今日10月16日、熊本市の南西に位置する天明地区に坐し給う新開大神宮の例大祭に、招待を受けて参列した。皇祖天照大御神をお祀りする新開大神宮は、明治九年に熊本敬神党が決起した際に「宇気比」を行ってその諾否を占った場所で有名である。いわゆる「神風連」である。敬神党の首領の大田黒伴雄が奉仕していた神社がこの新開大神宮である。三島由紀夫先生が熊本を訪れられた際に、この地を訪ねられ、その後『豊穣の海』第2巻『奔馬』を執筆され、その中で「神風連史話」を55ページに亘って記された、その中に新開大神宮の描写がある。今年は、神風連決起130年に当り、その旨も大田黒宮司の祝詞で告げられた。
実は、神風連130年を記念して有志でお金を出し合い手水舎の建替えが行われ、私も一口奉納させて戴いた事が縁で今日の招待となったのである。手水舎の横に奉納者の名前一覧が刻んである。私は、東京に住んでいた20代の頃から神風連記念会の普通会員に名を連ねてきたが、会員は決して多くはない。だが、機関紙に掲載された会員の方々の中には日本会議熊本の役員の方も居られ、その方の篤い志が伺われるのである。平成4年に熊本に戻ってきて直に、熊本『祖国と青年』の会で、神風連の墓地のある桜山神社でお祭りと学習会を行った事が思い起こされる。その時に、荒木精之『神風連実記』に掲載されていた神風連の方々の和歌を、全て書き写して「神風連歌集」を作った。神風連の方々の澄み切った心境はそのまま歌の姿に表れ、とても素晴らしい歌ばかりで感動した事を覚えている。
1時間半に及ぶ厳かな祭典が終了した後で、拝殿に上がらせて戴いた。明治9年10月24日の決起の前に、この地で宇気比が行われ、大神宮のご神意で決起は了承されたのである。10月24日は陰暦の9月8日、上弦の月の入りが合図であった。拝殿には、明治9年閏5月に奉納された絵馬が掲げてあった。絵馬には、元寇の際に元の船に討ち入る武士たちの様子が描かれていた。他にも江戸時代に細川候が奉納された刀や絵馬が飾られていた。これらの絵馬は神風連の決起を眺めて来たのである。
神風連と三島由紀夫を繋ぐものこそが「精神の戦い」であった。明治維新以来の軽薄なる文明開化に異を唱え、決して汚すべきではない大和魂のあり方を神風連は示した。三島先生は、戦後という時代に失われていく日本人の魂の所在を訴えて自決されたのである。日本人の魂の所在は如何に、そして自らの魂は如何。この秋、神風連の方々の和歌に再び静かに向き合い、自らを問い直して行きたいと思う。
実は、神風連130年を記念して有志でお金を出し合い手水舎の建替えが行われ、私も一口奉納させて戴いた事が縁で今日の招待となったのである。手水舎の横に奉納者の名前一覧が刻んである。私は、東京に住んでいた20代の頃から神風連記念会の普通会員に名を連ねてきたが、会員は決して多くはない。だが、機関紙に掲載された会員の方々の中には日本会議熊本の役員の方も居られ、その方の篤い志が伺われるのである。平成4年に熊本に戻ってきて直に、熊本『祖国と青年』の会で、神風連の墓地のある桜山神社でお祭りと学習会を行った事が思い起こされる。その時に、荒木精之『神風連実記』に掲載されていた神風連の方々の和歌を、全て書き写して「神風連歌集」を作った。神風連の方々の澄み切った心境はそのまま歌の姿に表れ、とても素晴らしい歌ばかりで感動した事を覚えている。
1時間半に及ぶ厳かな祭典が終了した後で、拝殿に上がらせて戴いた。明治9年10月24日の決起の前に、この地で宇気比が行われ、大神宮のご神意で決起は了承されたのである。10月24日は陰暦の9月8日、上弦の月の入りが合図であった。拝殿には、明治9年閏5月に奉納された絵馬が掲げてあった。絵馬には、元寇の際に元の船に討ち入る武士たちの様子が描かれていた。他にも江戸時代に細川候が奉納された刀や絵馬が飾られていた。これらの絵馬は神風連の決起を眺めて来たのである。
神風連と三島由紀夫を繋ぐものこそが「精神の戦い」であった。明治維新以来の軽薄なる文明開化に異を唱え、決して汚すべきではない大和魂のあり方を神風連は示した。三島先生は、戦後という時代に失われていく日本人の魂の所在を訴えて自決されたのである。日本人の魂の所在は如何に、そして自らの魂は如何。この秋、神風連の方々の和歌に再び静かに向き合い、自らを問い直して行きたいと思う。
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