済々黌剣道部黄金期の剣士達
金津 實(かなつ みのる)S9卒
「陸軍大尉として激戦地・硫黄島で勇戦」
島田 豪貴(しまだ こうき)S10卒
「陸軍中尉として東ニューギニアで苦闘」
『済々黌剣道八十年の歩み』の「第二期黄金時代」の冒頭に「大正末期に端を発し、昭和八、九年ごろにその全盛時代を現出した。この時代は学校剣道もスポーツ化し、専ら学校対抗の団体戦が華やかに登場した。済々黌剣道部は、その間、全国的大会に十回の優勝記録を残した。恐らくこの記録は日本一かも知れない。少なくとも日本的な記録であることは間違いない。」と記してある。その絶頂期に済々黌剣道部の中心に居たのが、金津(昭和8年時)、島田(昭和9年時)である。
済々黌では明治15年の創立の時から「撃剣」を正課とし、更には済々黌武術科を拡張して振武会を設立している。この講武所と済々黌は同心一体であり、「日々講武所叱咤の声と済々黌咿唔(読書の声)の音と隣々相和し所謂文武不岐にして始て智徳体三育併行の実を見るを得たり」と趣意書に記されている。更には「集合撃剣」が実戦さながらに壮大に行われ、済々黌名物になっている。昭和6年の昭和天皇の行幸を仰いだ際には集合撃剣が天覧に供されている。
この様な振武の気風の中で、済々黌剣道部は鍛えられ、遂に、昭和5年に五高主催の近県中等学校大会で優勝し、6年には大阪大会で全国制覇を達成する。その感激は深夜の「テンカノハケンイマナル」の至急電報として語られている。7年には全日本大会で4位。8年には明専大会、九州医専大会に優勝、更に夏の京都武徳会青年大会と第4回全日本中等学校優勝大会と共に優勝を勝ち取った。その時金津は主将の緒方と共に最高学年の5年生、島田は4年生で正選手に抜擢されていた。全日本中等学校優勝大会の決勝では、次鋒の金津が四人抜きを成している。この年度の大会参加回数十二回、うち七回優勝、三回準優勝、五回戦敗退二回、優勝旗七流、優勝楯一個、花輪二個を獲得している。
翌年度は島田が主将となる。島田は四月に武徳殿で行われた天覧試合地方予選第一次学生の部に優勝し、天覧選士決定戦に学生代表として出場し、青年代表や在郷軍人代表、警察官代表、一般代表の四強豪と対し二勝している。剣道部としては中部九州予選で優勝。夏の京都武徳会本部青年大会(参加校は三百数十校に及ぶ)を制し連覇を飾った。決勝は島田の大将戦で勝負を決した。更に全日本選抜優勝大会でも準優勝に輝いた。更に、秋の五高大会、佐高大会でも優勝している。
正に、済々黌剣道部の黄金期を築いた二人だが、金津は松山高商に進んだ後、大東亜戦争では陸軍大尉として独立歩兵第311大隊に所属し、大東亜戦争最大の激戦となった硫黄島の戦いで20年3月17日に戦死している。実は、硫黄島の戦いではこの日に済々黌出身者が七名戦死している。しかも、その内の四名が剣道部出身なのである。金津実以外は昭和12年卒の小山邦光(陸軍少尉・独立歩兵第311大隊)、北野孝一(陸軍中尉・独立機関銃第1大隊)、井黒康喜(陸軍中尉・独立歩兵第311大隊)である。
硫黄島の戦いはペリリュー島の後のフィリピンでの戦いと並行して行われた。硫黄島は東京まで1250キロの位置にあり、グアムやサイパンと東京の中間、南鳥島と沖縄の中間に位置する戦略的要衝の島である。島の面積は22㎢で、南北8、3キロ・東西は4、5キロから0、8キロしかない小島である。わが軍は陸軍が栗林忠道中将、海軍が市丸利之助少将の指揮の下、陸軍1万3449人、海軍7703人、総計2万1152人で防衛体制を敷いた。ペリリュー島の戦いなどこれ迄の戦訓を踏まえて、地下二十メートルに司令部を築き、島内に地下陣地を張り巡らしたのである。米軍が上陸を開始したのは、昭和20年2月19日、海兵隊3個師団6万1000人で力攻した。だが硫黄島守備隊の地下陣地を活用した忍者の様な戦いぶりに、米軍は死傷者が続出した。硫黄島守備隊は栗林中将起草の「敢闘の誓」6カ条を肝に銘じかつ身を以て実践したのである。それは次の内容である。
敢闘の誓
一、我等は全力を奮って本島を守り抜かん
一、我等は爆薬を抱いて敵戦車にぶつかり之を粉砕せん
一、我等は挺身敵中に斬込み敵を皆殺しにせん
一、我等は一発必中の射撃に依って敵を打倒せん
一、我等は各自敵十人を斃さざれば死すとも死せず
一、我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩さん
米軍はこの小島を2~3日で攻略できると思っていたが、実に36日に及ぶ激戦となり、戦闘が終結したのは3月26日だった。
硫黄島の戦いでは、日本軍守備隊の損害を米軍の損害が上回った。米軍は全上陸部隊の30%、第三海兵師団は海兵連隊の60%、第四第五海兵師団は海兵連隊の75%の損害を出した。最初の50時間の損害は3000人を超え、始めの5日間に毎日平均1200人以上の被害者を出し、上陸した海兵3名に1名の割合で戦死又は戦傷した。わが軍の戦死者は2万129人、戦傷者が1023人で合計2万1152人。これに対し米軍は戦死者6821人、戦傷者2万1865人で合計2万8686人の損害を受けたのだ。損害の余りもの多さに、米軍は次の沖縄戦、更には日本本土上陸戦への恐怖を抱き、沖縄戦後の和平へ向けた大きな要因となったのである。日米の死力を尽くした硫黄島の攻防戦は歴史に刻まれ、日米お互いが相手の勇気を讃える象徴として語り継がれている。その戦いに全国制覇を成し遂げた済々黌の剣士達が参加していたのである。
島田は済々黌卒業後、東京高等師範の体育専攻に進んだ。大東亜戦争では、陸軍中尉として歩兵第79聯隊に属し、ニューギニアの戦いで昭和18年10月20日に戦死している。
歩兵79聯隊は、18年1月に東部ニューギニアのウエワクに上陸、8月にニューギニア島東部の東に突き出たフォン半島のフィンシュハーフェンの防衛のための移動を命じられた。9月22日にオーストラリア軍は日本軍の予想に反してフィンシュハーフェン北方10キロのアント岬へ上陸した。劣勢の日本軍はフィンシュハーフェン西方5キロのサッテルベルク高地へ後退して集結を図った。10月11日、第20師団長の片桐茂中将率いる歩兵第79連隊ほか第20師団主力は、険しい山道を踏破してサッテルベルク高地に到着した。主力部隊は陸上から侵攻する一方、歩兵第79連隊第3大隊の一部(杉野挺身隊)184名を海上機動して逆上陸させる総攻撃作戦を17日に決行したが、奇襲のはずが事前に察知されており、失敗に終わった。第20師団主力は18日から総攻撃を開始したが、ジャングルに仕掛けられていたマイクによって行動を探知され、猛砲撃を受けて大損害となった。そのうえ、同日午後に入ると陸空両方からの攻撃を受けて後退を余儀なくされた。第20師団はフィンシュハーフェンへ急行する際に火砲の大半を残置していた為、各砲兵中隊は山砲1門しか持っておらず、補給も不十分だった。その後も連合軍の追撃を受けたため、遂に10月24日には総攻撃中止を決心した。
以上が、島田が所属した歩兵79聯隊の戦闘の概要である。島田中尉が戦死したのが10月20日だから、サッテルベルク高地周辺で敵の追撃を受ける中での戦いで戦死した事と考えられる。
金津 實(かなつ みのる)S9卒
「陸軍大尉として激戦地・硫黄島で勇戦」
島田 豪貴(しまだ こうき)S10卒
「陸軍中尉として東ニューギニアで苦闘」
『済々黌剣道八十年の歩み』の「第二期黄金時代」の冒頭に「大正末期に端を発し、昭和八、九年ごろにその全盛時代を現出した。この時代は学校剣道もスポーツ化し、専ら学校対抗の団体戦が華やかに登場した。済々黌剣道部は、その間、全国的大会に十回の優勝記録を残した。恐らくこの記録は日本一かも知れない。少なくとも日本的な記録であることは間違いない。」と記してある。その絶頂期に済々黌剣道部の中心に居たのが、金津(昭和8年時)、島田(昭和9年時)である。
済々黌では明治15年の創立の時から「撃剣」を正課とし、更には済々黌武術科を拡張して振武会を設立している。この講武所と済々黌は同心一体であり、「日々講武所叱咤の声と済々黌咿唔(読書の声)の音と隣々相和し所謂文武不岐にして始て智徳体三育併行の実を見るを得たり」と趣意書に記されている。更には「集合撃剣」が実戦さながらに壮大に行われ、済々黌名物になっている。昭和6年の昭和天皇の行幸を仰いだ際には集合撃剣が天覧に供されている。
この様な振武の気風の中で、済々黌剣道部は鍛えられ、遂に、昭和5年に五高主催の近県中等学校大会で優勝し、6年には大阪大会で全国制覇を達成する。その感激は深夜の「テンカノハケンイマナル」の至急電報として語られている。7年には全日本大会で4位。8年には明専大会、九州医専大会に優勝、更に夏の京都武徳会青年大会と第4回全日本中等学校優勝大会と共に優勝を勝ち取った。その時金津は主将の緒方と共に最高学年の5年生、島田は4年生で正選手に抜擢されていた。全日本中等学校優勝大会の決勝では、次鋒の金津が四人抜きを成している。この年度の大会参加回数十二回、うち七回優勝、三回準優勝、五回戦敗退二回、優勝旗七流、優勝楯一個、花輪二個を獲得している。
翌年度は島田が主将となる。島田は四月に武徳殿で行われた天覧試合地方予選第一次学生の部に優勝し、天覧選士決定戦に学生代表として出場し、青年代表や在郷軍人代表、警察官代表、一般代表の四強豪と対し二勝している。剣道部としては中部九州予選で優勝。夏の京都武徳会本部青年大会(参加校は三百数十校に及ぶ)を制し連覇を飾った。決勝は島田の大将戦で勝負を決した。更に全日本選抜優勝大会でも準優勝に輝いた。更に、秋の五高大会、佐高大会でも優勝している。
正に、済々黌剣道部の黄金期を築いた二人だが、金津は松山高商に進んだ後、大東亜戦争では陸軍大尉として独立歩兵第311大隊に所属し、大東亜戦争最大の激戦となった硫黄島の戦いで20年3月17日に戦死している。実は、硫黄島の戦いではこの日に済々黌出身者が七名戦死している。しかも、その内の四名が剣道部出身なのである。金津実以外は昭和12年卒の小山邦光(陸軍少尉・独立歩兵第311大隊)、北野孝一(陸軍中尉・独立機関銃第1大隊)、井黒康喜(陸軍中尉・独立歩兵第311大隊)である。
硫黄島の戦いはペリリュー島の後のフィリピンでの戦いと並行して行われた。硫黄島は東京まで1250キロの位置にあり、グアムやサイパンと東京の中間、南鳥島と沖縄の中間に位置する戦略的要衝の島である。島の面積は22㎢で、南北8、3キロ・東西は4、5キロから0、8キロしかない小島である。わが軍は陸軍が栗林忠道中将、海軍が市丸利之助少将の指揮の下、陸軍1万3449人、海軍7703人、総計2万1152人で防衛体制を敷いた。ペリリュー島の戦いなどこれ迄の戦訓を踏まえて、地下二十メートルに司令部を築き、島内に地下陣地を張り巡らしたのである。米軍が上陸を開始したのは、昭和20年2月19日、海兵隊3個師団6万1000人で力攻した。だが硫黄島守備隊の地下陣地を活用した忍者の様な戦いぶりに、米軍は死傷者が続出した。硫黄島守備隊は栗林中将起草の「敢闘の誓」6カ条を肝に銘じかつ身を以て実践したのである。それは次の内容である。
敢闘の誓
一、我等は全力を奮って本島を守り抜かん
一、我等は爆薬を抱いて敵戦車にぶつかり之を粉砕せん
一、我等は挺身敵中に斬込み敵を皆殺しにせん
一、我等は一発必中の射撃に依って敵を打倒せん
一、我等は各自敵十人を斃さざれば死すとも死せず
一、我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩さん
米軍はこの小島を2~3日で攻略できると思っていたが、実に36日に及ぶ激戦となり、戦闘が終結したのは3月26日だった。
硫黄島の戦いでは、日本軍守備隊の損害を米軍の損害が上回った。米軍は全上陸部隊の30%、第三海兵師団は海兵連隊の60%、第四第五海兵師団は海兵連隊の75%の損害を出した。最初の50時間の損害は3000人を超え、始めの5日間に毎日平均1200人以上の被害者を出し、上陸した海兵3名に1名の割合で戦死又は戦傷した。わが軍の戦死者は2万129人、戦傷者が1023人で合計2万1152人。これに対し米軍は戦死者6821人、戦傷者2万1865人で合計2万8686人の損害を受けたのだ。損害の余りもの多さに、米軍は次の沖縄戦、更には日本本土上陸戦への恐怖を抱き、沖縄戦後の和平へ向けた大きな要因となったのである。日米の死力を尽くした硫黄島の攻防戦は歴史に刻まれ、日米お互いが相手の勇気を讃える象徴として語り継がれている。その戦いに全国制覇を成し遂げた済々黌の剣士達が参加していたのである。
島田は済々黌卒業後、東京高等師範の体育専攻に進んだ。大東亜戦争では、陸軍中尉として歩兵第79聯隊に属し、ニューギニアの戦いで昭和18年10月20日に戦死している。
歩兵79聯隊は、18年1月に東部ニューギニアのウエワクに上陸、8月にニューギニア島東部の東に突き出たフォン半島のフィンシュハーフェンの防衛のための移動を命じられた。9月22日にオーストラリア軍は日本軍の予想に反してフィンシュハーフェン北方10キロのアント岬へ上陸した。劣勢の日本軍はフィンシュハーフェン西方5キロのサッテルベルク高地へ後退して集結を図った。10月11日、第20師団長の片桐茂中将率いる歩兵第79連隊ほか第20師団主力は、険しい山道を踏破してサッテルベルク高地に到着した。主力部隊は陸上から侵攻する一方、歩兵第79連隊第3大隊の一部(杉野挺身隊)184名を海上機動して逆上陸させる総攻撃作戦を17日に決行したが、奇襲のはずが事前に察知されており、失敗に終わった。第20師団主力は18日から総攻撃を開始したが、ジャングルに仕掛けられていたマイクによって行動を探知され、猛砲撃を受けて大損害となった。そのうえ、同日午後に入ると陸空両方からの攻撃を受けて後退を余儀なくされた。第20師団はフィンシュハーフェンへ急行する際に火砲の大半を残置していた為、各砲兵中隊は山砲1門しか持っておらず、補給も不十分だった。その後も連合軍の追撃を受けたため、遂に10月24日には総攻撃中止を決心した。
以上が、島田が所属した歩兵79聯隊の戦闘の概要である。島田中尉が戦死したのが10月20日だから、サッテルベルク高地周辺で敵の追撃を受ける中での戦いで戦死した事と考えられる。
私は横浜在住のフリーライターです。
現在済々黌の卒業生でアメリカに移民したある人物について調べています(1897年に済々黌に転入したようです)。
お書きになった記事のなかに「済々黌では明治15年の創立の時から「撃剣」を正課とし」という記述がありますが、これは一般授業のカリキュラムとして全校生徒が実習したという意味でよろしいでしょうか? 剣道との具体的なちがいはどのような点にあったかお分かりになりますでしょうか?
また柔道についてはどうだったのでしょうか?
分かる範囲で結構です。
教えていただけますと幸いです。
よろしくお願いいたします。