「道の学問・心の学問」第六十七回(令和3年8月24日)
石田梅岩に学ぶ⑧
「此に一人の鏡磨(とぐ)者あらん。上手ならば鏡を磨(とぎ)に遣わす可し。磨種(とぎぐさ)になにを用ゆと問ふ可きや。儒仏の法を用ゆるも斯くの如し。我心を琢(みが)く磨種なり。」
(『都鄙問答』巻之三)
梅岩は言う。「此処に一人の鏡を磨(と)ぐ者がいるとする。上手ならば鏡磨ぎを依頼するであろう。その時、鏡は何を用いて磨いだか聞く必要はない。儒教や仏教の教えを用いるのもこれと同じ事である。全てが自分の心を琢(みが)く磨種(とぎぐさ)なのである。琢いた後で磨種にこだわるのはおかしな事である。例え儒家で学んでも、真の学びが出来なければ益にはならない。仏家を学んでも、自分の心を正しく得る事が出来ているならば素晴らしい事ではないか。心に二つの違いがあるはずは無い。」
梅岩の目的は、自らの心の本性を確と認識し、正しい心を把持し実践する事にある。自分の心を正しく磨いてくれるならば、その材料が限定されるべきではない。神道、儒学、仏教、老荘と様々な教えがあり、先哲の言葉が遺されている。それらを「磨種」として自らの心を磨き続ける事が大切なのである。そして、その結果は自らの人格と行動に表わされているのだ。その人が何を学んで来たかは、その人自身が物語っている。
梅岩は京都に奉公に出た23歳の時既に、神道を広めたいとの志を抱いていた様に、敬神の念の篤い人物だった。『石田先生事蹟』には、「私は全く二心なく、儒学や仏教を輔佐(助け)として、我が国の神道の訓えである「正直」に人を教え導き、神忠を尽す」との誓いを立てた事が記されてある。それ故梅岩は「儒道、仏道、老子荘子に至るまで尽く此の国の助けとする様に用いる事を思うべきである。日本の宗廟である天照太神宮を、宗源と貴び、皇大神宮の御宝勅に任せて、神道の教えを助ける為に儒仏の教えを活用すべきである。」と述べる。更に「太神宮(神道)を金の様に尊び、儒学を銀の様に尊び、仏教を鉄の様に尊ぶ。今日の我が国ではこれらの三道(神儒仏)は金・銀・鉄の様に一つが欠けても身を修めるには宜しくない。」(『遺芳録』)と、神儒仏全てが不可欠な存在であると述べている。
そして次の二種の和歌を示している。
慈悲仏すぐなるは神まことある聖(ひじ)り心と三つの宝ぞ
慈悲まこと正直も皆我身よりあらはれ出(いづ)る光りとぞ知る
仏教の慈悲の心、正直を示す神の心、誠を現わす聖人(儒学)の心、それらは我が国にとってかけがえのない宝であり、その全てが実は自分自身の中から現われ出ずる光なのだと。その光を磨き出す為に、梅岩は儒学のみに囚われずに様々な書物から学び続けたのである。
石田梅岩に学ぶ⑧
「此に一人の鏡磨(とぐ)者あらん。上手ならば鏡を磨(とぎ)に遣わす可し。磨種(とぎぐさ)になにを用ゆと問ふ可きや。儒仏の法を用ゆるも斯くの如し。我心を琢(みが)く磨種なり。」
(『都鄙問答』巻之三)
梅岩は言う。「此処に一人の鏡を磨(と)ぐ者がいるとする。上手ならば鏡磨ぎを依頼するであろう。その時、鏡は何を用いて磨いだか聞く必要はない。儒教や仏教の教えを用いるのもこれと同じ事である。全てが自分の心を琢(みが)く磨種(とぎぐさ)なのである。琢いた後で磨種にこだわるのはおかしな事である。例え儒家で学んでも、真の学びが出来なければ益にはならない。仏家を学んでも、自分の心を正しく得る事が出来ているならば素晴らしい事ではないか。心に二つの違いがあるはずは無い。」
梅岩の目的は、自らの心の本性を確と認識し、正しい心を把持し実践する事にある。自分の心を正しく磨いてくれるならば、その材料が限定されるべきではない。神道、儒学、仏教、老荘と様々な教えがあり、先哲の言葉が遺されている。それらを「磨種」として自らの心を磨き続ける事が大切なのである。そして、その結果は自らの人格と行動に表わされているのだ。その人が何を学んで来たかは、その人自身が物語っている。
梅岩は京都に奉公に出た23歳の時既に、神道を広めたいとの志を抱いていた様に、敬神の念の篤い人物だった。『石田先生事蹟』には、「私は全く二心なく、儒学や仏教を輔佐(助け)として、我が国の神道の訓えである「正直」に人を教え導き、神忠を尽す」との誓いを立てた事が記されてある。それ故梅岩は「儒道、仏道、老子荘子に至るまで尽く此の国の助けとする様に用いる事を思うべきである。日本の宗廟である天照太神宮を、宗源と貴び、皇大神宮の御宝勅に任せて、神道の教えを助ける為に儒仏の教えを活用すべきである。」と述べる。更に「太神宮(神道)を金の様に尊び、儒学を銀の様に尊び、仏教を鉄の様に尊ぶ。今日の我が国ではこれらの三道(神儒仏)は金・銀・鉄の様に一つが欠けても身を修めるには宜しくない。」(『遺芳録』)と、神儒仏全てが不可欠な存在であると述べている。
そして次の二種の和歌を示している。
慈悲仏すぐなるは神まことある聖(ひじ)り心と三つの宝ぞ
慈悲まこと正直も皆我身よりあらはれ出(いづ)る光りとぞ知る
仏教の慈悲の心、正直を示す神の心、誠を現わす聖人(儒学)の心、それらは我が国にとってかけがえのない宝であり、その全てが実は自分自身の中から現われ出ずる光なのだと。その光を磨き出す為に、梅岩は儒学のみに囚われずに様々な書物から学び続けたのである。
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