アジアサバイバル:転換期の安保2010 尖閣沖に中国船、意図不明の航行(毎日新聞平成22年12月10日朝刊)
◇問われる「海保依存」
自衛隊の活動が憲法9条の制約を受ける日本では、海洋の事件捜査と人命救助を担う「海の警察」である海上保安庁が、海洋安全保障の事実上の主役を担わされている。政権が対中関係を優先させる中で起きた中国漁船衝突事件のビデオ流出は、海保の現場の不満とともに、法の執行機関が国家安全保障の最前線に立つことの矛盾を浮き彫りにした。中国の海洋進出で東シナ海の緊張が高まる現在、「海保依存」の安全保障の在り方が問われている。【「転換期の安保」取材班】
9月7日の沖縄県・尖閣諸島沖の漁船衝突事件以来、海上保安庁に重くのしかかっている一つの問題がある。
11月28日午前8時ごろ、尖閣諸島の離れ小島・大正島の沖に、中国の漁業監視船2隻が姿を現した。うち1隻「漁政310」はヘリコプター搭載型艦船とみられる最新鋭艦だ。
2隻は大正島を取り巻く日本の接続水域を一周した後、8の字を描きながら魚釣島近海に移動。29日午前、日本と台湾の排他的経済水域(EEZ)の地理的中間線の台湾側に遠ざかり、中国本土に戻るかに見えた。
だが、2隻は突然、進路を反転。9月の衝突事件後に監視船が確認されるのは今回が5回目だが、過去4回では見られなかったUターンだった。「日本の領海に入るつもりか?」。海保職員の間に緊張が走った。
結局、2隻は日本の接続水域とEEZを動き回り、29日午後6時までに日中のEEZの中間線を越えて立ち去った。最初に2隻を視認してから約34時間、巡視船は2隻と並走しながら退去警告を発し、レーダーで船影を確認し続けた。
中国船の動きは衝突事件前より挑発的にも見えるが、中国船舶が日本の接続水域を航行するだけなら法令違反ではない。だが、海保が直面する最大の問題は、領海侵犯すれすれの海域で複雑な航跡を描く中国側の意図が分からないことだ。
「中国は日本や米国の出方を試しているのでは」。海保幹部は分析する。それが正しければ海保は中国との「消耗戦」の末、再び内閣の屋台骨を揺るがす外交問題の矢面に立たされかねない。
◇深刻な人員不足
海保の無線は、ベテラン海上保安官でさえ聞き取りにくい。警察がとっくに無線をデジタル化したのに対し、海保の無線の主体は今も盗聴されやすいアナログ方式。盗聴防止のために電波をスクランブル(変調)させた結果、音が波打つように聞こえるからだ。
海洋国家日本で海の安全保障を担う海保は慢性的な人員、装備、予算の不足に直面している。日本の領海と排他的経済水域を合わせた面積は約447万平方キロと世界で6番目に広いが、この広大な海域で警備・救難業務に当たる海上保安官の定員約1万2000人は兵庫県警の定員にほぼ等しい。
保有する巡視船艇358隻のうち85隻は耐用年数を過ぎている。「船やヘリコプターを最新式に更新するには約3500億円必要」とされる。海保の今年度予算は、その半分強の約1824億円。総予算の半分は人件費に消える。来年度予算は今年度の1・1倍程度にとどまる見通しだ。
海保は中国の漁業監視船が東シナ海に姿を現すようになった9月以降、尖閣諸島周辺海域を警備する巡視船を2隻から6隻体制に増強した。だが、南シナ海に目を転じれば、中国の漁業監視船が中国漁船の違法操業を事実上「護衛」している現状がある。海保幹部は「同様の違法操業が東シナ海の尖閣諸島周辺で始まり、領海警備と取り締まりを同時に行う必要が生じれば、現行体制は限界に直面する」と懸念する。
◇権限見直し論議も
「『当面は中国漁船には立ち入り検査するな』。9月24日の中国人船長釈放後、そんな指示が政権中枢から海上保安庁に出た」
ある政府関係者は証言する。現在、指示は解除されているが、漁船衝突事件での船長逮捕をきっかけに日中関係が悪化したからだ。
中国との間で海を舞台にした摩擦が起きた際、海保が当面の「摩擦回避」の役を担わされることに、ある海保幹部は「我々は岡っ引き。『中国と上手に付き合え』と奉行役を押しつけられても困る」と不満を吐露した。
海保は近年、各国の海上保安機関と関係を深めてきたが、中国との間には「領海など機微に触れる問題で話し合える関係はない」(海保幹部)。各国との関係強化はテロ・犯罪対策など利害が一致する分野での連携が狙い。中国政府が日本側の対応を試す可能性が疑われるケースは想定外だ。
相次ぐ中国船の進出は「海保の権限」をも問い始めている。
11月に尖閣沖に姿を現した中国の漁業監視船2隻のうち1隻は、ヘリコプター搭載型艦船とみられる。海保幹部は「監視船のヘリが島に降りたらどうすればよいのか」と語る。
海保には海上での取り締まり以外に権限がない。ヘリの領空侵犯には自衛隊機による対応が想定されるが、海保と海上自衛隊の間で明確な意思疎通が行われた形跡はない。ヘリで中国人が島に不法上陸すれば警察に管轄が移るが、島は無人島で、巡視船に警察官や入管職員はいない。
海保を所管する馬淵澄夫・国土交通相は国会答弁などで「海上警察権の在り方を抜本的に議論してもらいたい」と権限見直しを示唆した。中国の海洋進出が日本の安全保障の課題に浮上する中、「海保依存」のその場しのぎの危機管理は行き詰まりを見せている。
==============
■ことば
◇排他的経済水域と接続水域
94年発効の国連海洋法条約は、自国沿岸から12カイリ(約22キロ)までを領海、24カイリまでを接続水域、200カイリ(約370キロ)までを排他的経済水域(EEZ)と定める。接続水域内では沿岸国による通関、財政、出入国管理および衛生に関する規制が認められる。EEZ内では水産・鉱物資源の探査や開発の主権的権利を沿岸国が有する。EEZが複数国で重なり合う場合の境界画定は当事国間で合意するよう同条約は求めている。
◇問われる「海保依存」
自衛隊の活動が憲法9条の制約を受ける日本では、海洋の事件捜査と人命救助を担う「海の警察」である海上保安庁が、海洋安全保障の事実上の主役を担わされている。政権が対中関係を優先させる中で起きた中国漁船衝突事件のビデオ流出は、海保の現場の不満とともに、法の執行機関が国家安全保障の最前線に立つことの矛盾を浮き彫りにした。中国の海洋進出で東シナ海の緊張が高まる現在、「海保依存」の安全保障の在り方が問われている。【「転換期の安保」取材班】
9月7日の沖縄県・尖閣諸島沖の漁船衝突事件以来、海上保安庁に重くのしかかっている一つの問題がある。
11月28日午前8時ごろ、尖閣諸島の離れ小島・大正島の沖に、中国の漁業監視船2隻が姿を現した。うち1隻「漁政310」はヘリコプター搭載型艦船とみられる最新鋭艦だ。
2隻は大正島を取り巻く日本の接続水域を一周した後、8の字を描きながら魚釣島近海に移動。29日午前、日本と台湾の排他的経済水域(EEZ)の地理的中間線の台湾側に遠ざかり、中国本土に戻るかに見えた。
だが、2隻は突然、進路を反転。9月の衝突事件後に監視船が確認されるのは今回が5回目だが、過去4回では見られなかったUターンだった。「日本の領海に入るつもりか?」。海保職員の間に緊張が走った。
結局、2隻は日本の接続水域とEEZを動き回り、29日午後6時までに日中のEEZの中間線を越えて立ち去った。最初に2隻を視認してから約34時間、巡視船は2隻と並走しながら退去警告を発し、レーダーで船影を確認し続けた。
中国船の動きは衝突事件前より挑発的にも見えるが、中国船舶が日本の接続水域を航行するだけなら法令違反ではない。だが、海保が直面する最大の問題は、領海侵犯すれすれの海域で複雑な航跡を描く中国側の意図が分からないことだ。
「中国は日本や米国の出方を試しているのでは」。海保幹部は分析する。それが正しければ海保は中国との「消耗戦」の末、再び内閣の屋台骨を揺るがす外交問題の矢面に立たされかねない。
◇深刻な人員不足
海保の無線は、ベテラン海上保安官でさえ聞き取りにくい。警察がとっくに無線をデジタル化したのに対し、海保の無線の主体は今も盗聴されやすいアナログ方式。盗聴防止のために電波をスクランブル(変調)させた結果、音が波打つように聞こえるからだ。
海洋国家日本で海の安全保障を担う海保は慢性的な人員、装備、予算の不足に直面している。日本の領海と排他的経済水域を合わせた面積は約447万平方キロと世界で6番目に広いが、この広大な海域で警備・救難業務に当たる海上保安官の定員約1万2000人は兵庫県警の定員にほぼ等しい。
保有する巡視船艇358隻のうち85隻は耐用年数を過ぎている。「船やヘリコプターを最新式に更新するには約3500億円必要」とされる。海保の今年度予算は、その半分強の約1824億円。総予算の半分は人件費に消える。来年度予算は今年度の1・1倍程度にとどまる見通しだ。
海保は中国の漁業監視船が東シナ海に姿を現すようになった9月以降、尖閣諸島周辺海域を警備する巡視船を2隻から6隻体制に増強した。だが、南シナ海に目を転じれば、中国の漁業監視船が中国漁船の違法操業を事実上「護衛」している現状がある。海保幹部は「同様の違法操業が東シナ海の尖閣諸島周辺で始まり、領海警備と取り締まりを同時に行う必要が生じれば、現行体制は限界に直面する」と懸念する。
◇権限見直し論議も
「『当面は中国漁船には立ち入り検査するな』。9月24日の中国人船長釈放後、そんな指示が政権中枢から海上保安庁に出た」
ある政府関係者は証言する。現在、指示は解除されているが、漁船衝突事件での船長逮捕をきっかけに日中関係が悪化したからだ。
中国との間で海を舞台にした摩擦が起きた際、海保が当面の「摩擦回避」の役を担わされることに、ある海保幹部は「我々は岡っ引き。『中国と上手に付き合え』と奉行役を押しつけられても困る」と不満を吐露した。
海保は近年、各国の海上保安機関と関係を深めてきたが、中国との間には「領海など機微に触れる問題で話し合える関係はない」(海保幹部)。各国との関係強化はテロ・犯罪対策など利害が一致する分野での連携が狙い。中国政府が日本側の対応を試す可能性が疑われるケースは想定外だ。
相次ぐ中国船の進出は「海保の権限」をも問い始めている。
11月に尖閣沖に姿を現した中国の漁業監視船2隻のうち1隻は、ヘリコプター搭載型艦船とみられる。海保幹部は「監視船のヘリが島に降りたらどうすればよいのか」と語る。
海保には海上での取り締まり以外に権限がない。ヘリの領空侵犯には自衛隊機による対応が想定されるが、海保と海上自衛隊の間で明確な意思疎通が行われた形跡はない。ヘリで中国人が島に不法上陸すれば警察に管轄が移るが、島は無人島で、巡視船に警察官や入管職員はいない。
海保を所管する馬淵澄夫・国土交通相は国会答弁などで「海上警察権の在り方を抜本的に議論してもらいたい」と権限見直しを示唆した。中国の海洋進出が日本の安全保障の課題に浮上する中、「海保依存」のその場しのぎの危機管理は行き詰まりを見せている。
==============
■ことば
◇排他的経済水域と接続水域
94年発効の国連海洋法条約は、自国沿岸から12カイリ(約22キロ)までを領海、24カイリまでを接続水域、200カイリ(約370キロ)までを排他的経済水域(EEZ)と定める。接続水域内では沿岸国による通関、財政、出入国管理および衛生に関する規制が認められる。EEZ内では水産・鉱物資源の探査や開発の主権的権利を沿岸国が有する。EEZが複数国で重なり合う場合の境界画定は当事国間で合意するよう同条約は求めている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます