「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

手島堵庵に学ぶ③「本心は義が食物でござる。義といふは心の中に微塵も恥しきことを言たり行(し)たりせぬをいひます。」

2021-10-19 10:44:59 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第七十五回(令和3年10月19日)
手島堵庵に学ぶ③
「本心は義が食物でござる。義といふは心の中に微塵も恥(はずか)しきことを言(いう)たり行(し)たりせぬをいひます。」 
      (手島堵庵『朝倉新話』)

 堵庵は言う「本心を知る事は徳に入る第一歩に過ぎない。知る事は決して難しい事では無い。知った後に、本心を養う事が重要である。涵養(ひたしやしなう)することこそ、学問に志す者のわが身が終わるまで務め励むべき大事な事である。」(「知心弁疑」)と。

 堵庵は、「本心を折角知ったのに、育て養わない者が多い。本心は義が食物であります。義と言うのは、心の中で微塵も恥ずかしい事を言ったり、行ったりしない事を言います。もし不義をしたならば本心に物を食べさせない様なものであって、大切な本心をうかうかと飢えさせて終には失ってしまいます。それだから、常に何事を言うにも行うにも、義か不義かと本心に問いかけ、決して不義をしないようにしなさい。この事は石田先生も不断に大事だと仰られていた事だ。常々つつしみ心掛けて腹の中に少しも恥ずかしいことがないようにしなされ。」と、強い言葉で「義」に生きる事を弟子達に求めている。

 この事は、『孟子』公孫丑上の「浩然の気」が出て来る箇所の「行ひて心に慊(こころよ)からざることあれば則ち餒(う)う。」(行って心にやましい事がある時には、自ずから気が飢えて浩然の気が失われてしまう。)を踏まえての訓えである。現代人は身体の栄養は考えても、心の栄養の事を考えない。だが、心が飢えてしまえば、自ずと身体も萎えてしまうのである。身心は一如だからだ。「義」とは「我」を「羊(生け贄)」にする意であり、自分を捧げる事の出来る価値の事を言う。自分を捧げて悔いが無いのは心が満足しているからである。自らの心に一点の恥も無い生き方こそ、我が国の先人達が求めた理想の生き方であった。幕末期の吉田松陰は自らを「義卿」と字(あざな)している。その系譜の中に石門心学も存する。

 堵庵は、上州の椎名半治郎に宛てた手紙の中で、「本心を修学する間には、何度も驚くほど面白く思う事があるものでございます。しかし、これで良いと思う事は甚だ悪い事であります。自分は悟ってしまったからこれで良いとの思いが心の中にある内は本当には解っていないのです。何時迄も心を正し極めて本心を見出して行く事が必要と思います。」と、本心の修業は生涯続くものであり、悟ったと思う瞬間にその悟りが崩れる事を述べている。禅に言う「証(悟り)上の修(修行)」の事である。生命は常に流転するものである以上、悟りは一瞬に過ぎないのだ。悟ったとの慢心が人間を傲慢と言う奈落の底に突き落とすのである。

それ故、「生涯一書生」と述べた先達の如く、死ぬまで「義の至当と不当」を問い続け、心に一点の曇りの無い心境を求め続けたいと思う。


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