「道の学問・心の学問」第二十二回(令和2年10月16日)
熊澤蕃山に学ぶ⑦「小人」三
「小人は己あることを知て、人あることを不知」
(『集義和書』巻第四)
今回は「小人」の戒めの第8条から第11条を紹介する。
一、人の己をほむるを聞ては、実に過たる事にても悦びほこり、己をそしるを聞きては、有ことなればおどろき、なきことなればいかる。あやまちをかざり非をとげて、改むることを不知(知らず)。人みな其人がらを知、其心根の邪を知てとなふれども、己ひとりよくかくしてしられずと思へり。欲する所を必として、諫をふせぎていれず。
ついつい人間は褒められれば悦び、謗られれば腹をたててしまう。褒められても慢心せず、謗られた時に自分の未熟さを痛苦に反省出来る様になれば、「人徳」が備わって来る。人は外見では無く、その人の内面が表れた「人がら」を敏感に感じ取る。自分の我意に執着して、他人の忠告や諫めを聞かなければ人間的な成長は止まってしまう。
一、人の非をみるを以てをのれ知ありとおもへり、人々自満せざる者なし。
「自満」=「自慢」ほど、人間を駄目にするものは無い。真の「知」ある人は、他人の非ではなく、自分の至らなさを見つけ出す。それ故、決して慢心する事は無い。
一、道にたがひてほまれを求め、義にそむきて利を求め、士は媚と手だてを以て禄をえんことを思ひ、庶人は人の目をくらまして利を得也。これを不義にして富かつ貴きは浮かべる雲のごとしといへり。終に子孫を亡すにいたれども不察(察せず)。
「不義にして……」は論語の言葉である。人の道に背き、義に背き、媚びと手ずる、人を騙し欺く、目先の小利を得ても、不正な手段で得た物は脆く儚い、その虚偽は時が経てば必ず露呈する。その結果、子孫にそのつけが回って来て滅んでしまうのである。正に、不義にして得た富や地位は「浮雲」の様に空しく雲散霧消してしまうのである。
一、小人は己あることを知て、人あることを不知(知らず)。をのれに利あれば、人をそこなふ事をもかへりみず。近きは身を亡し、遠きは家を亡す。自満して才覚なりと思へる所のものこれなり。愚これより甚しきはなし。
小人は、自分の事だけしか眼中に無い。それ故自分の利益の為には平気で人を傷つける。慢心して自分は人に勝つ才覚を持っているのだと勘違いする。その才覚と思っているものは偽物なのである。偽物は必ず滅びる。それも解らない者こそが愚者なのである。
熊澤蕃山に学ぶ⑦「小人」三
「小人は己あることを知て、人あることを不知」
(『集義和書』巻第四)
今回は「小人」の戒めの第8条から第11条を紹介する。
一、人の己をほむるを聞ては、実に過たる事にても悦びほこり、己をそしるを聞きては、有ことなればおどろき、なきことなればいかる。あやまちをかざり非をとげて、改むることを不知(知らず)。人みな其人がらを知、其心根の邪を知てとなふれども、己ひとりよくかくしてしられずと思へり。欲する所を必として、諫をふせぎていれず。
ついつい人間は褒められれば悦び、謗られれば腹をたててしまう。褒められても慢心せず、謗られた時に自分の未熟さを痛苦に反省出来る様になれば、「人徳」が備わって来る。人は外見では無く、その人の内面が表れた「人がら」を敏感に感じ取る。自分の我意に執着して、他人の忠告や諫めを聞かなければ人間的な成長は止まってしまう。
一、人の非をみるを以てをのれ知ありとおもへり、人々自満せざる者なし。
「自満」=「自慢」ほど、人間を駄目にするものは無い。真の「知」ある人は、他人の非ではなく、自分の至らなさを見つけ出す。それ故、決して慢心する事は無い。
一、道にたがひてほまれを求め、義にそむきて利を求め、士は媚と手だてを以て禄をえんことを思ひ、庶人は人の目をくらまして利を得也。これを不義にして富かつ貴きは浮かべる雲のごとしといへり。終に子孫を亡すにいたれども不察(察せず)。
「不義にして……」は論語の言葉である。人の道に背き、義に背き、媚びと手ずる、人を騙し欺く、目先の小利を得ても、不正な手段で得た物は脆く儚い、その虚偽は時が経てば必ず露呈する。その結果、子孫にそのつけが回って来て滅んでしまうのである。正に、不義にして得た富や地位は「浮雲」の様に空しく雲散霧消してしまうのである。
一、小人は己あることを知て、人あることを不知(知らず)。をのれに利あれば、人をそこなふ事をもかへりみず。近きは身を亡し、遠きは家を亡す。自満して才覚なりと思へる所のものこれなり。愚これより甚しきはなし。
小人は、自分の事だけしか眼中に無い。それ故自分の利益の為には平気で人を傷つける。慢心して自分は人に勝つ才覚を持っているのだと勘違いする。その才覚と思っているものは偽物なのである。偽物は必ず滅びる。それも解らない者こそが愚者なのである。
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