「道の学問・心の学問」第七十四回(令和3年10月12日)
手島堵庵に学ぶ②
「此方(こち)の学問は本心を知らして其知た本心に違はぬばかりで何も煩多(ことおおい)ことはござらぬハイ。」
(手島堵庵『朝倉新話』)
手嶋堵庵は、常に「本心を知る」事を説いた。それは、石田梅岩の訓えでもあった。人間は、自らが何者であるかを知る事が最も難しい。それ故、迷って道を誤るのである。
堵庵は、本心を知る事が学問の初めであり、その本心を養う事が重要である、と教えた。「私達の学問は、本心を知らしめて、その知った本心に違わぬ様にすることだけで、外に多くの教えがある訳では無い。」と述べて、「本心を知ってからは、孝や悌が行い易くなるし、知らなければ行い難いのである。」と、親孝行や兄弟への悌の本質が本心を知る事にある事を指摘している。又、本心を知る上に於ての疑いを明らかにする事を目的として書かれた『知心弁疑』では、「大人は赤子の心を失わず」や孟子の「良知」「良能」を紹介して、「本心を知るとは他の事では無い。この無我無知の本体を知る事である。」と述べている。
その本心を晦ませるものが「思案」(晩年は「私案」を使用)であると堵庵は述べる。
「聖人の道は、思案なしの明徳を知って、此の身をその明徳にまかせるだけで、外の事は無い。人は元々思案無しで見聞きし、動く、それで十分である。思案が無い時には、我というものは無い。」「我が無ければ悪というものも存在しない。」(坐談随筆)と。
更に、『朝倉新話』では、「私案というのは、はからいの事で、何事もこちらから作為する事を言う。何事にあれ、私事は皆私案である。本心を知ろうと思って修行する内に、本心とはこの様なものだ、あの様なものだと思うのも皆私案である。そうではあっても真実に本心を知りたい知りたいと思うものである。この思う事は私案と異なって少しも滞らぬものである。例えば、思うというのは、流れる水の様なもので、常に絶えぬ事が無いし、思ったか思わなかったかさえ覚えていない様なものである。私案というのは、其の流れる水が凍った様なもので、そこに固まり滞る所で必ず心に覚えているものである。」「そこで水の凍らぬ前に凍らぬ様にする事が大切であり、本心を知らなければ、凍らぬ前に凍らない様にする事は出来ない。」と言う。
儒学には性善説や性悪説等があるが、堵庵の「本心を知れ」との考えは、孟子の「性善説」や宋明学の「人欲を去って天理を存する」や王陽明の「致良知」の考えに近い。
「私案」の無い「本心」を取り戻した時に、人間は本来の自己を実現し、世界との調和ある生を送る事が出来る。石門心学の教えは簡単な言葉で表現されているが、それを真に実現する事は中々難しい事であった。だが、江戸時代の庶民達は、梅岩や堵庵達のその訓えを素直に信じ、本心を取り戻し、本心に生きる事を日々の生活の中の目標とする「学問」に励んでいたのである。
手島堵庵に学ぶ②
「此方(こち)の学問は本心を知らして其知た本心に違はぬばかりで何も煩多(ことおおい)ことはござらぬハイ。」
(手島堵庵『朝倉新話』)
手嶋堵庵は、常に「本心を知る」事を説いた。それは、石田梅岩の訓えでもあった。人間は、自らが何者であるかを知る事が最も難しい。それ故、迷って道を誤るのである。
堵庵は、本心を知る事が学問の初めであり、その本心を養う事が重要である、と教えた。「私達の学問は、本心を知らしめて、その知った本心に違わぬ様にすることだけで、外に多くの教えがある訳では無い。」と述べて、「本心を知ってからは、孝や悌が行い易くなるし、知らなければ行い難いのである。」と、親孝行や兄弟への悌の本質が本心を知る事にある事を指摘している。又、本心を知る上に於ての疑いを明らかにする事を目的として書かれた『知心弁疑』では、「大人は赤子の心を失わず」や孟子の「良知」「良能」を紹介して、「本心を知るとは他の事では無い。この無我無知の本体を知る事である。」と述べている。
その本心を晦ませるものが「思案」(晩年は「私案」を使用)であると堵庵は述べる。
「聖人の道は、思案なしの明徳を知って、此の身をその明徳にまかせるだけで、外の事は無い。人は元々思案無しで見聞きし、動く、それで十分である。思案が無い時には、我というものは無い。」「我が無ければ悪というものも存在しない。」(坐談随筆)と。
更に、『朝倉新話』では、「私案というのは、はからいの事で、何事もこちらから作為する事を言う。何事にあれ、私事は皆私案である。本心を知ろうと思って修行する内に、本心とはこの様なものだ、あの様なものだと思うのも皆私案である。そうではあっても真実に本心を知りたい知りたいと思うものである。この思う事は私案と異なって少しも滞らぬものである。例えば、思うというのは、流れる水の様なもので、常に絶えぬ事が無いし、思ったか思わなかったかさえ覚えていない様なものである。私案というのは、其の流れる水が凍った様なもので、そこに固まり滞る所で必ず心に覚えているものである。」「そこで水の凍らぬ前に凍らぬ様にする事が大切であり、本心を知らなければ、凍らぬ前に凍らない様にする事は出来ない。」と言う。
儒学には性善説や性悪説等があるが、堵庵の「本心を知れ」との考えは、孟子の「性善説」や宋明学の「人欲を去って天理を存する」や王陽明の「致良知」の考えに近い。
「私案」の無い「本心」を取り戻した時に、人間は本来の自己を実現し、世界との調和ある生を送る事が出来る。石門心学の教えは簡単な言葉で表現されているが、それを真に実現する事は中々難しい事であった。だが、江戸時代の庶民達は、梅岩や堵庵達のその訓えを素直に信じ、本心を取り戻し、本心に生きる事を日々の生活の中の目標とする「学問」に励んでいたのである。
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