先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人 第二十四回(『祖国と青年』23年4月号掲載)
乃木希典―軍服の聖者1
軍旗喪失(西南戦争)数万将兵の犠牲(日露戦争)その全てを背負って生きた「死に勝る苦悩」
乃木大将については、日露戦争の旅順の戦いや水師営の会見が有名だが、日露戦争後に学習院院長に任じられ、裕仁親王(昭和天皇)を始めとする三人の皇孫殿下の薫陶に当られた事についてはあまり知られていない。「聖の帝」と称せられた昭和天皇の帝王学の基礎は、乃木院長によって培われたと言って過言ではなく、昭和天皇の御聖断によって昭和の日本が救われ平成の今日がある事を考えるなら、乃木大将の遺徳は我々にも及んでいるのである。
だが、乃木大将の生涯を辿って行く時、そのあまりもの悲劇性に胸が締め付けられる思いがする。乃木希典という人物は、襲い来る悲劇から決して逃げる事無く、その凡てを背負って、実直に至誠を尽くして生きて行かれたのである。
山鹿素行・吉田松陰との深い縁
乃木希典は嘉永二年(1849)十一月十一日に江戸麻布日ヶ窪の長府藩下屋敷に於て藩士乃木希次の三男として誕生した。この長府藩邸は、「忠臣蔵」で有名な赤穂義士の内の十一名が討入り後に預けられ、切腹して亡くなった所である。その赤穂義士に影響を与えたのが、後に乃木大将が尊敬してやまなかった山鹿素行である事を考えると、生誕地に基づく因縁の深さに驚かざるを得ない。
父親の希次は文武に優れた立派な士で、長州本藩の毛利敬親公から歎賞の言葉を戴くほどであった。だが、安政五年(1858)に希次は、その剛直さが仇となって老臣の怒りを買い、江戸を追放され長府に戻された。希典十歳の時の事である。十六歳の時、学問に対する已み難い思いから萩に至り親戚の玉木文之進(吉田松陰の叔父)に学んだ。
そこで希典は、松陰の「士規七則」を徹底して叩き込まれた。乃木大将は晩年長男勝典に送った書簡の中で次の様に回想している。
●余が青年時に於て大父君及び玉木先師の常に此七則を以て教へられし事を想起すれば今尚お其恩音に接するが如し。近時殊に少尉(長男勝典)が実践躬行を励まさる可からざるの緊要事たるを認む。情深くして筆に尽さず。唯此士規七則を熟読熟思熟行せんことを勉めよ。
乃木大将は「言行一致」を説く際も士規七則を引用した。
●言行一致は人の義徳であるが、義勇がなければ到底出来得ぬ。古人(松陰)の云たる、勇は義に因て長じ義は勇に因て行はる(士規七則の第三則)と。実に義勇の二つが言行一致の根本である。(『乃木大将武士道問答』掲載書簡)
明治二年(1869)二十一歳の乃木は藩命によって伏見の御親兵兵営に入営、四年には陸軍少佐に任命される。八年に小倉の熊本鎮台歩兵第十四連隊長に任じられる。十年に西南戦争が勃発、乃木連隊は熊本城の救援に向かい田原坂で薩軍と死闘を繰り広げる。
その時、乃木の生涯を貫く痛恨の事件が起こった。薩軍抜刀隊の夜襲を受けた乃木連隊麾下三個中隊は、死傷者の続出により一時退却を決断し、連隊旗を旗手の腹に巻いて脱出を計らせた。ところが、その旗手が薩軍に斃され、連隊旗が奪われたのである。翌日、薩軍陣営の花岡山にはその連隊旗が掲げられ、薩軍は熊本城兵を嘲弄したのだった。乃木連隊長はその不名誉を詫びて切腹を計るが部下に推し留められ、待罪書を出して処分を乞うた。だが、征討総督本営は事情止むを得ない故に沙汰に及ばずと判断した。
その結果乃木は恥辱を背負って「死に勝る生の苦悩」に耐える事を運命づけられる。乃木は死地を求めて戦場に出て奮闘し、足や手を撃ち抜かれて重傷を負うが、遂に死には至らなかった。乃木二十八歳の時である。
鬱々たる思いの中で軍務に励む乃木は、三十歳で薩摩の女性静子と結婚するが、精神的な苦悶は乃木を飲酒・放蕩へと幻惑させた。十八年、乃木は三十七歳で陸軍少将・歩兵十一旅団長に任じられる。
「軍紀」は上位者に依って生ず―武士道体現の志
その様な乃木に生きる目標を自覚させる大いなる転機が訪れる。
十九年十一月三十日、乃木は川上操六少将と共にドイツ留学を命じられた。それ迄日本陸軍はフランス式の教練を採用していたが、普仏戦争の結果に鑑み、戦勝国ドイツ陸軍をモデルとする事にしたのである。そこで乃木(長州)川上(薩摩)という陸軍の俊英に日本陸軍の将来を託すべくドイツへと派遣した。川上は作戦方面の参謀部を、乃木は軍政方面の教育部を託す逸材だと考えたのである。二人は二十年一月に横浜を出港し、二十一年六月に帰朝した。
帰朝後乃木は陸軍当局に対し、心魂を傾けて記した長文の意見書を提出した。乃木四十歳の時である。その中で乃木は、「上流高等に居る者」の責任の重大さを指摘した。
●厳正なる軍紀の中に安んじ、自ら実務に堪へ、其当否を判別する(略)其言行、動作を部下の標準、模範と成し、己の得る処を以て部下を教育するの責任を負はざる可からず。下流の善美は上流の標準、模範に依て望むべし。
更に、軍隊の精神的基礎となる「徳義教育」は、欧州各国では宗教に基づくが、宗教が力を失っているわが国では「皇統万世なる 今上陛下の威徳」を拠り所とすべきであり、
●宜しく徳義と名誉を勧めて、全軍の軍紀を厳正にし、即ち我が陸軍の大元帥たる 天皇陛下の威武、仁徳を軍隊に拡充し、上下軍人に忠君愛国の念を固ふし、名誉を貴ぶの心を奨励し、之を全国臣民に普及し、尚武、名誉の志操を発達せしむる
事の重要性を説いている。乃木は、プロシアが今日の精強に至ったのは、「戦術編制の改良と、徳義を重んじ名誉を貴ばしむるの両途に」あると指摘する。更に、乃木は、ドイツ軍人が「居住必ず其制服を脱せざる」のは、その名誉を重んじる為である事を紹介し、「唯に部下の模範となるべきのみならず、徳義、礼節一国社会の上流に立ちて、一般の標準とな」る使命が軍人にある事を強調した。
ドイツ留学から帰った乃木は、天皇の大御心を体し、軍隊のみならず社会の徳義の模範となるべき使命を自任し、生活の全てにおける謹厳さを自らに課したのである。
『乃木大将武士道問答』の中でも乃木大将は次の様に語っている。
●武士道は予等の宗教にして忠君を以て緯と為し本分を尽すを以て経と為し行ふに信義真実の心を以て(す)
●軍人が名誉を発揚せざるべからざるは大元帥陛下に尽し奉らんが為にして決して自己の栄達自己の幸福の為に非ず。
爾来乃木は、軍人勅諭で天皇が諭された「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の徳目及びそれらの元となる「誠心」を体現する「将軍」としての生き方を生涯求め続けて行く。
日露戦争の犠牲を背負うて
二十七年、日清戦争が勃発、乃木少将は歩兵第一旅団長として旅順要塞を攻撃し一日で陥落させるなど様々な武勲を揚げた。
二十八年には中将に昇進し歩兵第二師団長に任じられ、日清講和後の台湾平定作戦の救援に赴き平定する。
二十九年十月、乃木は第三代台湾総督に任命される。だが謹厳潔白な乃木総督の施政方針は、日本人官吏との軋轢を生み、曽根静夫民政局長と事毎に対立し、外国権益接収問題等で中央政府とも対立し、三十一年二月に台湾総督を免職となった。
七ヶ月の休職の後、新設第十一師団長に任じられ、乃木は自らの信念を麾下将兵に教育訓練する格好の場を得た。
しかし、三十四年五月、前年の北清事変出征時に起こった「馬蹄銀分捕事件」関し、麾下大隊将校にもその嫌疑がかけられた事を深く恥じた乃木は、辞表を提出し休職となる。
乃木は東京と那須野の別邸とを往復しつつ晴耕雨読の生活を送った。だが、休職中でも乃木は大演習には必ず参加した。明治天皇は、
「乃木は他のものと心掛けが違っておる。多くの者は休職になるとか、予後備に編入されれば遠くで挙行する演習地には出かけぬ。出かけてもただ後方にあるのみであるが、乃木のみは決して左様でなく、いかなる遠い場所にでも必ず来ておる。来ておるのみでなく、士卒と労苦をともにしていつでも第一線にあって視察しておる。」と側近の者に仰られたという。
●大君の今日みそなはすいくさだち人もいさめり駒もいさめり(三十五年十一月九州大演習の時の歌か)
この間、ロシアは満州を占領し、朝鮮半島にもその魔手を伸ばし、遂にわが国は国運を賭して日露戦争を決断した。休職中の乃木にも再び重い任務が命じられる事となった。
●花を待つ身にしあらねど高麗の海に春風ふけといのるものかな(日露戦役出征前、留守近衛師団長時)
●此侭に朽もはつべき埋木の花咲春に逢ふぞ芽出たき(三十七年四月四日)
三十七年五月二日、乃木は第三軍司令官に任じられ、六月には陸軍大将に昇任した。
その十日ほど前、広島で出港を待つ乃木の下に、金州に於ける長男勝典戦死の報がもたらされた。大連上陸後金州の戦場で乃木大将は漢詩を詠んだ。
●山川草木転た荒涼 十里腥し新戦場
征馬前まず人は語らず 金州城外斜陽に立つ
第三軍の任務はロシアが構築している旅順要塞の攻略だった。
日本陸軍は当初、旅順の露兵は封じ込めたままで、満州広野での決戦に臨むという戦術で、旅順要塞攻略に関する研究は練られていなかった。
だが、海軍からの要請で旅順港内に逃避している露国旅順艦隊撃滅の為に、陸上からの旅順攻略が決定したのだった。国民の視線は乃木第三軍に集り、しかも日清戦争時の体験から直ぐに攻略出来るものと期待した。
だが、ロシアは難攻不落の要塞を築いて居り、日本軍の前に立ち塞がった。八月に行われた第一回総攻撃は、日清戦争を踏襲する五万名余の野戦的強襲で攻撃し、戦死五〇一七名・戦傷一〇八四三名の犠牲を払うが失敗に帰した(ロシア側は戦死約一五〇〇名・戦傷約四五〇〇名)。
この失敗から、第三軍は急遽攻城正攻法を研究し、要塞近くまで壕を掘って近づいて攻撃する戦法に変更した。又、28サンチ砲を投入して火力の破壊力を増大させた。かくて十月下旬第二回総攻撃が四万四千名で行われ、戦死一〇九二名、戦傷二七八二名に達したが、一戸堡塁の占拠以外に戦果は無く、再び失敗に帰した。だが、ロシア側も戦死六一六名・戦傷四四五三名に達し、損害人数では日露が逆転した。
十一月中旬に明治天皇から三回目の優詔が下り、「成功ヲ望ム情、甚ダ切ナリ」とあった。乃木大将は「将卒一致、深ク、聖旨ヲ奉戴シ、誓テ、速カニ、軍ノ任務ヲ遂行センコトヲ期ス」と奉答した。
横山達三『大将 乃木』には乃木大将の事を「敵塞突撃の前、必ず大隊長以上の将校は、一々、之を招きて、別々に重任を託し、『何卒、宜しく頼む』と手を下げて、極めて丁寧にいふ。彼の部下たる者、此に至って、感奮して死を忘るる也」と記されている。
十一月下旬から開始された第三回総攻撃では、二十七日に攻撃目標を二百三高地に転換し、総力をその攻略に集中した。壮絶なる争奪戦の結果、戦死者五〇五二名、戦傷者一一八八四名を出して、遂に二百三高地を占領した。ロシア側も戦死者五三八〇名、戦傷者約一万人を出した。その結果、ロシア側は要塞防衛への十分な人員投入に困難を来たす様になる。わが軍は、旅順港が一望出来る二百三高地に観測点を設け、旅順港内の露国艦隊を砲撃して壊滅させた。
この戦いの最中、次男保典が戦死し、乃木大将は息子全員を失った。旅順攻略が長びく間、東京の乃木邸に対し投石や口汚い罵りが行われたりした。十一月十七日静子夫人は居たたまれなくなって伊勢の皇大神宮に向かい、翌日未明に到着しそのまま内宮に参拝して「何卒旅順を陥落せしめ下さる様」祈念を込めた所、涼しき声で「汝の願望は叶えて遣るが、最愛の二子は取り上げるぞ」との声が聞こえたという(津野田是重『斜陽と鉄血』)。
乃木大将は二百三高地を「爾霊山」と名付け、深い感慨を以て漢詩を詠まれた。
●爾霊山険豈に攀ぢ難からんや 男子功名克難を期す
鉄血山を覆うて山形改る、万人斉しく仰ぐ爾霊山
二百三高地を陥落せしめた第三軍は、その後十二月一杯をかけて旅順要塞を一つ一つ攻略して旅順市街に迫った。
年が明けて一月一日夜に露国旅順司令官のステッセル将軍から開城を申し込む軍使が到着し、五日乃木将軍とステッセル将軍との水師営の会見となり、旅順は陥落した。会見に先立って明治天皇は「将官ステッセルが祖国のため尽したる苦節を嘉し給ひ、武士の名誉を保たしむべきことを」乃木将軍に伝えられ、水師営の会見では、露国将官にも帯刀を許して名誉を保ち、お互いの武勇を讃えあう「日本武士道の精華」が示され、世界に感動を与えたのだった。
●射向ひし敵もけふは大君の恵の露にうるほひにけり
だが、我が軍の総戦死数一万五千五百人、戦傷者数四万四千人、合わせて五万九千五百人の犠牲の代償は大きかった。乃木大将はその犠牲を全て背負って、その後の人生を歩んで行くのである。
乃木希典―軍服の聖者1
軍旗喪失(西南戦争)数万将兵の犠牲(日露戦争)その全てを背負って生きた「死に勝る苦悩」
乃木大将については、日露戦争の旅順の戦いや水師営の会見が有名だが、日露戦争後に学習院院長に任じられ、裕仁親王(昭和天皇)を始めとする三人の皇孫殿下の薫陶に当られた事についてはあまり知られていない。「聖の帝」と称せられた昭和天皇の帝王学の基礎は、乃木院長によって培われたと言って過言ではなく、昭和天皇の御聖断によって昭和の日本が救われ平成の今日がある事を考えるなら、乃木大将の遺徳は我々にも及んでいるのである。
だが、乃木大将の生涯を辿って行く時、そのあまりもの悲劇性に胸が締め付けられる思いがする。乃木希典という人物は、襲い来る悲劇から決して逃げる事無く、その凡てを背負って、実直に至誠を尽くして生きて行かれたのである。
山鹿素行・吉田松陰との深い縁
乃木希典は嘉永二年(1849)十一月十一日に江戸麻布日ヶ窪の長府藩下屋敷に於て藩士乃木希次の三男として誕生した。この長府藩邸は、「忠臣蔵」で有名な赤穂義士の内の十一名が討入り後に預けられ、切腹して亡くなった所である。その赤穂義士に影響を与えたのが、後に乃木大将が尊敬してやまなかった山鹿素行である事を考えると、生誕地に基づく因縁の深さに驚かざるを得ない。
父親の希次は文武に優れた立派な士で、長州本藩の毛利敬親公から歎賞の言葉を戴くほどであった。だが、安政五年(1858)に希次は、その剛直さが仇となって老臣の怒りを買い、江戸を追放され長府に戻された。希典十歳の時の事である。十六歳の時、学問に対する已み難い思いから萩に至り親戚の玉木文之進(吉田松陰の叔父)に学んだ。
そこで希典は、松陰の「士規七則」を徹底して叩き込まれた。乃木大将は晩年長男勝典に送った書簡の中で次の様に回想している。
●余が青年時に於て大父君及び玉木先師の常に此七則を以て教へられし事を想起すれば今尚お其恩音に接するが如し。近時殊に少尉(長男勝典)が実践躬行を励まさる可からざるの緊要事たるを認む。情深くして筆に尽さず。唯此士規七則を熟読熟思熟行せんことを勉めよ。
乃木大将は「言行一致」を説く際も士規七則を引用した。
●言行一致は人の義徳であるが、義勇がなければ到底出来得ぬ。古人(松陰)の云たる、勇は義に因て長じ義は勇に因て行はる(士規七則の第三則)と。実に義勇の二つが言行一致の根本である。(『乃木大将武士道問答』掲載書簡)
明治二年(1869)二十一歳の乃木は藩命によって伏見の御親兵兵営に入営、四年には陸軍少佐に任命される。八年に小倉の熊本鎮台歩兵第十四連隊長に任じられる。十年に西南戦争が勃発、乃木連隊は熊本城の救援に向かい田原坂で薩軍と死闘を繰り広げる。
その時、乃木の生涯を貫く痛恨の事件が起こった。薩軍抜刀隊の夜襲を受けた乃木連隊麾下三個中隊は、死傷者の続出により一時退却を決断し、連隊旗を旗手の腹に巻いて脱出を計らせた。ところが、その旗手が薩軍に斃され、連隊旗が奪われたのである。翌日、薩軍陣営の花岡山にはその連隊旗が掲げられ、薩軍は熊本城兵を嘲弄したのだった。乃木連隊長はその不名誉を詫びて切腹を計るが部下に推し留められ、待罪書を出して処分を乞うた。だが、征討総督本営は事情止むを得ない故に沙汰に及ばずと判断した。
その結果乃木は恥辱を背負って「死に勝る生の苦悩」に耐える事を運命づけられる。乃木は死地を求めて戦場に出て奮闘し、足や手を撃ち抜かれて重傷を負うが、遂に死には至らなかった。乃木二十八歳の時である。
鬱々たる思いの中で軍務に励む乃木は、三十歳で薩摩の女性静子と結婚するが、精神的な苦悶は乃木を飲酒・放蕩へと幻惑させた。十八年、乃木は三十七歳で陸軍少将・歩兵十一旅団長に任じられる。
「軍紀」は上位者に依って生ず―武士道体現の志
その様な乃木に生きる目標を自覚させる大いなる転機が訪れる。
十九年十一月三十日、乃木は川上操六少将と共にドイツ留学を命じられた。それ迄日本陸軍はフランス式の教練を採用していたが、普仏戦争の結果に鑑み、戦勝国ドイツ陸軍をモデルとする事にしたのである。そこで乃木(長州)川上(薩摩)という陸軍の俊英に日本陸軍の将来を託すべくドイツへと派遣した。川上は作戦方面の参謀部を、乃木は軍政方面の教育部を託す逸材だと考えたのである。二人は二十年一月に横浜を出港し、二十一年六月に帰朝した。
帰朝後乃木は陸軍当局に対し、心魂を傾けて記した長文の意見書を提出した。乃木四十歳の時である。その中で乃木は、「上流高等に居る者」の責任の重大さを指摘した。
●厳正なる軍紀の中に安んじ、自ら実務に堪へ、其当否を判別する(略)其言行、動作を部下の標準、模範と成し、己の得る処を以て部下を教育するの責任を負はざる可からず。下流の善美は上流の標準、模範に依て望むべし。
更に、軍隊の精神的基礎となる「徳義教育」は、欧州各国では宗教に基づくが、宗教が力を失っているわが国では「皇統万世なる 今上陛下の威徳」を拠り所とすべきであり、
●宜しく徳義と名誉を勧めて、全軍の軍紀を厳正にし、即ち我が陸軍の大元帥たる 天皇陛下の威武、仁徳を軍隊に拡充し、上下軍人に忠君愛国の念を固ふし、名誉を貴ぶの心を奨励し、之を全国臣民に普及し、尚武、名誉の志操を発達せしむる
事の重要性を説いている。乃木は、プロシアが今日の精強に至ったのは、「戦術編制の改良と、徳義を重んじ名誉を貴ばしむるの両途に」あると指摘する。更に、乃木は、ドイツ軍人が「居住必ず其制服を脱せざる」のは、その名誉を重んじる為である事を紹介し、「唯に部下の模範となるべきのみならず、徳義、礼節一国社会の上流に立ちて、一般の標準とな」る使命が軍人にある事を強調した。
ドイツ留学から帰った乃木は、天皇の大御心を体し、軍隊のみならず社会の徳義の模範となるべき使命を自任し、生活の全てにおける謹厳さを自らに課したのである。
『乃木大将武士道問答』の中でも乃木大将は次の様に語っている。
●武士道は予等の宗教にして忠君を以て緯と為し本分を尽すを以て経と為し行ふに信義真実の心を以て(す)
●軍人が名誉を発揚せざるべからざるは大元帥陛下に尽し奉らんが為にして決して自己の栄達自己の幸福の為に非ず。
爾来乃木は、軍人勅諭で天皇が諭された「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」の徳目及びそれらの元となる「誠心」を体現する「将軍」としての生き方を生涯求め続けて行く。
日露戦争の犠牲を背負うて
二十七年、日清戦争が勃発、乃木少将は歩兵第一旅団長として旅順要塞を攻撃し一日で陥落させるなど様々な武勲を揚げた。
二十八年には中将に昇進し歩兵第二師団長に任じられ、日清講和後の台湾平定作戦の救援に赴き平定する。
二十九年十月、乃木は第三代台湾総督に任命される。だが謹厳潔白な乃木総督の施政方針は、日本人官吏との軋轢を生み、曽根静夫民政局長と事毎に対立し、外国権益接収問題等で中央政府とも対立し、三十一年二月に台湾総督を免職となった。
七ヶ月の休職の後、新設第十一師団長に任じられ、乃木は自らの信念を麾下将兵に教育訓練する格好の場を得た。
しかし、三十四年五月、前年の北清事変出征時に起こった「馬蹄銀分捕事件」関し、麾下大隊将校にもその嫌疑がかけられた事を深く恥じた乃木は、辞表を提出し休職となる。
乃木は東京と那須野の別邸とを往復しつつ晴耕雨読の生活を送った。だが、休職中でも乃木は大演習には必ず参加した。明治天皇は、
「乃木は他のものと心掛けが違っておる。多くの者は休職になるとか、予後備に編入されれば遠くで挙行する演習地には出かけぬ。出かけてもただ後方にあるのみであるが、乃木のみは決して左様でなく、いかなる遠い場所にでも必ず来ておる。来ておるのみでなく、士卒と労苦をともにしていつでも第一線にあって視察しておる。」と側近の者に仰られたという。
●大君の今日みそなはすいくさだち人もいさめり駒もいさめり(三十五年十一月九州大演習の時の歌か)
この間、ロシアは満州を占領し、朝鮮半島にもその魔手を伸ばし、遂にわが国は国運を賭して日露戦争を決断した。休職中の乃木にも再び重い任務が命じられる事となった。
●花を待つ身にしあらねど高麗の海に春風ふけといのるものかな(日露戦役出征前、留守近衛師団長時)
●此侭に朽もはつべき埋木の花咲春に逢ふぞ芽出たき(三十七年四月四日)
三十七年五月二日、乃木は第三軍司令官に任じられ、六月には陸軍大将に昇任した。
その十日ほど前、広島で出港を待つ乃木の下に、金州に於ける長男勝典戦死の報がもたらされた。大連上陸後金州の戦場で乃木大将は漢詩を詠んだ。
●山川草木転た荒涼 十里腥し新戦場
征馬前まず人は語らず 金州城外斜陽に立つ
第三軍の任務はロシアが構築している旅順要塞の攻略だった。
日本陸軍は当初、旅順の露兵は封じ込めたままで、満州広野での決戦に臨むという戦術で、旅順要塞攻略に関する研究は練られていなかった。
だが、海軍からの要請で旅順港内に逃避している露国旅順艦隊撃滅の為に、陸上からの旅順攻略が決定したのだった。国民の視線は乃木第三軍に集り、しかも日清戦争時の体験から直ぐに攻略出来るものと期待した。
だが、ロシアは難攻不落の要塞を築いて居り、日本軍の前に立ち塞がった。八月に行われた第一回総攻撃は、日清戦争を踏襲する五万名余の野戦的強襲で攻撃し、戦死五〇一七名・戦傷一〇八四三名の犠牲を払うが失敗に帰した(ロシア側は戦死約一五〇〇名・戦傷約四五〇〇名)。
この失敗から、第三軍は急遽攻城正攻法を研究し、要塞近くまで壕を掘って近づいて攻撃する戦法に変更した。又、28サンチ砲を投入して火力の破壊力を増大させた。かくて十月下旬第二回総攻撃が四万四千名で行われ、戦死一〇九二名、戦傷二七八二名に達したが、一戸堡塁の占拠以外に戦果は無く、再び失敗に帰した。だが、ロシア側も戦死六一六名・戦傷四四五三名に達し、損害人数では日露が逆転した。
十一月中旬に明治天皇から三回目の優詔が下り、「成功ヲ望ム情、甚ダ切ナリ」とあった。乃木大将は「将卒一致、深ク、聖旨ヲ奉戴シ、誓テ、速カニ、軍ノ任務ヲ遂行センコトヲ期ス」と奉答した。
横山達三『大将 乃木』には乃木大将の事を「敵塞突撃の前、必ず大隊長以上の将校は、一々、之を招きて、別々に重任を託し、『何卒、宜しく頼む』と手を下げて、極めて丁寧にいふ。彼の部下たる者、此に至って、感奮して死を忘るる也」と記されている。
十一月下旬から開始された第三回総攻撃では、二十七日に攻撃目標を二百三高地に転換し、総力をその攻略に集中した。壮絶なる争奪戦の結果、戦死者五〇五二名、戦傷者一一八八四名を出して、遂に二百三高地を占領した。ロシア側も戦死者五三八〇名、戦傷者約一万人を出した。その結果、ロシア側は要塞防衛への十分な人員投入に困難を来たす様になる。わが軍は、旅順港が一望出来る二百三高地に観測点を設け、旅順港内の露国艦隊を砲撃して壊滅させた。
この戦いの最中、次男保典が戦死し、乃木大将は息子全員を失った。旅順攻略が長びく間、東京の乃木邸に対し投石や口汚い罵りが行われたりした。十一月十七日静子夫人は居たたまれなくなって伊勢の皇大神宮に向かい、翌日未明に到着しそのまま内宮に参拝して「何卒旅順を陥落せしめ下さる様」祈念を込めた所、涼しき声で「汝の願望は叶えて遣るが、最愛の二子は取り上げるぞ」との声が聞こえたという(津野田是重『斜陽と鉄血』)。
乃木大将は二百三高地を「爾霊山」と名付け、深い感慨を以て漢詩を詠まれた。
●爾霊山険豈に攀ぢ難からんや 男子功名克難を期す
鉄血山を覆うて山形改る、万人斉しく仰ぐ爾霊山
二百三高地を陥落せしめた第三軍は、その後十二月一杯をかけて旅順要塞を一つ一つ攻略して旅順市街に迫った。
年が明けて一月一日夜に露国旅順司令官のステッセル将軍から開城を申し込む軍使が到着し、五日乃木将軍とステッセル将軍との水師営の会見となり、旅順は陥落した。会見に先立って明治天皇は「将官ステッセルが祖国のため尽したる苦節を嘉し給ひ、武士の名誉を保たしむべきことを」乃木将軍に伝えられ、水師営の会見では、露国将官にも帯刀を許して名誉を保ち、お互いの武勇を讃えあう「日本武士道の精華」が示され、世界に感動を与えたのだった。
●射向ひし敵もけふは大君の恵の露にうるほひにけり
だが、我が軍の総戦死数一万五千五百人、戦傷者数四万四千人、合わせて五万九千五百人の犠牲の代償は大きかった。乃木大将はその犠牲を全て背負って、その後の人生を歩んで行くのである。
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