「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

「武士道の言葉」最終回 昭和殉難者(「戦犯」)と「抑留」その2

2016-05-11 11:39:19 | 【連載】武士道の言葉
「武士道の言葉」最終回 昭和殉難者(「戦犯」)と「抑留」その2 (『祖国と青年』28年3月号掲載)

戦犯受刑者の全面赦免は国民の悲願

国民の悲願である戦争犯罪による受刑者の全面赦免を見るに至らないことは、もはや国民の感情に堪えがたい (衆議院本会議「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」昭和二十八年八月三日)

 戦後の日本にとって、敵国に裁かれた「戦犯」受刑者の解放は国民的な悲願であった。占領下にあっても広田弘毅元首相の減刑嘆願署名が七万名以上集まる等、個別的な救済活動は行われていたが、昭和二十七年四月二十八日の主権回復と同時に、奔流の様な勢いで、戦犯受刑者赦免の運動が広がって行く。

先ず、口火を切ったのは日本弁護士連合会で、同年六月七日「平和条約第十一条による戦犯の赦免勧告に関する意見書」を日本政府に提出、これが契機となって戦犯釈放運動は全国で燃えあがり、約4000万人の署名(共同通信の小沢武二記者によれば、地方自治体によるもの約2000万、各種団体によるもの約2000万という)が集まった。当時の人口は8500万人位だから、成人の大半が署名した事になる。
 それを受けて政府は同年十月十一日、国内外に抑留されているすべての日本人戦犯の赦免減刑を、関係各国に要請した。

 国会でも答弁が行われ、「戦争犯罪なるものは(略)国内法におきましては、飽くまで犯罪者ではない、従いて国内法の適用におきまして、これを犯罪者と扱うということは、如何なる意味においても適当でない」(国務大臣大橋武夫氏)「戦犯者は戦争に際して国策に従って行動して国に忠誠を尽し、たまたま執行しました公務のある事項が、不幸にして敵の手によってまたは処置によって生命を奪われた方々であります」(青柳一郎代議士)「その英霊は靖国神社の中にさえも入れてもらえないというようなことを今日遺族は非常に嘆いておられます。」(社会党・堤ツルヨ代議士)と、全てが「戦犯」及びその遺族に同情的な意見だった。

国会は、昭和二十七年十二月九日と、翌年八月三日の二度に亘り、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」を、与野党を越えた圧倒的多数で可決した。日本からは「戦犯」は居なくなったのである。






モンテンルパ刑務所受刑者の救出を!

比島のキリスト教の牧師と、力を合せて宗教家としての助命減刑につくせ  (高松宮殿下の激励の御言葉『モンテンルパに祈る』より)

 東京裁判が終了したのが昭和二十三年十一月、他地域のBC級戦犯裁判も昭和二十六年迄には次々と終結した。多くの受刑者は巣鴨へと送られたが、フィリッピンのモンテンルパ刑務所には多くの日本人が取り残されていた。死刑囚が59人、無期刑囚が29人、有期刑囚20人が収監されていた。昭和二十八年七月二十七日、比国キリノ大統領は全員に特赦又は減刑を与え、日本への送還を許可した。(小林弘忠『天に問う手紙』)。

 ここに至るには長い道のりがあった。モンテンルパに収監されている同胞達を救えとの全国民的な運動が巻き起こり、それがフィリッピン政府に強い要望として届けられたのである。その国民運動の中心に居たのが、復員局で昭和二十二年からフィリッピン裁判担当の任に当っていた植木信吉と、二十四年九月一日からフィリッピン戦争裁判教誨師を委嘱され現地に派遣された岡山県の真言宗僧侶・加賀尾秀忍だった。植木は二十三年秋の検察庁への転出辞令を断って、救出運動に全力を傾注した。加賀尾も当初六カ月の委嘱だったが、自らの意志で現地に留まり最後迄解放の為に尽力している。

 植木の努力で囚人達の家族会が結成され、会誌『問天』が発行される。それが情報発信源となって国民各層に広がり、現地への慰問品や活動支援金が次々と寄せられる様になる。一方、加賀尾は現地での不自由な生活を余儀なくされながらも、日々祈りつつ様々な人々に救出の嘆願書を送り続けた。更には、加賀尾を通して囚人達の声も日本に届き『問天』で紹介された。遂にはマスコミも大々的に取り上げ、現地には国会議員も慰問に訪れ要路に働きかける様になる。囚人達の作詩・作曲の歌「あゝモンテンルパの夜は更けて」を歌手の渡辺はま子が唄い爆発的なヒットとなる。七年間の弛まぬ努力と国民の熱誠が救出を齎したのだった。

 加賀尾が著した『モンテンルパに祈る』には、現地赴任前に高松宮殿下を訪れ嘆願書の署名を戴いた際に、殿下が「安心して、瞑目せしめるだけではいかぬ。比島のキリスト教の牧師と、力を合せて宗教家としての助命減刑につくせ」と述べて激励された事が紹介されている。加賀尾はその御期待に見事答えた。高松宮殿下も吉田首相に直接嘆願書を送られる等尽力されている。







ソ連抑留十一年四ヶ月の中で刻んだ祖国再建への言霊

書く文字の一字一字を弾丸として皇国に盡す誠ささげむ (伊東六十次郎『シベリヤより祖國への書』)

 昭和二十年八月九日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満身創痍の日本に対して宣戦を布告し、満州・樺太・千島列島に怒涛の如く進撃した。スターリンは北海道分割を米国に提案したが、断られた。そこで、北方領土を軍事占領し、かつ満州等で武装解除した日本軍将兵をシベリアへ強制連行した。その数は約70万名に及び、約10万が亡くなった(長勢了治『シベリア抑留全史』)。

 昭和四年に東京帝大(西洋史専攻)を卒業して満州に渡り、自治指導部の創設に参画し、満州国建国後は大同学院教授となり協和会中央本部で復興アジア運動の思想的・基礎的研究に精魂を傾けた人物に伊東六十次郎が居る。伊東は、満州国崩壊後シベリアに抑留され、その抑留期間は十一年四ヶ月に及んだ。ソ連のスターリン主義を批判し、己が所信を曲げず、圧力に屈しなかったが為に、要注意人物としてマークされ、強制労働二十五年を科せられた。

 この間伊東は、戦友中の同憂の士と共に、祖国の再建と民族の復興を祈念して「日本敗戦の原因に対する基本考察」と「日本民族建設の具体的要綱」について討議研究して文章化した。伊東は記す。「昭和二十年八月二十四日に、桓仁警備の陣中に於て「日本民族建設の具体的要綱」の覚書の記録を中隊長から委嘱されて以来、終始、本書の記録の責任に当ったのが筆者である。然しながら捕虜生活の極めて困難な条件の下に於て、筆者に執筆の時間と場所とを与へて呉れたのが戦友であり、また筆者に捕虜生活の初期に於ては、凡そ想像以上の貴重品であつた紙、ノート、鉛筆、インク、ペン先等を提供し、机等を作つて呉れた戦友も多かつた。更に各捕虜収容所に於ては戦友は苛酷な強制労働のために疲れて居るにも拘はらず、本書の原稿を検討研究して、辞句や内容の修正をして呉れたのである。」と。正に祖国を思う同志達の総合力でこの著作は完成している。

 だが、草稿はソ連当局によって八回も没収され、九回目の草稿が、訪ソして慰問に来た参議院議員戸叶里子氏のハンドバッグの中に隠されて奇跡的に日本に届けられたのだった(『満州問題の歴史』解説)。それを元に、帰国半年後に『シベリヤより祖國への書』が出版された。正に命懸けの執筆であり、書く文字の一字一字を弾丸として祖国に誠を捧げたのである。文章を書く者として粛然と襟を正される「留魂の書」である。






 
日本人の誇りを持って逆境に立ち向かったある一等兵の信念の言葉

でも、私たちは負けない。なぜか?それはわれわれは捕虜ではなく、日本人だからだ。 (村中一等兵の言葉『現代の賢者たち』より)

 極寒の地で満足な食糧も与えられず、苛酷な労働が抑留者を苦しめた。だが、その様な中でも日本人としての誇りを失わず毅然と生き抜いた人々が居た。『現代の賢者たち』(致知出版社)に、BF六甲山麓研修所所長の志水陽洸氏の「酷寒のシベリアで私の人生は開かれた」と題する体験談が掲載されている。

志水氏等はシベリア収容所の暗黒の生き地獄の中で無気力になり、如何に監視の目を逃れてさぼるか計りを考えて日々過していた時、異質の集団と出会う。彼らはとてもひどい身なりをしていたが、真剣そのものに労働して志水氏達の数倍の仕事をこなしていた。そこで、志水氏は、彼らは敵の回し者に違いないと勘違いして抗議する。その時その集団のリーダーだったのが三五、六歳の村中一等兵だった。村中一等兵はひと通り志水氏の話を聞くと、その輝く様な鋭い目でみつめながら次の様に語った。

「あなた方は逆立ちの人生を送っている。一番大事な芯が抜けてしまっている。それでは栄養失調になったり、餓死するのも当たり前だ。私を見なさい。私の目や筋肉は、失礼だがあなた方とは違って、生き生きしていますよ。国境でソ連と戦闘して、敵を殺したためにわれわれは最悪の作業場を回されている。食事も待遇も、あなた方より悪い……でも、私たちは負けない。なぜか?それはわれわれは捕虜ではなく、日本人だからだ。どうです。あなた方も、もういい加減に捕虜を卒業したら。心までが何で捕虜にならなければいかんのです?」「現在の苦しい作業や悪条件は天が与えてくれた試練です。(略)人間が成長するために苦があるということは、これは生命の本源です。(略)私たちが負けていないのは、捕虜ではない、日本人なのだという自覚に燃えているからです。」と。

捕虜にありながら捕虜でない、誇り高き日本人の持つ信念の言葉だった。

福島茂徳『凍土に呻く シベリア抑留歌集』には、次の歌が紹介されている。毅然たる魂もたざれば死神がたちまちとりつく虜囚の生活

 私は平成十九年春に中央アジアのウズベキスタンを訪れて抑留で亡くなった方々の慰霊を行った。そこでは、日本人抑留者達が築いたナヴォイ劇場や水力発電所が今でも使われて居た。生真面目に働いた日本人抑留者の姿に現地の人々は感動し、今尚その事が語り継がれていた。

★この連載は今月号で終了いたします。ご愛読有り難うございました。尚、五月末に明成社から『永遠の武士道 語り伝えたい日本人の生き方』と題して出版される予定です。

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