⑤第4航空軍・第6飛行師団司令部
神代 儀平(こうしろ ぎへい)T3卒
「航空機エンジニアのパイオニアとしての道を歩み、豪北ニューギニアに散る」
神代儀平は明治29年に熊本市京町に生まれる。師範学校令の公布に伴って新設された熊本師範学校付属小学校に学び、済々黌に進んだ。当時の黌長は名黌長として多くの人材を育てた井芹経平先生だった。大正3年、卒業と共に陸軍士官学校に進んだ。実は、第五高等学校も受験して合格していたが、軍人への道の方を選んだ。陸軍士官学校の同期には朝鮮王族の李垠殿下が居られた。神代は砲兵士官を目指した。必須科目で得意だった乗馬姿の写真が残っている。
少尉任官後の大正6年から10年迄は千葉県習志野演習場で砲術演習に明け暮れた。この間結婚し、千葉県四街道に新居を構えた。
わが国では明治20年代に二宮忠八が、「カラス型模型飛行器」を完成させるなどして飛行機への関心が徐々に高まっていた。第一次世界大戦での飛行機の活躍を見て日本陸軍も航空部門を強化する事となり、神代は大正11年に陸軍飛行学校研究部員に転じ、13年には飛行第一大隊付陸軍航空兵中尉となった。以後、航空機エンジニアの道を一筋に歩む事になる。
昭和7年に満州事変が起こるや第二飛行団司令部付として奉天(現在の瀋陽)の基地に駐屯した。その後、所沢の陸軍航空本部勤務となり、昭和11年の軍需工業監督制実施に伴い、名古屋航空機監督班に勤務し、主に三菱重工業名古屋航空機製作所の監督に当った。支那事変から大東亜戦争中期まで活躍した九七式や呑龍、飛龍などという重爆撃機の開発に関係していたものと思われる。この時代、公務の合間には少年時代から好きだった野球のチームを作って監督をしたり、謡曲、テニス、麻雀、撞球と多趣味で、紀元2600年奉祝運動会では提灯競争に出ている。
昭和16年夏には再び満州四平街の第一一野戦航空廠長(今で言う空軍基地部隊長)に赴任している。やがて南方戦線の危機に伴い、満州部隊の南方転用が始まる。17年11月には今村均大将隷下に第8方面軍が編成され、ラバウルに軍司令部が置かれた。ガダルカナル、ポートモレスビー攻略の為である。そこで満州で新たに第六飛行師団が編成され、その兵器部長として12月23日にラバウルに着任している。
昭和18年になると更に戦局が悪化し、その対策の一環として第六飛行師団が属する第四航空軍は阿南惟幾大将の第二方面軍に入り、ニューギニア北岸のウエワク基地に移駐した。神代はこの第四航空軍移動の頃、連絡の為に一時帰国し、熊本にも軍用機で飛来している。神代は、エンジニアの観点から米国の空軍力や戦局を冷静に見ており、当時の熊本では空襲の脅威は感じられていなかったにも拘らず、家族の為、庭に防空壕を掘って行ったと言う。
18年12月4日、広島の宇品港からニューギニア戦線に戻る時、留守宅に手紙を記し、既に死を期していること、妻トシへの感謝の言葉、子供たちへの励ましの言葉と共に家政の事も細々と注意を与え、残してゆく者に対する深い思いを示している。
ニューギニアに戻った後、19年早々にウエワクより西に位置し四つの飛行場を持つ有力な飛行基地であるホ―ランジアに移駐した。ウエワクからの昭和19年4月9日付の手紙が家族への最後の便りとなった。
米軍主力は日本軍の予測を裏切る形で19年4月22日にホ―ランジアに上陸を開始した。当時、ホーランジアには第18軍関係約6,600名、第4航空軍関係約7,000名、海軍関係約1,000名、合計約14,600名の兵力があったが、その多くは後方部隊や航空関係部隊であり、陸上戦力として計算しうる兵力はほとんどなかった。ホーランジアには「銃の総数は1,000挺、弾薬は小銃1挺につき十発しかなかった」と言う。結局、米軍はほぼ無抵抗でホーランジアに上陸し、日本軍は約四百㎞西方のサルミへ向けて、過酷な転進を強いられることとなった。ホーランジア戦闘に引続き実施された四〇〇キロの転進は、「未開、瘴癘、ジャングルの連続、進むに道無く、幾多横たわる大小無数の山嶽、湿地、河川を越えざるを得ない。其の間、飢餓、空腹、栄養失調、これに加えるにマラリアの猖獗は機動を益々困難ならしめ、遂に白骨をしてホーランジア、サルミ間の道標たるの感あらしむるに至れり」(戦史叢書84巻「南太平洋陸軍作戦<5> アイタペ・プリアカ・ラバウル」)という悲惨なものだった。ホーランジアからの撤退部隊は、飢餓と病に苦しみながら、5月末頃以降、ようやくサルミ手前のトル河付近に到着し始めていた。ところが、サルミを守る第36師団は、転進部隊がトル河を渡ることを許さなかった。既にサルミにも米軍が上陸し、激戦中だった第36師団は、飢えきった転進部隊が陣地内に乱入し、収拾がつかなくなることを極度に警戒忌避していたのである。
その結果、サルミでの給養を期待して、どうにかトル河まで辿り着いた転進部隊は、飢餓と衰えの極みにある中で渡河を禁止され、文字通り地獄の様相を呈した。6月下旬になると、第36師団はこれらの部隊がサルミ北西6キロのシハラ(シアラ)地区に集結し、現地自活を行うことを許可した。転進部隊はようやくトル河を渡ることができたが、既に病人と負傷兵ばかりで、被服は破れ、靴をはいている者もまれであった。そして、辿り着いたシハラも平和な地ではなかった。海岸に近いシハラ地区は、連日の爆撃とともに艦砲射撃にもさらされ、主要な将校でさえ次々と戦没した。その様な中で、7月25日、神代儀平は戦死した。享年49歳だった。ホ―ランジア地区の航空基地要員将兵7千余の内、無事に内地に生還できた者は僅か600人と言う。神代の遺骨や遺品は輸送船が帰還の途中で海没し、郷里に再び戻る事は無かった。
神代 儀平(こうしろ ぎへい)T3卒
「航空機エンジニアのパイオニアとしての道を歩み、豪北ニューギニアに散る」
神代儀平は明治29年に熊本市京町に生まれる。師範学校令の公布に伴って新設された熊本師範学校付属小学校に学び、済々黌に進んだ。当時の黌長は名黌長として多くの人材を育てた井芹経平先生だった。大正3年、卒業と共に陸軍士官学校に進んだ。実は、第五高等学校も受験して合格していたが、軍人への道の方を選んだ。陸軍士官学校の同期には朝鮮王族の李垠殿下が居られた。神代は砲兵士官を目指した。必須科目で得意だった乗馬姿の写真が残っている。
少尉任官後の大正6年から10年迄は千葉県習志野演習場で砲術演習に明け暮れた。この間結婚し、千葉県四街道に新居を構えた。
わが国では明治20年代に二宮忠八が、「カラス型模型飛行器」を完成させるなどして飛行機への関心が徐々に高まっていた。第一次世界大戦での飛行機の活躍を見て日本陸軍も航空部門を強化する事となり、神代は大正11年に陸軍飛行学校研究部員に転じ、13年には飛行第一大隊付陸軍航空兵中尉となった。以後、航空機エンジニアの道を一筋に歩む事になる。
昭和7年に満州事変が起こるや第二飛行団司令部付として奉天(現在の瀋陽)の基地に駐屯した。その後、所沢の陸軍航空本部勤務となり、昭和11年の軍需工業監督制実施に伴い、名古屋航空機監督班に勤務し、主に三菱重工業名古屋航空機製作所の監督に当った。支那事変から大東亜戦争中期まで活躍した九七式や呑龍、飛龍などという重爆撃機の開発に関係していたものと思われる。この時代、公務の合間には少年時代から好きだった野球のチームを作って監督をしたり、謡曲、テニス、麻雀、撞球と多趣味で、紀元2600年奉祝運動会では提灯競争に出ている。
昭和16年夏には再び満州四平街の第一一野戦航空廠長(今で言う空軍基地部隊長)に赴任している。やがて南方戦線の危機に伴い、満州部隊の南方転用が始まる。17年11月には今村均大将隷下に第8方面軍が編成され、ラバウルに軍司令部が置かれた。ガダルカナル、ポートモレスビー攻略の為である。そこで満州で新たに第六飛行師団が編成され、その兵器部長として12月23日にラバウルに着任している。
昭和18年になると更に戦局が悪化し、その対策の一環として第六飛行師団が属する第四航空軍は阿南惟幾大将の第二方面軍に入り、ニューギニア北岸のウエワク基地に移駐した。神代はこの第四航空軍移動の頃、連絡の為に一時帰国し、熊本にも軍用機で飛来している。神代は、エンジニアの観点から米国の空軍力や戦局を冷静に見ており、当時の熊本では空襲の脅威は感じられていなかったにも拘らず、家族の為、庭に防空壕を掘って行ったと言う。
18年12月4日、広島の宇品港からニューギニア戦線に戻る時、留守宅に手紙を記し、既に死を期していること、妻トシへの感謝の言葉、子供たちへの励ましの言葉と共に家政の事も細々と注意を与え、残してゆく者に対する深い思いを示している。
ニューギニアに戻った後、19年早々にウエワクより西に位置し四つの飛行場を持つ有力な飛行基地であるホ―ランジアに移駐した。ウエワクからの昭和19年4月9日付の手紙が家族への最後の便りとなった。
米軍主力は日本軍の予測を裏切る形で19年4月22日にホ―ランジアに上陸を開始した。当時、ホーランジアには第18軍関係約6,600名、第4航空軍関係約7,000名、海軍関係約1,000名、合計約14,600名の兵力があったが、その多くは後方部隊や航空関係部隊であり、陸上戦力として計算しうる兵力はほとんどなかった。ホーランジアには「銃の総数は1,000挺、弾薬は小銃1挺につき十発しかなかった」と言う。結局、米軍はほぼ無抵抗でホーランジアに上陸し、日本軍は約四百㎞西方のサルミへ向けて、過酷な転進を強いられることとなった。ホーランジア戦闘に引続き実施された四〇〇キロの転進は、「未開、瘴癘、ジャングルの連続、進むに道無く、幾多横たわる大小無数の山嶽、湿地、河川を越えざるを得ない。其の間、飢餓、空腹、栄養失調、これに加えるにマラリアの猖獗は機動を益々困難ならしめ、遂に白骨をしてホーランジア、サルミ間の道標たるの感あらしむるに至れり」(戦史叢書84巻「南太平洋陸軍作戦<5> アイタペ・プリアカ・ラバウル」)という悲惨なものだった。ホーランジアからの撤退部隊は、飢餓と病に苦しみながら、5月末頃以降、ようやくサルミ手前のトル河付近に到着し始めていた。ところが、サルミを守る第36師団は、転進部隊がトル河を渡ることを許さなかった。既にサルミにも米軍が上陸し、激戦中だった第36師団は、飢えきった転進部隊が陣地内に乱入し、収拾がつかなくなることを極度に警戒忌避していたのである。
その結果、サルミでの給養を期待して、どうにかトル河まで辿り着いた転進部隊は、飢餓と衰えの極みにある中で渡河を禁止され、文字通り地獄の様相を呈した。6月下旬になると、第36師団はこれらの部隊がサルミ北西6キロのシハラ(シアラ)地区に集結し、現地自活を行うことを許可した。転進部隊はようやくトル河を渡ることができたが、既に病人と負傷兵ばかりで、被服は破れ、靴をはいている者もまれであった。そして、辿り着いたシハラも平和な地ではなかった。海岸に近いシハラ地区は、連日の爆撃とともに艦砲射撃にもさらされ、主要な将校でさえ次々と戦没した。その様な中で、7月25日、神代儀平は戦死した。享年49歳だった。ホ―ランジア地区の航空基地要員将兵7千余の内、無事に内地に生還できた者は僅か600人と言う。神代の遺骨や遺品は輸送船が帰還の途中で海没し、郷里に再び戻る事は無かった。
丁寧に書いてくださいまして、ありがとうございます。
折り良く政府が海中の遺骨を収集するとの報道があり、故人の喜びもひとしおかと存じます。もし機会がございましたら記事の読み仮名を「こうしろぎへい」と修正していただけましたら幸いに存じます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。