「道の学問・心の学問」第五十九回(令和3年6月29日)
貝原益軒に学ぶ⑱
「八十五年底事(なにごとぞ)成る、読書独楽是生涯」
(「益軒先生傳」終焉)
東洋哲学の泰斗である安岡正篤は『東洋的學風』の中の「貝原益軒と養生訓」と題する小文の中で、益軒は長く「損軒」と号し、七十五歳の時に「益軒」と改めた事を紹介している。「損」は易経・山澤損によるもので、克己統制の道を示し、究極自由の道=益に達すると言う。益軒は求道の生涯の末に、自由なる境地に至り、益軒と改号したのである。
更に安岡は次の様に益軒を評している。
「益軒は実に素直な、拘泥のない人で、蝦(えび)の様にいくら年をとつても、よく殻を脱いでいつた人である。」
「彼の偉いところは、倦むことなく、止まることなく、年と共に學問・思索・心境すべてに長じて往つたことであり、眞に老の至るを知らぬ概があつて、とく老いることの意義や価値、その楽しみを知つたことである。」
正徳三年(1713)12月26日、この秋から重症だった東軒夫人が亡くなった。六十二歳だった。それから益軒は健康を害し、改まった年の正月の来客も断った。二月に一度回復し外出も出来る様になるが、四月に再発し、手足が麻痺して立てなくなる。この間春に『慎思録』、夏に『大疑録』を完成させた。死の近きを悟り、七絶二首、和歌一首を賦した。
●平生心曲有誰知 平生の心曲誰か知る有らん ※「心曲」…心の奥底
常畏天威欲勿欺 常に天威を畏れ、欺くこと勿らんと欲す
存順没寧雖不克 存順没寧して克たずと雖も
朝聞夕死豈為悲 朝聞夕死、豈に悲しみと為さんや ※「朝聞夕死」朝に道を聞き夕べに死す(論語)
●幼求斯道在孤懐 幼にして斯道を求め、孤懐在り ※「孤懐」…孤独な胸中の思い
徳業無成宿志乖 徳業成る無く、宿志乖(そむ)く ※「宿志」…前々からの志
八十五年成底事 八十五年底事(なにごとぞ)成る
読書獨楽是生涯 読書獨楽是れ生涯
●越方(こしかた)は一夜(ひとよ)ばかりの心地して八十路(やそじ)あまりの夢をみしかな
正徳四年(1714)8月27日、益軒は八十五年の生涯を静かに終えた。
次回からは、石門心学の創始者である、石田梅岩(1685~1744)の言葉に学んで行きたいと思っている。
貝原益軒に学ぶ⑱
「八十五年底事(なにごとぞ)成る、読書独楽是生涯」
(「益軒先生傳」終焉)
東洋哲学の泰斗である安岡正篤は『東洋的學風』の中の「貝原益軒と養生訓」と題する小文の中で、益軒は長く「損軒」と号し、七十五歳の時に「益軒」と改めた事を紹介している。「損」は易経・山澤損によるもので、克己統制の道を示し、究極自由の道=益に達すると言う。益軒は求道の生涯の末に、自由なる境地に至り、益軒と改号したのである。
更に安岡は次の様に益軒を評している。
「益軒は実に素直な、拘泥のない人で、蝦(えび)の様にいくら年をとつても、よく殻を脱いでいつた人である。」
「彼の偉いところは、倦むことなく、止まることなく、年と共に學問・思索・心境すべてに長じて往つたことであり、眞に老の至るを知らぬ概があつて、とく老いることの意義や価値、その楽しみを知つたことである。」
正徳三年(1713)12月26日、この秋から重症だった東軒夫人が亡くなった。六十二歳だった。それから益軒は健康を害し、改まった年の正月の来客も断った。二月に一度回復し外出も出来る様になるが、四月に再発し、手足が麻痺して立てなくなる。この間春に『慎思録』、夏に『大疑録』を完成させた。死の近きを悟り、七絶二首、和歌一首を賦した。
●平生心曲有誰知 平生の心曲誰か知る有らん ※「心曲」…心の奥底
常畏天威欲勿欺 常に天威を畏れ、欺くこと勿らんと欲す
存順没寧雖不克 存順没寧して克たずと雖も
朝聞夕死豈為悲 朝聞夕死、豈に悲しみと為さんや ※「朝聞夕死」朝に道を聞き夕べに死す(論語)
●幼求斯道在孤懐 幼にして斯道を求め、孤懐在り ※「孤懐」…孤独な胸中の思い
徳業無成宿志乖 徳業成る無く、宿志乖(そむ)く ※「宿志」…前々からの志
八十五年成底事 八十五年底事(なにごとぞ)成る
読書獨楽是生涯 読書獨楽是れ生涯
●越方(こしかた)は一夜(ひとよ)ばかりの心地して八十路(やそじ)あまりの夢をみしかな
正徳四年(1714)8月27日、益軒は八十五年の生涯を静かに終えた。
次回からは、石門心学の創始者である、石田梅岩(1685~1744)の言葉に学んで行きたいと思っている。
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