済々黌英霊列伝③ 陸軍大佐・タイ俘虜収容所所長
中村鎮雄(なかむら しげお)M37卒
「戦勝国の復讐裁判によりチャンギ―にて処刑された憂国の士」
中村鎮雄は、明治18年に熊本市東子飼町で生まれ、済々黌に学んだ後、陸軍士官学校(第十九期)に進み、40年に陸軍歩兵少尉(歩兵第二十三聯隊)任官。剣道・銃剣術に優れていた中村少尉はその後陸軍戸山学校(体育専門の学校で、剣術と体操の実戦的訓練を目的とする)に二度進み、教官にもなっている。中佐の時に歩兵第四十五聯隊で満州事変に出征して負傷。昭和10年51歳で大佐に任官し待命予備役に編入された。12年に特別志願で軍務に復帰、配属将校として幾つかの学校に赴任した後、昭和18年6月20日から19年7月24日迄、タイの俘虜収容所長を務めた。
敗戦後の昭和21年1月9日、戦犯容疑で呼び出され、周りには亡命を勧める人も居たが、「正しき裁判なりせば、余は直ちに釈放か一年ばかりも入獄すれば晴天白日の身となるに引替え、亡命は終生日陰の身たり。故に亡命を思い止ま」った。一月二十一日に熊本を出発、二十六日に巣鴨に収監され、更にシンガポールのチャンギ―収容所に移送された。容疑は、「泰緬鉄道」敷設時の「俘虜虐待」の罪で、英国による裁判にかけられた。しかし、中村が所長を務めた時期は、この敷設工事が行われた昭和17年7月から18年10月の最後の4か月に過ぎず、俘虜虐待を命令した痕跡も無い。しかし、日本軍によって東南アジアから追い出されて威信と覇権を失った英国の憎悪は深く、関係ある者全てを復讐の生贄として裁判に付したのである。特にチャンギ―監獄では、服役中の英兵による服役日本人元将兵に対する残虐行為は酷く、様々な証言が残されている。
中村は無罪を確信して収監生活に耐えていたが、反証を棄却する一方的な復讐裁判に他ならず、12月3日中村は死刑判決を受けた。裁判官は両親の呵責を覚えたのか、裁判所による異例の減刑請願が行われている。しかし、判決は覆される事無く、22年3月26日に処刑された。刑執行の朝にも日課として続けて来た斎戒沐浴後国体篇・君が代及び今様を朗誦、断頭台上に於いては天皇陛下の万歳を三唱し、其の後神想観を唱えつつ従容と死出の道に旅立った。その懐中には、獄にあっても毎朝夕家族の幸せを祈り続けた家族写真を抱いていた。享年62歳だった。
中村は戦犯容疑で呼び出しを受ける前の21年元旦から処刑三日前まで日記を記していた。それらの日記は処刑直前に面会に来た熊本の後輩の矢野大佐に託されて密かに持ち出され遺族の元に届けられた。そして、平成20年2月に子息で済々黌同窓生の中村達雄の手によって『立ち上がる国祈る 中村鎮雄巣鴨チャンギ―日記』(熊日サービス開発)として出版された。
【遺稿】
「チャンギー戦犯一同の希望
一、我等は身命を捧げ、御奉公をなした。戦に勝ちてさえ居れば相当の恩賞にさえあずかる者なり。殊に余は感状を頂き居る由、さすれば金鵄勲章功三級位と思わる。敗戦なるが故に囹圄の身となりしなり。二、チャンギー入獄以来の英蘭兵による虐待は言語に絶す。殊に英兵に於て然り。或は漸く生(いき)る丈の食糧を与えたり。労働、殴打、蹴る、突く等々枚挙に遑あらず。オートラム刑務所にては毎夜なぐり込みにて各室悲鳴絶えず。之が為、腸を切断して死したるものさえありしと。戸の開く音聞ゆれば生きた心地はなかりし由なり。(略)四、裁判は既に刑を定め形式になすのみ。而して裁判に非ずじて報復行為たるなり。此の少数の人々に対し終戦後報復行為を思い切て断行するとは非人道的行為なり。五、死刑囚は彼等の不当なる報復に対しては到底甘んじ難き悲憤の情堪えざるも、死に対しては大悟徹底実に堂々たる態度を以て執行さる。平常の通り談笑しつつ詩歌を吟じ万歳を高唱して行く。(略)八、死刑囚は皆堪え難き残念さを以て日々過し居るなり。国民よ、余等の苦しみ、此堪え難き侮辱、敗戦国家の犠牲者として国家を代表して死して逝くなり。どうか之をして犬死さするな。必ず時局定まりし上は一大人道問題として提議の要ありと信ず。又死刑されし人々は戦死者として取扱うことを希望して止まざるなり。吾等は決して国家の犯人には非らざるなり。世が世なりせば殊勲者たりしものなり。
「三月二十三日 死に対しては何等のこともなし。「ガタン」の音と共に長えに天国に行くこととなるのだ。其界目はただ一瞬である。余は直に子飼(筆者註 中村大佐の実家のある熊本市の町名)へ向け飛んで行くこととする。(略)さらば、家族の人々よ。天国よりお前方の幸福を祈り、中村家の弥栄を祈ることを念じつつ、筆を措くこととする。」
【辞世(七言絶句と和歌)】
陽言正義漠如夢(陽言する正義漠として夢の如し)
悵恨無殲樟宜空(悵恨殲(つ)きる無し樟宜(チャンギー)の空)
五薀皆空帰大本(五薀皆空大本に帰す)
極天護皇土興隆(極天皇土の興隆を護らん)
敗戦のにゑと散りゆく我はまたただ立ち上がる国祈るのみ ※「にゑ」は「生贄」
中村鎮雄(なかむら しげお)M37卒
「戦勝国の復讐裁判によりチャンギ―にて処刑された憂国の士」
中村鎮雄は、明治18年に熊本市東子飼町で生まれ、済々黌に学んだ後、陸軍士官学校(第十九期)に進み、40年に陸軍歩兵少尉(歩兵第二十三聯隊)任官。剣道・銃剣術に優れていた中村少尉はその後陸軍戸山学校(体育専門の学校で、剣術と体操の実戦的訓練を目的とする)に二度進み、教官にもなっている。中佐の時に歩兵第四十五聯隊で満州事変に出征して負傷。昭和10年51歳で大佐に任官し待命予備役に編入された。12年に特別志願で軍務に復帰、配属将校として幾つかの学校に赴任した後、昭和18年6月20日から19年7月24日迄、タイの俘虜収容所長を務めた。
敗戦後の昭和21年1月9日、戦犯容疑で呼び出され、周りには亡命を勧める人も居たが、「正しき裁判なりせば、余は直ちに釈放か一年ばかりも入獄すれば晴天白日の身となるに引替え、亡命は終生日陰の身たり。故に亡命を思い止ま」った。一月二十一日に熊本を出発、二十六日に巣鴨に収監され、更にシンガポールのチャンギ―収容所に移送された。容疑は、「泰緬鉄道」敷設時の「俘虜虐待」の罪で、英国による裁判にかけられた。しかし、中村が所長を務めた時期は、この敷設工事が行われた昭和17年7月から18年10月の最後の4か月に過ぎず、俘虜虐待を命令した痕跡も無い。しかし、日本軍によって東南アジアから追い出されて威信と覇権を失った英国の憎悪は深く、関係ある者全てを復讐の生贄として裁判に付したのである。特にチャンギ―監獄では、服役中の英兵による服役日本人元将兵に対する残虐行為は酷く、様々な証言が残されている。
中村は無罪を確信して収監生活に耐えていたが、反証を棄却する一方的な復讐裁判に他ならず、12月3日中村は死刑判決を受けた。裁判官は両親の呵責を覚えたのか、裁判所による異例の減刑請願が行われている。しかし、判決は覆される事無く、22年3月26日に処刑された。刑執行の朝にも日課として続けて来た斎戒沐浴後国体篇・君が代及び今様を朗誦、断頭台上に於いては天皇陛下の万歳を三唱し、其の後神想観を唱えつつ従容と死出の道に旅立った。その懐中には、獄にあっても毎朝夕家族の幸せを祈り続けた家族写真を抱いていた。享年62歳だった。
中村は戦犯容疑で呼び出しを受ける前の21年元旦から処刑三日前まで日記を記していた。それらの日記は処刑直前に面会に来た熊本の後輩の矢野大佐に託されて密かに持ち出され遺族の元に届けられた。そして、平成20年2月に子息で済々黌同窓生の中村達雄の手によって『立ち上がる国祈る 中村鎮雄巣鴨チャンギ―日記』(熊日サービス開発)として出版された。
【遺稿】
「チャンギー戦犯一同の希望
一、我等は身命を捧げ、御奉公をなした。戦に勝ちてさえ居れば相当の恩賞にさえあずかる者なり。殊に余は感状を頂き居る由、さすれば金鵄勲章功三級位と思わる。敗戦なるが故に囹圄の身となりしなり。二、チャンギー入獄以来の英蘭兵による虐待は言語に絶す。殊に英兵に於て然り。或は漸く生(いき)る丈の食糧を与えたり。労働、殴打、蹴る、突く等々枚挙に遑あらず。オートラム刑務所にては毎夜なぐり込みにて各室悲鳴絶えず。之が為、腸を切断して死したるものさえありしと。戸の開く音聞ゆれば生きた心地はなかりし由なり。(略)四、裁判は既に刑を定め形式になすのみ。而して裁判に非ずじて報復行為たるなり。此の少数の人々に対し終戦後報復行為を思い切て断行するとは非人道的行為なり。五、死刑囚は彼等の不当なる報復に対しては到底甘んじ難き悲憤の情堪えざるも、死に対しては大悟徹底実に堂々たる態度を以て執行さる。平常の通り談笑しつつ詩歌を吟じ万歳を高唱して行く。(略)八、死刑囚は皆堪え難き残念さを以て日々過し居るなり。国民よ、余等の苦しみ、此堪え難き侮辱、敗戦国家の犠牲者として国家を代表して死して逝くなり。どうか之をして犬死さするな。必ず時局定まりし上は一大人道問題として提議の要ありと信ず。又死刑されし人々は戦死者として取扱うことを希望して止まざるなり。吾等は決して国家の犯人には非らざるなり。世が世なりせば殊勲者たりしものなり。
「三月二十三日 死に対しては何等のこともなし。「ガタン」の音と共に長えに天国に行くこととなるのだ。其界目はただ一瞬である。余は直に子飼(筆者註 中村大佐の実家のある熊本市の町名)へ向け飛んで行くこととする。(略)さらば、家族の人々よ。天国よりお前方の幸福を祈り、中村家の弥栄を祈ることを念じつつ、筆を措くこととする。」
【辞世(七言絶句と和歌)】
陽言正義漠如夢(陽言する正義漠として夢の如し)
悵恨無殲樟宜空(悵恨殲(つ)きる無し樟宜(チャンギー)の空)
五薀皆空帰大本(五薀皆空大本に帰す)
極天護皇土興隆(極天皇土の興隆を護らん)
敗戦のにゑと散りゆく我はまたただ立ち上がる国祈るのみ ※「にゑ」は「生贄」
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