「日本の誇り」復活―その戦ひと精神(六)
教育者とは―「海軍精神」と父の死
十一月二十七日、日本海海戦勝利百周年の日から丁度半年が経つたこの日、私の父が息を引き取つた。八十二年の生涯だつた。熊本師範学校から昭和十九年九月に学徒出陣、第十五期海軍飛行予備学生として土浦航空隊に入営。二十年六月に海軍少尉任官。土浦空襲の後は、福井県の三国海岸で本土決戦に備へグライダー特攻の訓練中に終戦を迎へる。敗戦を肯んぜず学生達は進駐軍に斬り込みをかけて討死せんと叫ぶが、教官の松浦勉海軍少佐(岡山県出身)は「故郷に戻り日本の再建に尽せ」と至誠を尽して諭された。学生達を送り出した後、敵軍上陸の八月二十八日、松浦少佐は学生達の無念の思ひを負つて芦原町水交社にて自刃。父はこの松浦少佐を終生尊敬してゐた。
熊本に復員した父は、城西小学校・白川中学校教諭を経て昭和二十七年から四十五年まで熊本大学附属中学校で理科を教へかつ野球部の部長として生徒を育てた。父が如何なる教師であつたかを、父の葬儀に際して参列して下さつた多くの教へ子の方々の声や、葬儀後に東京や他県在住の教へ子の方々から寄せられる手紙により改めて知り感動した。手紙には「中学に入学しましたのは50年近く前になりますが、厳しさの中にも目を細められた優しい笑顔、指導して下さったお言葉はっきり覚えております。」「いつも青年の如く若々しく厳しさの中にも明るくやさしく指導して戴き大変感謝しております。」などと感謝の言葉が記されてゐた。東京からわざわざ弔問に来られた方は、「先生はマラソンの時でも先頭を走られ、全てにおいて手本を示して下さった。」と語られた。海軍軍人の「率先垂範」の見事な実践だつた。
父は非常に家族思ひで、夏休みには必ず家族旅行に連れて行つてくれたが、生活面では厳しかつた。思想面での教へは「祝祭日には長男が朝から家の門に国旗を掲げよ」といふ事位だつた。しかし、この教へがあつたればこそ、私は大学での左翼運動に違和感を覚えたのだと思ふ。
昭和四十五年十一月二十五日、父は三島事件に際し日記に次のやうに記してゐる「実にショッキングなニュースに接する。(中略)純粋な憂国の士を見たようで実に感動した。日本人もまだ健在だ。(中略)三島氏のこの訴える気持は全日本人が本当に冷静に受けとめ反省すべきである。自国を愛するが故に自国を自力で護る、これは当然のことである。このための自衛隊も認めない憲法など早く改正し、日本人のための憲法を作成し真の日本をつくるべきである。……昭和維新の歌詞が今日ほど意味をもって感じられることはない。」と。日記には檄文の記事も貼付されてゐた。この時の父の姿は当時高校二年生の私にも印象的であり、父の後姿によつて三島事件は強く印象付けられた。
私は、大学三年生の時(昭和五十年)に日本青年協議会に連なる九州大学日本文化研究会に入会し、以後民族派の学生運動に邁進するやうになつたが、五十一年の夏に「天皇陛下御在位五十年奉祝」全国縦断キャラバン隊に隊員として参加した。キャラバン隊は八月十四日に熊本を訪れ父母も講演を聞きに来た。その日の父の日記には、椛島さんや学生の天皇陛下についての話に感動した事を記した後、「久しぶりに“日本人”としての感慨をもつ。戦後31年占領による日本弱体化政策により“日本人”の民族意識がとみに衰退している現在、若者よりこの声が上がることを心から喜ぶ。惜しむらくは、この民族の叫びをもっともっと多くの人々に聞かせたかった。教師として豈発奮せざるべけんや。」と。この日の感銘を契機に八月十七日には「教師として次代を背負う日本人教育を考え実践しなければならない」と記し、回りの若い教師に語りかけて行く姿が記されてゐる。当時父は玉東町山北小学校長を務めてゐた。
私はその後、九大や九州の学生組織の責任者を務め、五十四年には専従として上京する事を決意。その事を父に話した三月二十三日の父の日記。「(略)予期せぬことではなかったが、今の時代感覚等から大学卒業の後、運動をするよう説得しようとしても、真剣に自分の道を考えているようす。人間の一生は一回きりのものであり、本人が本当に考えて選択した道であり、同じ道の先輩・後輩に支えられてやろうということであれば、親の思惑で変更させるのもかえってエゴというもの。気持よく善郎の思う通りの道を歩かせることにする。自分が戦中予備学生を志願した時と同じであろう。ただ母親の心中は如何なものか。」この文章には教育者たる父の面目が見事に表はされてゐると思ふ。爾来、父は亡くなるまで全面的に青協の活動を支援し続けてくれた。
父は山北小校長として自分の教育の理想実現を目指すが日教組教員の非協力に会つて中途に終る。そこで最後の赴任地には僻地を選び阿蘇の山奥、黒川小学校の校長となつた。僻地に赴任して来る若い教師達を育てつつ一体となつて子供達を育みたいと言ふのが父の願ひであつた。当時父は、黒川小学校の二十代の青年教師五名の為に「青年教師心得」……〔先輩より心をこめて〕といふ文章を記してゐる。この心得は、「海軍見習士官心得」か何かを参考にしたやうである。「一、青年教師は一校風紀の根元、士気、元気の源泉たることを自覚し、青年の特徴“元気と熱”“純真さ”を忘れずに大いにやれ。」から始まる二十三か条には、父が教育者として生きた「永遠の青年教師」としての信條が具体的に記されてゐる。父の実践に裏打ちされた言葉だつた。
父の生涯を貫くものは、かつての日本人の多くが身につけていた高い倫理観であり、それこそが日本の誇りの源泉であつた。それは、父が座右の銘としてゐた「海軍ごせい五省」に端的に表はされてゐる。
一、 至誠にもと悖るなかりしか
一、 言行に恥づるなかりしか
一、 気力に欠くるなかりしか
一、 努力にうら憾みなかりしか
一、 不精にわた亘るなかりしか
終生、海軍少尉として生き、終戦六十年の年に天界に旅立つた父の志を受け継ぎ、日本を支へ導く自分であらねばと思ふ。
教育者とは―「海軍精神」と父の死
十一月二十七日、日本海海戦勝利百周年の日から丁度半年が経つたこの日、私の父が息を引き取つた。八十二年の生涯だつた。熊本師範学校から昭和十九年九月に学徒出陣、第十五期海軍飛行予備学生として土浦航空隊に入営。二十年六月に海軍少尉任官。土浦空襲の後は、福井県の三国海岸で本土決戦に備へグライダー特攻の訓練中に終戦を迎へる。敗戦を肯んぜず学生達は進駐軍に斬り込みをかけて討死せんと叫ぶが、教官の松浦勉海軍少佐(岡山県出身)は「故郷に戻り日本の再建に尽せ」と至誠を尽して諭された。学生達を送り出した後、敵軍上陸の八月二十八日、松浦少佐は学生達の無念の思ひを負つて芦原町水交社にて自刃。父はこの松浦少佐を終生尊敬してゐた。
熊本に復員した父は、城西小学校・白川中学校教諭を経て昭和二十七年から四十五年まで熊本大学附属中学校で理科を教へかつ野球部の部長として生徒を育てた。父が如何なる教師であつたかを、父の葬儀に際して参列して下さつた多くの教へ子の方々の声や、葬儀後に東京や他県在住の教へ子の方々から寄せられる手紙により改めて知り感動した。手紙には「中学に入学しましたのは50年近く前になりますが、厳しさの中にも目を細められた優しい笑顔、指導して下さったお言葉はっきり覚えております。」「いつも青年の如く若々しく厳しさの中にも明るくやさしく指導して戴き大変感謝しております。」などと感謝の言葉が記されてゐた。東京からわざわざ弔問に来られた方は、「先生はマラソンの時でも先頭を走られ、全てにおいて手本を示して下さった。」と語られた。海軍軍人の「率先垂範」の見事な実践だつた。
父は非常に家族思ひで、夏休みには必ず家族旅行に連れて行つてくれたが、生活面では厳しかつた。思想面での教へは「祝祭日には長男が朝から家の門に国旗を掲げよ」といふ事位だつた。しかし、この教へがあつたればこそ、私は大学での左翼運動に違和感を覚えたのだと思ふ。
昭和四十五年十一月二十五日、父は三島事件に際し日記に次のやうに記してゐる「実にショッキングなニュースに接する。(中略)純粋な憂国の士を見たようで実に感動した。日本人もまだ健在だ。(中略)三島氏のこの訴える気持は全日本人が本当に冷静に受けとめ反省すべきである。自国を愛するが故に自国を自力で護る、これは当然のことである。このための自衛隊も認めない憲法など早く改正し、日本人のための憲法を作成し真の日本をつくるべきである。……昭和維新の歌詞が今日ほど意味をもって感じられることはない。」と。日記には檄文の記事も貼付されてゐた。この時の父の姿は当時高校二年生の私にも印象的であり、父の後姿によつて三島事件は強く印象付けられた。
私は、大学三年生の時(昭和五十年)に日本青年協議会に連なる九州大学日本文化研究会に入会し、以後民族派の学生運動に邁進するやうになつたが、五十一年の夏に「天皇陛下御在位五十年奉祝」全国縦断キャラバン隊に隊員として参加した。キャラバン隊は八月十四日に熊本を訪れ父母も講演を聞きに来た。その日の父の日記には、椛島さんや学生の天皇陛下についての話に感動した事を記した後、「久しぶりに“日本人”としての感慨をもつ。戦後31年占領による日本弱体化政策により“日本人”の民族意識がとみに衰退している現在、若者よりこの声が上がることを心から喜ぶ。惜しむらくは、この民族の叫びをもっともっと多くの人々に聞かせたかった。教師として豈発奮せざるべけんや。」と。この日の感銘を契機に八月十七日には「教師として次代を背負う日本人教育を考え実践しなければならない」と記し、回りの若い教師に語りかけて行く姿が記されてゐる。当時父は玉東町山北小学校長を務めてゐた。
私はその後、九大や九州の学生組織の責任者を務め、五十四年には専従として上京する事を決意。その事を父に話した三月二十三日の父の日記。「(略)予期せぬことではなかったが、今の時代感覚等から大学卒業の後、運動をするよう説得しようとしても、真剣に自分の道を考えているようす。人間の一生は一回きりのものであり、本人が本当に考えて選択した道であり、同じ道の先輩・後輩に支えられてやろうということであれば、親の思惑で変更させるのもかえってエゴというもの。気持よく善郎の思う通りの道を歩かせることにする。自分が戦中予備学生を志願した時と同じであろう。ただ母親の心中は如何なものか。」この文章には教育者たる父の面目が見事に表はされてゐると思ふ。爾来、父は亡くなるまで全面的に青協の活動を支援し続けてくれた。
父は山北小校長として自分の教育の理想実現を目指すが日教組教員の非協力に会つて中途に終る。そこで最後の赴任地には僻地を選び阿蘇の山奥、黒川小学校の校長となつた。僻地に赴任して来る若い教師達を育てつつ一体となつて子供達を育みたいと言ふのが父の願ひであつた。当時父は、黒川小学校の二十代の青年教師五名の為に「青年教師心得」……〔先輩より心をこめて〕といふ文章を記してゐる。この心得は、「海軍見習士官心得」か何かを参考にしたやうである。「一、青年教師は一校風紀の根元、士気、元気の源泉たることを自覚し、青年の特徴“元気と熱”“純真さ”を忘れずに大いにやれ。」から始まる二十三か条には、父が教育者として生きた「永遠の青年教師」としての信條が具体的に記されてゐる。父の実践に裏打ちされた言葉だつた。
父の生涯を貫くものは、かつての日本人の多くが身につけていた高い倫理観であり、それこそが日本の誇りの源泉であつた。それは、父が座右の銘としてゐた「海軍ごせい五省」に端的に表はされてゐる。
一、 至誠にもと悖るなかりしか
一、 言行に恥づるなかりしか
一、 気力に欠くるなかりしか
一、 努力にうら憾みなかりしか
一、 不精にわた亘るなかりしか
終生、海軍少尉として生き、終戦六十年の年に天界に旅立つた父の志を受け継ぎ、日本を支へ導く自分であらねばと思ふ。
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