其(そ)の人(ひと)柄(がら)光(こう)風(ふう)霽(せい)月(げつ)の如(ごと)し。(心は内面(ないめん)に向(むか)い、天地(てんち)神明(しんめい)と交(まじ)わり人柄(ひとがら)が高明(こうめい)快活(かいかつ))

⑥心地(しんち)虚中(きょちゅう)なれば有(ゆう)することなし。故(ゆえ)に問(と)ふことを好(この)めり。優(まさ)れるを愛(あい)し、劣(おと)れるを恵(めぐ)む。富貴(ふうき)を羨(うらや)まず、貧賤(ひんせん)を侮(あなど)らず。富貴(ふうき)は人(ひと)の役(やく)なり上(うえ)に居(お)るのみ。貧賤(ひんせん)は易簡(いかん)なり、下(した)に居(お)るのみ。富貴(ふうき)にして役(やく)せざれば乱(みだ)れ、貧賤(ひんせん)にして易簡(いかん)ならざればやぶる。貴(き)富(ふ)なるときは貴(き)富(ふ)を行(おこな)ひ、貧賤(ひんせん)なる時(とき)は貧賤(ひんせん)を行(おこな)ひ、總(すべ)て天命(てんめい)を楽(たのし)みて吾(わ)れ関(かかわ)らず。(心にこだわりが無いので、人に良く聞く事が出来(でき)る。富貴(ふうき)や貧賤(ひんせん)に執(しゅう)着(ちゃく)せず、天命(てんめい)を楽しんでいる。)

⑦志(こころざし)を持(じ)する所(ところ)は伯(はく)夷(い)を師(し)とすべし。衣(ころも)を千仭(せんじん)の岡(おか)に振(ふる)ひ、足(あし)を万里(ばんり)の流(ながれ)に濯(あら)ふが如(ごと)くなるべし。衆(しゅう)を懐(いだ)くことは柳下(りゅうか)恵(けい)を学(まな)ぶべし。天(てん)空(むなし)うして鳥(とり)の飛(と)ぶに任(まか)せ海(うみ)濶(ひろ)くして魚(さかな)の踊(おど)るに従(したが)ふが如(ごと)くなるべし。(中国(ちゅうごく)の先賢(せんけん)である伯(はく)夷(い)と柳下(りゅうか)恵(けい)に、志(こころざし)の持(も)ち方、大衆(たいしゅう)を容(い)れる度量(どりょう)を学ぶべし。)

⑧人(ひと)見(み)て善(よ)しとすれども神(かみ)のみること善(よ)からざる事(こと)をばせず。人(ひと)見(み)て悪(あ)しゝとすれども天(てん)のみること善(よ)き事(こと)をば之(これ)をなすべし。一(いち)僕(ぼく)の罪(つみ)軽(かる)きを殺(ころ)して郡(ぐん)国(こく)を得(う)ることもせず。何(なん)ぞ不義(ふぎ)に与(くみ)し、乱(らん)に従(したが)はんや。(人間を基準(きじゅん)として生きるのではなく、常に神や天を意識(いしき)して生きよ)

  心法の実践・岡山藩の「仁政」実現

 儒学(じゅがく)では、格物(かくぶつ)・致(ち)知(ち)・誠意(せいい)・正心(せいしん)の実践(じっせん)によって身を修(おさ)めた者は、家を斉(ととの)え、国を治(おさ)め、天下を平(たい)らげる事が出来るとする。心法の深化(しんか)によって円(えん)融(ゆう)無碍(むげ)の心境(しんきょう)を開拓(かいたく)した蕃山に、心法を治国(ちこく)の為に実践(じっせん)する場(ば)が与えられた。慶安(けいあん)3年(1650)岡山藩(おかやまはん)の組頭(くみがしら)として三千石(さんぜんごく)を与えられた蕃山は、藩政(はんせい)の中心に立ち、次々と藩政(はんせい)改革(かいかく)に着手(ちゃくしゅ)して行く。

蕃山は「君(きみ)を助(たす)けて仁政(じんせい)を行(おこ)なわしむるを臣(しん)の天職(てんしょく)とする。」(殿様(とのさま)を助けて仁愛(じんあい)あふれる政治を実現(じつげん)する事が臣下(しんか)たる自分の天職(てんしょく)である)「人(じん)君(くん)は民(たみ)の父母(ふぼ)なり。親(おや)の子(こ)における何(なに)をか先(さき)にする。養(よう)をかえりみるを第一(だいいち)とせずや。ゆえに仁君(じんくん)は農業(のうぎょう)の艱難(かんなん)をしれり」(殿様(とのさま)は民衆(みんしゅう)の父母である。親が子を思いどの様にして養(やしな)おうかと心を砕(くだ)く様に、仁愛(じんあい)溢(あふ)れる君主(くんしゅ)は民衆を養う為、農業の艱難(かんなん)に意(こころ)を用(もち)いる)

蕃山は「仁政(じんせい)」を実現すべく、様々な改革に着手(ちゃくしゅ)した。①士気(しき)を高め辺境(へんきょう)の防備(ぼうび)充実(じゅうじつ)の為、藩士(はんし)の地方(ちほう)土着(どちゃく)、農兵制(のうへいせい)推進(すいしん)②森林(しんりん)保護(ほご)・治山(ちさん)治水(ちすい)③川筋(かわすじ)の変更(へんこう)・築堤(ちくてい)や川床(かわどこ)の浚渫(しゅんせつ)④税法(ぜいほう)改良(かいりょう)⑤下々(しもじも)の意見が反映(はんえい)されて行く仕組(しく)みを作る⑥学問(がくもん)(儒学(じゅがく))の興隆(こうりゅう)⑦「花園(はなぞの)会(かい)約(やく)」を定(さだ)め、学校を建設(けんせつ)⑧贅沢(ぜいたく)を禁じ質実(しつじつ)剛健(ごうけん)の気風(きふう)推進。⑨賭博(とばく)など厳禁(げんきん)。⑩仏教や耶蘇(やそ)教(きょう)を厳(きび)しく監督(かんとく)。(山田(やまだ)準(じゅん)『陽明学(ようめいがく)精(せい)義(ぎ)』より)

これらの「仁政(じんせい)」は、江戸時代の藩政(はんせい)改革(かいかく)のモデルとして他藩(たはん)にも広がり、蕃山を政治(せいじ)顧問(こもん)に招(しょう)聘(へい)する藩も出て来る。蕃山は「自然(しぜん)の理法(りほう)循環(じゅんかん)」と「人間の生活(せいかつ)営為(えいい)」との調和(ちょうわ)を本(もと)とする「天人(てんじん)合一(ごういつ)」の思想に則(のっと)って様々な改革を推(お)し進めた。蕃山の治山(ちさん)治水(ちすい)観(かん)は現代にも警告(けいこく)を与える慧眼(けいがん)である。蕃山は「山林(さんりん)は国(くに)の本也(もとなり)」(大学(だいがく)或(わく)問(もん))「山林(さんりん)は天下(てんか)の源(みなもと)なり。山(やま)又(また)川(かわ)の本(もと)なり」(集(しゅう)義外書(ぎがいしょ))と述べている。その具体的(ぐたいてき)な内容(ないよう)は次回(じかい)紹介(しょうかい)する。

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