「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

熊澤蕃山⑨「人欲を去て天理を存するの工夫は、善をするより大なるはなく候。」

2020-10-30 13:36:53 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第二十四回(令和2年10月30日)
熊澤蕃山に学ぶ⑨
「人欲を去て天理を存するの工夫は、善をするより大なるはなく候。」
                                 (『集義和書』巻第一)

蕃山は書簡で「心法はいかが受用」したら良いかとの質問に次の様に答えている。

「聖賢の書には道理が正しく書いてあるので、誰が読んでも同じ事ですが、ただ理屈を論じてまねをするばかりでは、心の汚染を落とす事が出来ないのは当然です。心術を受用すると語る人でも、心の底に凡情を腹蔵しているならば一向に上達しません。」

「徳は人の為にするのではありません。自分一人の努力で心に『天理を存して人欲を去る』のです。人欲を去って心に天理を存する為の工夫は、善を行う事より大きい事はありません。善というのは格別な行いや事業をなすと云うのではありません。人の道に則って日用行う事はすべて善なのです。立派な人(君子)は義理を判断の基準に据えていますが、利己的な人(小人)は名利(名誉欲や己のみの利益)に則って行動します。自分では心は義理に従い、能く心法を受用していると思っていても、その人の人柄の全体が小人の位に居るのに、自分では解らずその心境を抜け切れていない人は古今に沢山居ます。この点を十分に心に刻んだ後に、聖賢の書を見て人にも尋ねたりするなら全てが自分の入徳の工夫努力となるでしょう。」

 「心法」「心術」とは自分の心を如何に磨くかと云う「やり方・行い方」の事である。しかし、心を日々磨いていると述べる人でも、その人の全人格が醸し出す「品格」には心法の成果が自ずと表れて来るものである。そして、それは言葉の端々やちょっとした表情、行為に正直に反映され、隠す事は出来ない。「心の底に凡情を腹蔵」し、「人柄の全体が小人の位に居る」様では、心法の向上は望めない。この点こそが、心の学問を為すに当たっての最も重要な観点である。その為には、「人欲を去て天理を存するの工夫」が極めて重要となる。

 「人欲を去て天理を存する」の言葉は、朱子学や陽明学で使用される、心の在り方に関する用語である。君子と小人との違いは、その人の心が「天理」に満たされているのか、「人欲」に支配されているかの相違による。人欲とは天理を覆っている雲の様なもので、雲が晴れれば天理は月や太陽の如く自ずと輝き始める。その為の工夫は如何にすればよいか。蕃山は「善」を行う以上の事は無いと述べる。その善とは格別の事では無く、日常の様々な行為の中にある。利己に陥らず、周りの人々と共に幸せを共有して行く生き方の積み重ねが、人欲を祓い去って天理を心に存する心の在り方を導いて行くのである。決して難しい事では無い。


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